其ノ拾六 ~鬼狩ノ夜 其ノ参~
炬白の言葉が、反響するかのように頭の中で繰り返される。
――世界が、終わるかも知れない。確かに彼は、そう私に告げたのだ。そんな事を言われても、普通の人ならばまず受け入れないと思う、下らない戯言だと一蹴されて当たり前の事。だけど私には……信じられた。
だって私は二年前も、そして今も、異常な状況の中にいるのだから。
「それって、どういう事なの……!?」
炬白の横顔に問いかける、けれど炬白は、はっきりと教えてはくれなかった。
「パンドラの箱を開けようとしている奴がいるんだ……何としても、止めないと」
炬白の口から思いもしない単語が出てきて、私は息を呑む。
今、彼は確かに『パンドラの箱』と言った。私が知る限り、それはギリシャ神話に登場する、この世の災いが詰められた箱の事。
その時、私の脳裏に何かが引っ掛かった。
「まさか、こんな事を引き起こしたのも、その……?」
昏倒した私の友達や、水鷺隝の人達。そして突如現れた大量の生魂鬼、それらは全て誰かが、炬白の言う『パンドラの箱を開けようとしている奴』が仕組んだ事なのだろうか。
炬白は私と視線を合わせて、鎖を両手で張る。
「恐らくは、そうだね」
冷静な口調だったけれど、炬白の表情には険阻さが垣間見える。内心では、彼が危機感を募らせているのが分かった。
「とにかく時間がない。姉ちゃん、進もう」
「うん……!」
天照を握り締め、私は炬白の小さな後ろ姿を追う。
◎ ◎ ◎
生魂鬼達の猛襲を退けて、私と炬白はようやく水鷺隝大彌國神社にたどり着く。ここに来るのはこれで三度目、巨大な本殿が霧を纏い、私達を見下ろしていた。
ここには生魂鬼の姿は無い、それを確認して私は一先ず安心する。
「やっと着いたね……」
炬白が言う。思えば、生魂鬼達の猛襲は異様なしつこさを感じさせた。まるで何かを守っているかのような、私と炬白をこの場所に、世界遺産にも登録されている神社に向かわせないという意志でもあるかのような……。
「姉ちゃん、怪我はない?」
炬白に問われて、私は頷いた。確かに疲れたけれど、私はどこにも手傷は負っていない。
「私は大丈夫」
内心では少し休憩が欲しかったけれど、そんな事を言っている状況ではなかった。
去勢を張ってみせても、疲れを隠せている自信は無い。
「それじゃ、行こうか」
再び炬白の背中を追い、私は歩を進め始める。
柚葉を探しに来た時のような、あの水の中に入ったような奇妙な感じを覚えるのではと、恐る恐る石畳に踏み入る。
けれど、今度は何も起こらなかった。やはりあれは気のせいか、それとも幻か何かだったのだろうか?
「はっ……?」
突如、何かに気付いたかのような声を、炬白が発する。私が霧の中に人影を捉えたのは、恐らく同時だっただろう。
子供のような小さな人影――霧が意思を持っているかのように、徐々にその人物から離れていく。
次第に実体が見えてくる。小さな体を包む灰色の着物、長く切り揃えられた黒髪、女の子にも男の子にも見えるその顔。
「あっ……!?」
ひと目で分かった。柚葉を探しにこの神社に来た時に会った、あの男の子だ。
容姿も、その身に纏う異様な雰囲気も、最初に会った時と何ら変わらない。名前は、確か……思い出そうとした私に先立つように、炬白が発した。
「焔咒……!」
私は思わず、ぞっとする。
炬白は優しくて、頼りがいのある子だった。そんな彼の口から、こんな敵意に満ちた言葉が発せられるなんて、思っていなかった。
「一体、何をするつもりだ?」
炬白とあの子は、焔咒は知り合いなのだろうか? と、私は二年前に炬白が言っていた事を思い出す。そう、精霊同士は皆友達なのだ、炬白は確かにそう言っていた。
だけど、炬白の声色は険阻な雰囲気を帯びていて、とても友達に向けるような物じゃない。
