其ノ九 ~夜闇ノ中~
「焔咒?」
聞き慣れない名前に、世莉樺は思わず繰り返した。
すると、少年は彼女の側まで歩み寄る。長く切り揃えられた彼の黒髪が風に泳ぎ、夜の闇と同化する。
「あれからもう、会った事は無かったかな?」
「え……」
得体の知れない少年が発した言葉を理解出来ず、世莉樺は思わず発した。
すると、焔咒は世莉樺の想像も付かない事を口にする。
「あの怪異以来……他の精霊とは会わなかったの?」
驚きの声が、世莉樺の喉の奥で押し潰される。
何故、この少年は精霊の事を、そして世莉樺が経験した異常体験の事を知っているのだろうか。
冷静に考えれば、答えは明らかだった。
「まさか、君も精霊……!?」
――精霊。それは世莉樺が知る限り、人智を超えた存在の事。
数年前、世莉樺は会わせて二人の精霊と対面した。一人は男の子の精霊で、彼が居なければ恐らく、世莉樺は既にこの世には居なかっただろう。そしてもう一人は女の子の精霊で、彼女の助けが無ければ、きっとあの怪異に打ち勝つ事は出来なかったに違いない。
そして、今目の前に居る『焔咒』と名乗る少年も、世莉樺が出逢った二人の精霊を彷彿とさせる物を有していた。幼い子供の姿に、着物、その身に帯びた不思議な雰囲気。
何よりも決め手は、少年が『精霊』という言葉を口にした事。それは精霊と遭遇した経験がある者、或いは精霊本人しか知りえない事なのだ。
焔咒が、世莉樺の目を見つめる。
「今質問してるのは、こっちだよ」
世莉樺の体を悪寒が走り抜けた。焔咒の声は無垢だったが、その裏に底冷えするような威圧感が秘められているように感じた。
まばたきを忘れてしまい、世莉樺はまるで支配されてしまったかのように、焔咒から目を逸らす事が出来ない。
(……違う。この子、違う……!)
会ってから僅か数分、そしてたった数度言葉を交わしたに過ぎない。
しかし、それでも世莉樺には分かった。この少年は、焔咒は自身が出逢った精霊達とは似て非なる存在なのだと。
焔咒は、世莉樺が知る精霊という存在からはかけ離れた存在なのだ。
「……ま、いいか」
興味を無くしたかのように言うと、焔咒はくるりと踵を返した。その動作には子供らしさが滲んでいたが、先程の彼の瞳は世莉樺の頭から離れない。
世莉樺に背中を見せたまま、焔咒は続ける。
「じゃあ、久しぶりに楽しめるね」
まるで歌い上げるかのように、焔咒は言った。
「どういう事……?」
世莉樺が問い返すと、焔咒は振り返った。その口元には笑みが浮かんでいる。
「楽しかったでしょ? あの怪異は。沢山の悲しみが生まれて、人が大勢死んで、しかもおねーさんの妹まで危うく命を落としそうになってさ」
明確な悪意が込められた、焔咒の言葉。
世莉樺は、自身の内から怒りが湧き上がるのが分かった。
「ふざけた事言わないで!」
世莉樺は声を張り上げた。あの出来事は正しく『悪夢』だった、悪夢以外の何物でもなかった。
ある一人の少女が悲劇の犠牲となり、そこから始まった怨念が大勢の人間を取り込み、悲しみをさらに拡大させた。世莉樺の妹も巻き込まれ、危うくその命を落としそうになったのだ。
焔咒は全く動じる様子もなく、世莉樺の目を見つめていた。
「あんな酷い出来事が楽しいだなんて、そんな事絶対に……!」
「そう、だったら」
世莉樺の言葉を遮ると、焔咒は歩み出た。
「今度はきっと、楽しめるよ」
それが何を意味する言葉なのか、世莉樺は考えた。
そして、一瞬もしない内に答えは出る。彼は、焔咒はこれから怪異が起きる事を予期している。いや、彼こそが怪異を起こそうとしている、世莉樺にはそう思えた。
焔咒は世莉樺の顔を見上げながら、ゆっくりと近付いてきた。
「おねーさんが遭遇したのよりもずっと怖くて、沢山の命が散っていく……そういう物だからね」
焔咒がすぐ側まで歩み寄り、世莉樺に向かって手の平をかざす。世莉樺はその様子を、ただ見ている事しか出来なかった。
「これから少しだけ、見せてあげるよ」
悪意を秘めた純粋な瞳が、世莉樺の戸惑う表情を映していた。
「また会おうおねーさん、そう遠くない内に……ね」
焔咒の口が小さく動き、意味の分からない言葉の羅列を発し始める。
「ぐっ!」
次の瞬間、世莉樺にこれまで経験した事の無い頭痛が襲い掛かり――刈り取るかのように、彼女の意識を奪い去っていく。
意識が闇に侵食されていく中、世莉樺は自分の身が石畳に崩れ落ちるのを感じ取った気がした。




