其ノ拾参 ~再会~
「ひっ! ……んっ!」
突然手首を掴まれて悲鳴を上げようとした瞬間、今度は世莉樺の口が塞がれた。
途端、今度は強引に身を引かれ、世莉樺はパニックに陥る。壮絶に身動きするが、世莉樺を捉えている者は決して彼女を離そうとはしなかった。
(嫌だ、やめて! 離して!)
口で出せない言葉を、心中で発する。
今自分を拘束している者は、自分に危害を加えるつもりだ。振りほどいて逃げなければ殺される、世莉樺の防衛本能が、そう告げていた。
恐怖に駆られた世莉樺は無我夢中で、相手の顔を見る事すら忘れていた。
「落ち着いて姉ちゃん、オレだよ」
驚く程に穏やかで、そして聞き覚えのある声。
「っ……?」
世莉樺は暴れるのをやめ、ゆっくりと目を開ける。そして、すぐにその少年と視線が重なった。
「あ……!」
思わず、声が出てしまう。
すると彼は世莉樺の手首と口から手を離し、小さく頷いた。
歳の頃十歳程度の、幼い少年だ。こげ茶色の豊かな髪はハリネズミのように跳ね、黒地に白の絣模様があしらわれた着物を着ていた。何よりも目を引くのは、数度折り返す形でその腰に掛けられた、銀色の長い鎖だろう。
どこかやんちゃそうで、それでいて年相応の無垢さを放っている彼。世莉樺は彼を知っていた。
「炬白……!」
世莉樺が口に出して彼を、『炬白』を呼ぶと、炬白は「静かに」と言って制する。
そして炬白は、井戸の側に立っていた木の陰に押し込む形で、世莉樺を押す。次の瞬間、目の前にあの人の姿をした化け物が歩み出てきた。
「ひっ……」
先程の体験が脳裏に蘇り、世莉樺は表情を恐怖に染めた。
すると炬白は、ささやくように「大丈夫だよ」と呟いた。不思議な事に、彼のその言葉だけで恐れの感情が薄らいでいく。
化け物は周囲を見渡すと、ゆっくりとどこかへ去っていった。
「とりあえず、一安心だね」
そう言うと、炬白は世莉樺の目を見つめた。
予期せぬ再会に、世莉樺は言葉が出ない。すると炬白は先んじるように、口を開いた。
「久しぶりだね姉ちゃん、また会えて嬉しいよ」
語りかけられた誰もが勇気を持てそうな、優しくて穏やかな声色。数年前に初めて会った時と、何も変わらなかった。
炬白は、さらに続ける。
「遅くなってごめん、怖い思いをさせたね」
世莉樺は、自分の心を満たしていた恐怖が一気に消えていくのを感じた。
そして、代わりに嬉しさと安心感が込み上げる。自分を救ってくれる存在を切望していた世莉樺、そんな中現れた彼は、十分過ぎる助け舟だったのだ。
「うっ……」
世莉樺は思わず、瞳に涙を浮かべる。すると炬白は微笑みながら、自分の胸を軽く叩いて「もう大丈夫だよ」と言った。
彼の笑顔が、優しさが、世莉樺の堰を切った。
思わず世莉樺は、自分よりも年下であろう(あくまで外見的にだが)炬白に抱きついた。
「わ、っと……!」
炬白は戸惑ったような声を発したが、拒もうとはしなかった。
「怖かった……!」
異常体験の中、自分を助けてくれる存在の登場が嬉しかったのは確かだ。さらに世莉樺には、単純に炬白ともう一度会えた事が嬉しかった。
世莉樺は以前炬白に命を救われ、そして多大な恩を受けた。彼が人ではない存在、『精霊』だと分かっていても、世莉樺にとって炬白は間違い無く大切な人。そして炬白の心強さを、数年前の怪異を通じて世莉樺は知っていたのだ。
十数秒、炬白は何も言わずに世莉樺に体を預けていてくれた。
「……あの、姉ちゃん」
と、不意に呼ばれて、世莉樺は炬白を抱きしめたまま応じる。まだ、彼女の涙は乾いていなかった。
