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一話

「オグバーン助けてくれ! 一体どうしたら……」

 僕は席に着くなり泣き付いた。

「おいおい、何だよいきなり……あ、こっち酒二つね」

「酒なんて飲む気になれないよ」

「まあいいから。一口でも飲んで落ち着けって」

 僕の肩を優しく叩くオグバーンは、今日も調子がよさそうだ。何とも羨ましい……。

「で? 何を助けてほしいんだ?」

 相談を聞いてもらっているのに、目も合わさないというのは非常に失礼だとわかってはいるけど、僕には顔を上げる気力もない。机に突っ伏したいところを、どうにか両手で頭を抱えるのがやっとだった。

「……何か、深刻そうだな」

「そうなんだ。深刻なんだ」

「よし。聞かせてくれ。俺っちにできることなら協力するよ」

 持つべきものは友――今ほどこの言葉を噛み締めたことはないだろう。彼が友人でよかった。

「ありがとう……事の始まりは、昨日――」


「おい、バイデル。ウェルス・バイデル!」

 その時僕は軍の書類運びをしていて、部隊長の呼びかけに少し遅れて反応した。

「あ、はい」

「ちょっとこっちに来い」

「でも、この書類を――」

「そんなものはいつでもできる。いいから早く来い」

 運ぶ書類はこれで終わりだったのにと思いつつ、近くの棚に書類を置いて僕は部隊長の机に向かった。

「何でしょうか」

「お前、イルデフォン様を知っているな」

「イルデ……? さあ?」

 馴染みのない、初めて聞く響きだった。

「一般兵士には知られていない名かもしれないな。じゃあ、魔術師と言えば、わかるな?」

 僕は部隊長の目を凝視した。なぜその名が突然出てきたのかわからなかったのだ。魔術師と言ったら、知らない兵士はいないだろう。得体の知れない様々な研究、開発をしているという話だが、それが一体何なのかは公にはされておらず、噂では僕達兵士を使って人体実験を行っているとも聞く。その反面、かなり昔から国の相談役でもあるらしく、頼りにされる人物らしい。だが、実は影で国を操っている黒幕だとも噂されている。つまり、結局のところ僕達一般兵士とは関わることのない、かなり上級な人物で、その正体不明さから魔術師という勝手な異名を誰かが付けたわけで、本当に魔術を使うわけではない。多分。

「は、初めて知りました。その、魔術師のお名前を。イル……?」

「ロイツェ・イルデフォン様だ。ご本人の前で間違えるなよ」

「僕にお会いする機会なんてありませんよ」

「何を言っている。この後すぐに会うんだぞ」

「は……?」

 会うというのは僕のことなのだろうかと、頭の中で何度も考えている間に、部隊長は机の引き出しを開け、そこから四角いかばんを取り出し、僕に見せた。

「これをただちにイルデフォン様の元へお届けしろ」

 見せられたかばんは、木製の片手で持てるほどの大きさで、一見、画家が絵描き道具を持ち運ぶためのかばんのようにも見える。

「なんですか、これ」

「イルデフォン様のお忘れ物だ。先日城へお越しになられた際に、このかばんをお忘れになったのだ」

「これを僕が、持っていくんですか?」

「お前の他に誰がいる」

 思わず僕は周りを見渡してしまった。当然部屋には僕と部隊長しかいない。

「……あの、お言葉ですが、部隊長ご自身で――」

「私は十三時から定例会議があって抜けられない。お前なら手が空いているだろ」

 確かに空いていた。昼を終えた午後は大抵オグバーンを相手に剣術練習か日光浴をしている。誰がどう見ても手が空いている状態だ。でも、できれば魔術師の元へは行きたくなかった。噂を鵜呑みにするわけではないが、やっぱり気持ちが悪い。それに相当偉いと思われる人物の前で、もしも粗相でもしてしまったら、僕の人生はあっさり終わってしまうんじゃないだろうか。最悪の場合、故郷の家族にまで迷惑がかかるかもしれない。そんな危険は避けて通りたい。兵士になってまだ二年、国のために何かしたいと実家を出て、いつかは両親に親孝行できるような立派な人間に成長して故郷へ帰――

「じゃあ頼んだぞ。くれぐれも失礼のないようにな」

 はっとして顔を上げると、部隊長は部屋を出ようとしていた。僕は慌てて呼び止めた。

「部隊長! ちょ、ちょっと待ってください」

「……何だ。早くしろ。会議の準備がある」

 呼び止めたものの、僕は行きたくないとは言えるはずもなく、何と言えばいいのか言葉を探した。

「ああ、そうだった。イルデフォン様のお住まいへの行き方を教えていなかったな」

「え……」

 僕の気持ちとは逆に、部隊長は魔術師の自宅までの行き方を丁寧に教えてくれた。違う。僕は忘れ物など届けたくない。魔術師なんかに会いたくない――

「……と、着くはずだ。あそこは迷いやすいからな、気を付けて行けよ」

 一方的に説明し終えると、部隊長は部屋を出ていってしまった。僕の心の叫びは届かなかった。行くしかないのか――僕は魔術師のかばんを持ち、嫌々出かける準備を始めた。

 部隊長の説明によると、魔術師の家は城の西に広がる森の中にあるらしい。通称、暗闇森。中は昼間でも日があまり差さないことからこう呼ばれるようになった。確かにあの森は迷いやすい。以前、部隊訓練で暗闇森を訪れた時、班に分かれての訓練を行ったのだが、別の班がいつまで経っても戻ってこなくて、全員で捜し回ったことがあった。森での訓練は何度も経験していた。それでも迷ってしまうほど中は複雑なのだ。でも僕は――

