其ノ零 ~水鏡ノ予兆~
桃源郷と呼ぶに相応しく――幻か、或いは作り物かと疑いたくなる程に美しい場所だった。
桃色の花弁を纏った木々が立っており、地には緑色の草と共に、黄色い花が咲き開いている。そして、その全てを青い空が見下ろしている。
目まぐるしいばかりに幻想的なその世界の住人は、幼い子供達のみ。男の子も女の子も皆裸足で、そして着物を纏っている。幾人もの子供達が、草の上を楽しげに駆けていた。
純粋で無垢で、可愛らしい幼子達の、天使の合唱のような歓声が飛び交う中――ただ一人、物憂げな面持ちを浮かべつつその場に居る少女の姿があった。
彼女の立つ先には、小さな池があり、透き通った水面には桃色の花弁が幾つも浮かび、ゆらゆらと当てもなく漂っている。
優しく吹いた風が、再び数枚の花弁を池へと導く。
「……」
周りの幼い子供達と比べれば、少しばかり抜きん出た大人びた容姿を持つ少女。彼女は何も発する事なく、風に身を任せながら池を見つめていた。柔らかく差す陽の光が透き通るような白い肌を照らし、金色の頭飾りに反射する。腰よりも長く伸ばされた綺麗な黒髪や、平安時代の女性用装束である十二単を思わせる、重厚であり、そして優美さも備えた汚れの一つもない着物。
美しい――誰もにそう言わせる程の端正さを備えた、年の頃にして十八歳程の少女だった。
「零俐様」
少年の声に、彼女――『零俐』は振り返る。頭飾りがチリンチリンと心地良い音色を奏で、長い黒髪が優雅に空を泳ぐ。
零俐の澄んだ黒い瞳に、幼い少年の姿が映る。彼は黒地に白で模様が描かれた着物を纏い、こげ茶色の豊かな髪はハリネズミのように跳ねている。その瞳は凛とした雰囲気を湛えているがどこか垢抜けておらず、彼の外見に相応な幼さを感じさせた。
そして何よりも目を引くのは、その腰に下げられた眩い銀色の鎖だろう。
「……炬白」
零俐が応じると、彼――『炬白』は頭を下げた。
「何を見ていたんです?」
炬白の問いに応じずに、零俐は視線を池の方へ戻した。
裸足で草を踏みしめ、炬白は零俐の隣へと歩み寄って来た。二人並ぶと、炬白の身長は零俐の胸より僅か下辺りまでしかない。
「……それが、全てを見渡すことが出来ないの。本当なら、私には見える筈なのに」
透き通るような零俐の声、しかしその表情には不安の色が垣間見えていた。
「見えないものなんてあるんですか? ……『神霊』である貴方に」
炬白は池に視線を降ろす。途端、彼は驚きを浮かべた。
「! 姉ちゃん……?」
池に映っていたのは、ある一人の少女だった。炬白にとって恐らく、誰よりも縁の深い。
「雪臺世莉樺……炬白、貴方の大切な人でしょう?」
「零俐様、姉ちゃんに何か?」
直ぐに返事をした炬白に、零俐は頷いた。
「感じるの。彼女の身に何か、良くない事が待ち受けている」
池に映った少女を見つめつつ、零俐は続ける。
「前の一件で彼女は通霊力としての、そして天照の加護を受けているけれど……それでも救われない程の、大きな怪異が」
「っ、そんな……?」
大切な人に良くない事が訪れる、それを聞かされた炬白の声に動揺が垣間見えていた。
しかし、その動揺は彼女に悪い出来事が起こるという事ではなく、絶対に救われる筈の彼女が救われないという事が原因のようにも思える。
「だけど、姉ちゃんの周りに、そんなに強大な鬼なんてもう……」
そこまで発すると、炬白は何かに気付いたように視線を合わせて来た。
「まさか?」
零俐は頷き、炬白の考えを肯定する。
「彼女が向かっているのは水鷺隝、何があった場所なのか……知っているでしょう?」
「……」
炬白は何も発しないが、その首が微かに縦に振られた。
暖かい風が再び、零悧の黒髪や着物を揺らす。
「お行きなさい炬白、この霊界からでは貴方の大切な人を救う事は出来ない。貴方はもう知っているでしょう? 一度、彼女を鬼から救っているのだから」
「けど零俐様、もし姉ちゃんが遭遇するのが本当に『あの鬼』だったなら、オレの手に負えるかどうか……」
腰に下げられた銀色の鎖に、炬白は指先で触れた。
零俐は、弱気な表情を見せた炬白を安心させるように言う。
「その時は私も力を貸すわ、貴方達の長として。……そして、私自身の清算の為にも」
「……分かりました」
幼い外見に不釣り合いな程、炬白の言葉は毅然としていた。彼は「行ってきます」と言い残し、零悧に背を向ける。
彼の小さな後姿を見届けた後、零俐は再び池に視線を落とす。水面には、彼女の顔が映っていた。
「私の思い過ごしであって。どうか」