「ぐすっ……ん?」
炬白の顔を見ると、彼は赤面しながら世莉樺から視線を外した。
「照れるよ」
炬白の言葉は、抱きつかれて、という意味なのだろうと思ったが、
「その……おっぱい」
直後、世莉樺は自身の豊満な乳房が炬白の胸に押し付けられ、その形を歪ませていた事に気付いた。炬白との再会に感極まるあまり、そこまで気が回らなかったのだろう。
世莉樺の顔が、林檎のように赤くなる。
「あ……ごご、ごめん炬白!」
慌てて離れつつ、以前にもこんなやり取りを交わした事があると、世莉樺はどこか懐かしさを覚えた。
炬白は、微笑んだ。
「姉ちゃんと居ると、やっぱ楽しいな」
幼い外見に相応な、純粋で無垢な笑顔。
思わず世莉樺もつられて、笑みを浮かべてしまう。恐怖に晒されていた先程は、まさかこんな笑顔になれるだなんて思っていなかった。
「さて、けどそろそろ行かないとね……同じ場所に留まってると、あいつらが集まってきそうだし」
そう告げた炬白の表情は真剣さが浮かんでいて、もう笑みは無い。
彼の『あいつら』という言葉が誰を指しているのかを察した世莉樺は、すがりつくように問う。
「炬白! 一体何なのあれ、朱美や日和……私の友達とか、他の人達の姿をしてる……!」
人の姿――世莉樺の友人である朱美や日和の姿をしていたが、間違い無く違う化け物達。今も世莉樺を探して、多数で水鷺隝を彷徨っているであろう存在の正体を、世莉樺は炬白に尋ねた。
何となく答えに予想はついていたが、訊かずにはいられなかったのだ。
「『生魂鬼』……鬼の一種だよ」
炬白の返答は、想像通りと言って間違い無い物だった。世莉樺は、背中に氷水を流し込まれたような気持ちになる。
「生霊って言った方が想像しやすいかな。生者の魂を吸収して、そこから生み出される鬼なんだ。姉ちゃんが前に遭遇した本物の鬼に比べればその力は弱いけど……それでも人を殺めるだけの力はあるよ」
先程、日和の姿をした生魂鬼に殺されそうになった体験を思い出し、世莉樺は唾を飲み込む。
その時世莉樺は、最も重大であろう事を思い出した。
「ねえ炬白、本物の朱美とか日和とかはどうなるの!? まさか、まさか……!」
昏倒している友人達や、他の人々はどうなってしまうのか。一刻も早く答えが欲しかった。
「安心して姉ちゃん、助ける事は出来るから。姉ちゃんの友達も、他の人達もね」
ほんの僅かな安堵を覚えたが、炬白の次の言葉にかき消される。
「だけど……急がないと手遅れになる」
それがどういう意味なのか、何故こんな事態が発生したのか、炬白に尋ねたい事は沢山あった。けれど炬白は質問させる間も無く、次の言葉を発した。
「とにかく姉ちゃん、まずはここから移動しよう。思い当たる場所があるんだ」
「え……だけど炬白、今動いたら……!」
水鷺隝には今、無数の生魂鬼が世莉樺を探して蠢いている。動けば必ず見つかり、捕まり、そして殺されるだろう。今の世莉樺には、鬼に立ち向かう術は無いのだから。
「大丈夫だよ」
そう言うと、炬白は草陰を探って何かを取り出す。
彼が両手に持って差し出した物を見て、世莉樺は驚いた。
「炬白、これって……!」
傷だらけの暗い青色の鞘に収められた、古びた真剣だった。
「そう。姉ちゃんの霊刀……天照だよ。さあ、姉ちゃん」
疑問は尽きなかった。
けれどまるで導かれるかのように、その真剣に呼ばれるかのように、世莉樺は天照に右手を伸ばし、そして彼女は天照を掴んだ。
得体の知れない冷たさと共に、これで自身にとって二度目となる怪異が、恐怖との戦いが始まった事を知った。