「っ……」
私は、彼らの会話の成り行きを見守る事にした。
前に会って少し話しただけでも、私は彼が……焔咒が私の知る『精霊』とは似て非なる存在なのだという事を感じ取っていたから。
「……ふふ」
焔咒の顔が、幼さに見合わない冷酷な笑みをたたえた。
その瞳からは、純粋さも無垢さも感じられなくて、私は魔物か何かに見つめられているような気分になる。全身に緊張が走り、思わず唾を呑み込んだ。
「復活させるのさ……『溟海の鬼姫』をね」
「溟海の鬼姫……?」
聞き慣れない言葉に、私は問い返した。
すると焔咒が、再び口を開く。
「役者も舞台も、もう整ってる……あとは最後のひと押しだけさ……!」
風も無いのに、焔咒の黒髪や着物が揺らぎ始める。
次の瞬間、焔咒の両手に数枚の、紙幣程の大きさの紙が現れた。紙……? いや、あれは『札』だ。禍々しさを感じさせる図形や、意味不明な文字がびっしりと描かれているのが分かる。
あれで何を……と思った瞬間、全ての札が血のように赤い光を発して、焔咒が両手を振りかぶった。
「姉ちゃん、危ない!」
焔咒の手から札が放たれた瞬間、炬白が私の腕を引く。
次の瞬間、私が立っていた位置を、まるで見えないレールでもあるかのように札が通過した。札は後方の地面に着弾し、爆発とともに石畳を深く抉り取る。
「これは……!?」
常人には到底成し得ない業、これは恐らく――と、炬白が言う。
「呪符だね。あいつの……焔咒の霊具だよ」
超常的な力を秘めた道具、それが霊具。炬白の持つ鎖や、私の天照もそう。
「よく避けたね、だけどお楽しみは……これからさ」
焔咒がそう言った瞬間――。
「っ!?」
肌に触れる空気が、突如重く、そして冷たくなった。全身を凍り付くかのような悪寒が走り抜け、心臓を鷲掴みにされている気分になった。
後ろに、誰かがいる。この異様な感覚を私にもたらしている、誰かが。
誰? 一体誰なの……? 私は恐る恐る振り返る。
見知った後ろ姿が、霧の中に佇んでいた。
「……柚葉?」
私と同じ制服、そしてウェーブのかかった亜麻色の髪が、風に揺れているのが分かる。
間違いない、昨晩から行方が分からなくなっていた、柚葉だ。だとしたら、この感覚は何なのか。何故、柚葉からこのような異様な雰囲気を感じるのか。
冷や汗を頬に伝えながら、私は彼女へ声をかける。
「柚葉、皆探してたよ……」
声が震えている事に気付く。良好な交友関係にあったとはとても言えないけれど、これまで何度も言葉を交わしてきた筈。だけど、まるで初対面の人間と話すかのような気分だった。
得体の知れない冷たさ、そして威圧感が、柚葉の背中から感じられたのだ。
「ねえ、柚葉……」
もう一度声を発し、柚葉に歩み寄ろうとした瞬間、炬白が突然私の前に歩み出た。
「姉ちゃん、近づかないで!」
「えっ……?」
鬼気迫るような彼の声に、私は困惑する。柚葉に近づく、ただそれだけの行為を、どうしてそこまで強く制される必要があるのだろうか。
彼女が漂わせているこの異様な雰囲気と、何か関係があるのだろうか? その仮説に至った私は、もう進み出る事は出来なかった。
私に出来る事は、思い過ごしである事を願いながら、ただ柚葉に声を発する事だけだった。
「柚葉……柚葉!」
返事は、無かった。そう、数秒後にその声が私の鼓膜を揺らすまでは。
「……あは」
沈黙し続けていた柚葉が、発した。
「あははははははは……」
――笑っている。
次の瞬間、壊れてしまったかのような、全ての終わりを告げるかのような、大きくて長い笑い声が周囲を支配した。
聴き慣れている筈の柚葉の声、だけど聞いた事のない悍ましい笑い声。
「あはははははははははははははははははははははは!!!!!」
そして、柚葉が振り返り――その顔を見た瞬間、私は絶句した。