其ノ拾 ~血涙ノ惨劇~
「……?」
突然目の前に広がっていた光景を、世莉樺は理解出来なかった。
先程まで、彼女は神社に居た筈だった。しかし今、世莉樺は海辺に立っている。水面に月の光が反射しており、潮の匂いを含んだ風が世莉樺の黒髪を揺らしていた。
(ここは……水鷺隝?)
世莉樺の予感は、数秒も経たずに確信へと変わった。
間違いない、ここは水鷺隝だ。世莉樺が今宿泊研修で訪れている、世界遺産の神社がある場所だ。
ふと、世莉樺の脳裏に先程の出来事が蘇った。
そう。あの得体の知れない少年、恐らくは精霊である彼、焔咒の仕業だ。彼の手によって、自分はこの場所へ強制的に『転移』させられたのだ。
それは普通に考えれば有り得ない話、馬鹿馬鹿しい空想に他ならないだろう。だが、世莉樺には違うのだ。
数年前、他ならぬ世莉樺自身が超常的な体験をしているのだから。
(本当に、本当にまた……あんな事が……!)
受け入れたくなかった。けれど、受け入れるしかなかった。
既に、世莉樺が体験した怪異を彷彿とさせる出来事が幾つも彼女の身に降り掛かっている。それらは動かぬ証拠であり、世莉樺に異常体験の再来を告げていた。
負念と悲劇が渦巻く悪夢が、また始まろうとしているのだ。
「あれは……!?」
考え事に浸っていた世莉樺の視界に、何かが映る。
それは、明かりだ。夜闇に浮かび、ゆらゆらと揺れる篝火が放つ仄かな光なのだ。
何かを感じた世莉樺は、その光の下へ駆け寄る。すぐに明かりの源が一つではない事に気付く。十数個にも及ぶ篝火が燃やされ、夜の帳がおりた海辺の一部を区切っていた。
そして世莉樺は目の当たりにした。
(何、これ……)
異様極まるその光景に、我が目を疑う。
そこには、数えるのも馬鹿馬鹿しくなる群衆があった。見渡せば、人々が皆一昔前の装いをしている事が分かる。歴史の教科書に載っている百姓、例えるならそんな所だ。何にせよ、現代の文化からは考えられない出で立ちである。
人々は、皆騒ぎ立てていた。耳を澄まさなくても、彼らが何を叫んでいるのかは聞き取れた。
(やだ、この人達何でこんな……!)
世莉樺は思わず、表情をしかめる。原因は、群衆を成している数多の人々が口にしている言葉だ。
そこに居る人々は、皆尋常ならざる面持ちで叫んでいた。
――『殺せ』と。
憎悪と悪意を剥き出しにする者達が見ている先を、世莉樺は視線で追った。
一体、何だというのか。これ程多くの人々が凄まじい怒りを向けるに値する存在とは、何なのか。
「えっ……!?」
世莉樺は、驚愕した。
なおも喚き立てる人々の先に居たのは、小さな子供達だ。
五人、六人、七人……ざっと見ただけで十人近くの、罪人にも見えない無垢で幼い少年や少女達が、地面に打ち付けられた丸太に後ろ手に縛り付けられていた。
――『いやだ』、『助けて』。子供達は、皆泣き叫んでいる。
何故、あの子達はあんな目に遭わされているのか。そんな事を考えている余裕は、世莉樺からはすぐに消え失せた。
拘束されている子供達に、萱や薪、そして松明を持った数人の大人が歩み寄っていくからだ。
縛り付けられた子供達の側に、みるみる萱や薪が積まれていく。その様子を、松明を手にした男がそばで見守り、周りでは合唱の如く『早く殺せ』という言葉が発せられている。
これから何が起きるのか、あの子供達が何をされようとしているのか、世莉樺には簡単に想像がついた。
「えっ、えっ……!? まさか、そんな……!」
子供達は、火刑に処されようとしているのだ。炎で焼くという残忍極まりない方法で、命を奪われようとしているのだ。
世莉樺がそれを理解した時には既に火付けの用意は完了し、残るは火をかけるのみとなっていた。
「やめて、やめてっ!」
黙って見ている事など出来なかった。たがが外れたように、世莉樺は叫ぶ。彼女自身も弟妹を持つ立場故、姉としての本能が働いたのかも知れない。
けれど、そこに居る者は誰も世莉樺の声に反応を示す事は無かった。
「お願い、そんな事……そんな酷い事やめてよっ!」
目に涙を浮かべて世莉樺が叫んでも、子供達への火刑が中断される事は無い。
疑問に思った。何故、あの子達はこんな残忍な方法で処刑されなくてはならないのか。まだ幼い彼らの処刑を急かす周囲の大人達が、恐ろしくて堪らなかった。これ程の悪意を向けられるに至る事を、あんな幼子達がやったという事なのか。
いや、例えどんな理由があれども、こんな事があっていい筈は無かった。
「お願いだから……お願いだからっ……!」
世莉樺の脳裏に、ある記憶が蘇る。
荒れ狂うような炎の中、自身に助けを求める一人の少年の姿。世莉樺が助ける事の出来なかった、大切な、とても大切な男の子の姿だ。
(悠斗……!)
