其ノ拾四 ~鬼狩ノ夜 其ノ壱~
この真剣をもう一度握る事になるだなんて、思っていなかった。
悪夢はもう二度と来ない、これから先、人生の中で自分があんな出来事に巻き込まれる事なんてありえない。だからもう、この天照は必要ない。そう思っていたのに。
そんな私の考え――言い方を変えれば願望は、最悪の形で打ち砕かれる事になった。最初のそれよりも、遥かに恐ろしい怪異が訪れたのだ。
朱美に日和に、水鷺隝の他の人達。全員の命が危険に晒されている。加えてここには無数の鬼が、生魂鬼が蠢いている。逃げ場なんて、どこにも無い。
ついさっきには殺されかけて、そして今、大勢の人の命の行方を背負わされている。普通の人ならおかしくなっちゃっても不思議じゃないと思う。
だけど、私は自分でも驚く程に冷静だった。そして、この状況に立ち向かう勇気を持てていた。
きっと目の前に、彼が居るからだと思う。
「じゃあ姉ちゃん、行こうか」
友達を誘うような無邪気な声、そして彼は――炬白は腰に下げた銀色の鎖を手に取って、ムチを張るようにビンッと両手で伸ばす。
そして、彼が口を開いたと思うと、
「唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽……」
二年前に確かに聞いた、けれど相変わらず聞き取れない呪文。
それが唱えられると次に何が起こるのか、私は知っている。炬白が持つ鎖が、淡い紫色の光を放ち始める。彼が有する能力、精霊としての力だ。
今の彼は、鬼に立ち向かうだけの力を備えている。そして、それは私も同様だ。
「ふっ……!」
私は天照を、今の状況を打開する武器とも言える真剣を鞘から引き抜いた。眩い銀色の刃がその姿を現した瞬間、不思議な事に重量を感じなくなる。まるで、天照が意思を持ち、私を戦いへ導いているかのよう。
そして、すぐに『敵』は私達の所へ現れた。
『ァ……ァ……ァ……』
不気味な声が合唱のように重なり、嫌でも私の鼓膜を揺らす。
真っ白な霧の中に浮かぶ無数の人影、ゆらゆらと歩み寄ってくるその様子は、まるで魂を失った抜け殻のよう。
「凄い数だね……だけどもう、逃げる必要は無いよ」
炬白の言葉に、私は天照の鞘を投げ捨てた。
両手で天照を構えつつ、いつも剣道の試合の直前にするように、深呼吸をする。
ざっと見ても、私と炬白に迫り来る化け物――生霊鬼はかなりの数だ。数十……いや、百以上は居るのかも知れない。
異様に白い肌に、空洞のような眼窩。その姿を見ているだけでも恐怖が呼び起こされるけれど、それでも私に引き下がるという選択肢は無い。
私が何とかしなければ、大勢の人達の身が危ういのだから。
「うん……!」
炬白に応じる。
私は、朱美達の事を思い返した。行方不明になった柚葉を探しに行く、私がそんな無謀な提案をした時もついて来てくれた、私の大事な友達。彼女達だけでなく、多くの人々の命が危機に立たされている。
戦う理由は、それだけで十分だった。
「絶対、助けてみせる……!」
天照を握る両手に、力が篭った。
一番先頭に居た生魂鬼が追い迫って来たのは、その直後だった。
「っ……!」
目前でその姿を見た瞬間、克服したと思っていた恐怖が全身を凍り付かせる。けれど、
「姉ちゃん!」
炬白の言葉が、私は我に帰った。
今はもう逃げる時でも、恐怖に怯える時でもない。戦う時なのだ。
「はあッ!」
素早い動作で天照を振り抜き、生魂鬼の身を両断する。
すると、私に迫っていた生魂鬼が煙のようにその身を歪ませ、空気に溶け入るように消滅する。全く手応えを感じなくて、まるで霧を切っているかのようだった。
休んでいる暇は無かった。続けざまに更に生魂鬼が迫ってきて、私は再び天照で切り払う。
「二年前より上手くなってるね、さすが姉ちゃんだよ」
炬白が私の剣さばきを賞賛する。
すると彼は紫の光を纏う鎖を、まるでカウボーイのように回し始める。次の瞬間、彼は片足を踏み出して勢いを付けながら、鎖を前方へと放った。鎖は離れた位置に居た生魂鬼に命中して、同時に紫色の火花が散る。その一撃を受けた生魂鬼が、一瞬と呼べる内に消滅した。
二年前、炬白と一緒に戦った時にも見た技だ。だけどあの時より素早く、そして正確になっている気がした。
「炬白もね……!」
彼に返しながら、私は再び迫ってくる新たな生魂鬼達に視線を移す。
そして、言葉を失った。
朱美、日和――そして他の友達だった。続いて迫ってきたのは、皆私の友達の姿をした、生魂鬼だったのだ。
『ァ……ァ……ァ……』
間際で発せられた不気味な声が、頭の中で何度も跳ね返るようだった。
「ぐっ……!」
姿は同じでも、私の友達とは全く違う存在。近づかれれば、殺される。
頭では分かっていても、躊躇ってしまった。天照を構え直そうとした瞬間には、白い腕が私に届こうとしていた。
「姉ちゃん、伏せて!」
言われるまま、私は膝を折って姿勢を低める。次の瞬間、横向きに振られた鎖が私の頭上を通過して、私に迫っていた生魂鬼全てを消滅させた。
朱美や日和達の顔が歪んで消えていく様子に、寒気とも恐怖とも分からない感覚に支配される。
もし、生魂鬼ではなくて本当の友達だったら。本物の朱美や日和が、こんな風に本当に私を殺そうと迫ってきたら。そう考えただけで、頭がおかしくなりそうだった。
「大丈夫?」
鎖を自分の手に引き戻しながら、炬白が私の顔を見上げてくる。
私は出来るだけ平静を装い、応じた。
「うん、大丈夫……!」
本当は、平気だとは言い難かった。
けれど今は、弱音を吐いているような状況じゃないのだ。炬白は頼りになるけど、彼に守られているだけではいけない。私も戦わなければならない、そう自分を戒める。
「気分悪くなったりしたら、言ってね」
炬白に気遣われ、私はただ頷く事しか出来なかった。