あの子供達が、『彼』と重なって見えたのだ。
その時、初めて世莉樺以外の口から、子供達の火刑を制する声が発せられた。
「やめろ!」
鬼気迫る雰囲気を帯びた、女性の声だ。
声の方向を振り返ると、一人の少女が数人の男達に取り押さえられながら、もがいていた。
年は十代後半辺りで世莉樺とさほど変わらなく見え、その身に纏う衣装、白衣や緋袴や、元結で束ねられた腰まである黒髪。紛れもなく彼女が神に仕える女性――巫女なのだと分かる。
「殺すな、その子達を殺すなッ!」
巫女の少女が壮絶に身動きすると、彼女を押さえている男達が目に見えてだじろいだ。だが到底力では敵わず、地面に押し付けられてしまう。
それでも彼女は血の涙でも流しそうな形相を浮かべ、抵抗し続けていた。
彼女が子供達とどのような繋がりにあるのかは分からない。だが、その凄絶な様子から、彼女にとって子供達が大切な存在だという事は想像出来る。
思わず世莉樺は、巫女に視線を奪われる。よく見れば、非常に整った顔立ちをしている事が分かる。今の様子では分からないが、普段はとても美しい容姿をしている事が伺えた。
観念する様子を見せない巫女に痺れを切らしたのか、男の一人が彼女の頭を乱暴に踏み付けた。少女に向けられた物とは思えない、手加減の感じられない無慈悲な一撃が側頭部を捉える。
「ぐっ!」
巫女の表情が苦悶に染まる。元結が解け落ち、彼女の長い黒髪が白衣や地面に流れを作る。
痛みと苦しみに苛まれているのが分かる。だが彼女は、奪われようとしている幼い命達から視線を外さない。子供達に向かって手を伸ばしながら、その口が弱々しく「やめろ……やめろ……!」と発する。
子供達を救えない悔しさ、自分の大切な物を奪おうとしている者への怒り、そして激しい悲しみが、彼女の頬を伝う涙には込められている。世莉樺には、そんな気がした。
「っ……!」
ただ声にならない声を発しながら、その状況を見守る事。世莉樺に出来た事は、ただそれだけだった。
そして松明を、子供達を焼き殺す業火の源を手にした男が、ゆっくりと歩み寄っていく。暗闇に浮かぶ殺戮の炎。それが近付いていくたびに、世莉樺までもが命を削られるような感覚に襲われる。
「やめろ……!」
頭を踏み付けられながら発せられた巫女の声は、消え入りそうな程に弱々しい物だった。けれど、そこに秘められた怒りと憎しみ、そして悲しみは、先程と比べて何倍にも、何十倍にも、何百倍にも高められているように感じた。
やがて、泣き叫ぶ子供達に向かって松明の炎が差し出される。
巫女の代わりに、世莉樺が発した。気付けば、世莉樺も同じように涙を流していた。
「やめて……」
世莉樺の声は誰にも届かず、闇に消えていく。
いくら懇願した所で、聞き入れられる筈など無かった。
「やめてよ――ッ!」
「やめろ――ッ!」
世莉樺の叫びと、巫女の叫びが重なった。それまでとは一線を画すような、高くて長い叫び声が、闇に包まれた水鷺隝に響き渡る。
そして次の瞬間、世莉樺の視界が闇に満たされ、何も見えなくなった。