「……着いてしまった……」

 樹木が生い茂る視線の奥に、赤茶けた屋根の小さな家が見えた。僕は一度も迷うことなく目的地にたどり着いた。出発してから大体一時間くらいだろうか。葉の隙間から見える空はかなり明るい。僕は昔から道を覚えることが異様に得意なのだ。小さい頃も迷子などなった覚えはないし、兵士になって、兵舎内の入り組んだ構造も一日で覚えてしまった。僕の唯一自慢できる特技だ。でも、今ほどいらないと思ったことはない。ここで迷い、家にたどり着けなかったと言って帰れればどんなにいいか……。

 着いてしまったことは仕方ないと考えるしかなく、僕は気合いを入れ直して歩き出した。魔術師の家がどんどん近付いてくるが、近くから見ても本当に小さな家だった。農家の納屋と言われたら信じてしまいそうなほど、人の住む家には見えなかった。木造の壁にはコケやらツタが張り付いていて、かなりの古さを感じさせる。その周りには大小の植木鉢がいくつも置かれており、毒々しい色の花を咲かせているものもあれば、からからに干からびてしまっているものもある。そのほとんどは僕からしたら雑草にしか見えない。きっと大事な植物なんだろうけど。

 玄関の扉の前に立ち、僕は身だしなみを整えて深呼吸をする。徐々に心臓の音が大きくなるのを感じながら、右手でぼろい扉をノックした。倒木を蹴飛ばしたような、くぐもった音が鳴る。魔術師が出てきてしまう――僕は急いで一歩下がった。

 しかし、十秒ほど待っても何の反応もない。ノックの音が聞こえなかったのか? 恐る恐る扉に近付き、もう一度ノックをしてみる。今度は少し強めに叩く。これなら聞こえるはずだ。でも、やっぱり反応はなかった。これはもしや、留守なのでは? そう思うと緊張が半分消えた感じがした。そうだ。そうに違いない。魔術師は今どこかへ外出中なのだ。これで会わずに済む。帰る理由になる。僕はほっと胸を撫で下ろした。

 意気揚々に踵を返そうとしたが、緊張がほぐれたせいか、念のためもう一度だけ確認してみようと思い付いた。どうせ誰もいないなら、呼びかけてみてもいいだろう。僕はぼろい扉に向かって大きく口を開いた。

「イルドフェンさまああ、おりませんかああ」

 しばらく待つが、反応なし。留守確定だ。

「……無駄足だったな」

 僕は踵を返す。

「待てい!」

 背後からの大声に、僕は跳び上がって驚いた。

「……あっ……」

 振り向いた先には、扉を開けてこちらを睨む、一人の老人がいた。考えるまでもなく、この老人こそ魔術師本人だ。留守だと思っていたのに、居留守だったとは……。

「無礼者が! 貴様、何者だ」

 魔術師は鬼のような形相で僕を睨み付けてくる。なぜだかかなり怒っているが、無礼者と言われるような粗相をした覚えがない。僕は一体何をしてしまったのだ? 考えれば考えるほど、頭の中は真っ白になっていく。

「ぼ、僕は、あの……こ、これを、お届けに……」

 かろうじて動いた左手で、魔術師のかばんを差し出した。

「……わしの採集かばんじゃないか」

 すると魔術師は僕のほうへつかつかと歩み寄り、かばんを奪うように取った。中身を簡単に確認すると、また僕を睨み付ける。

「お前、城の者か」

 射抜かれるような眼光の圧力に、僕は気圧されないよう懸命に意識を保った。

「こ、国軍、第十一歩兵部隊所属、ウェルス・バイデルと申します!」

「一兵卒か……」

 魔術師の表情が若干緩んだように見えた。

「兵士になってどのくらいだ」

「今年で、二年目です」

「ほほお」

 魔術師の表情は明らかに緩んでいく。怖い。何を考えているのか、怖い。

「お前、わしの名を知っているか」

 魔術師の目がにやりと笑う。名前は部隊長からちゃんと教えられている。聞いておいてよかった。

「もちろんです。ロイツェ・イルドフェン――」

「何?」

 え? 何かおかしかったのか? これで合っているはずだけど。

「……ロイツェ・イルド――」

「何だと?」

 僕は途端に固まった。合っているはずだけど、この魔術師の表情、かなり不愉快そうだ。僕は間違って覚えていたのか? ロイツェが違ったか、それともイルドフェンが違うのか。いや、待てよ。イルドフェンと部隊長は言っていたか? イルまでは絶対合っている。これは自信がある。ドフェン? こんな響きだったか? 何か違和感があるような……そうなるとロイツェのほうも怪しく思えてきたぞ。ロイだったか、ルイだったか、ライだったか、一体どの響きだ……。

「わしの名を言えないのか!」

 怒声を浴びせる魔術師に、僕は委縮しながら思い切って言った。

「ルイツェ・イルバション様です!」

「無礼者がっ!」

 ひいいっと情けない声が出ていた。やってしまった。僕の人生はもう終わりだ。ひざまずいて許しを請うたところで、もはやどうにもならない無礼をしでかしてしまった。だからこんなところ来たくはなかったんだ。僕には荷が重い仕事だとわかっていた。部隊長、あなたはいい方だったが、これに関しては恨ませてもらいます!

「一体誰の名だ。最初よりもめちゃくちゃな名に変わったぞ」

「本当に、申し訳ございません……」

 こんな人生の終わり方なんて、不本意すぎる……。

「相手の名を覚えるのは、礼儀として基本中の基本だ。それすらできない者には罰を与えねばなるまい。そうだろう?」

「お、おっしゃる通りでございます……」

 罰――流刑か、絞首刑か。どちらにしろ希望はなさそうだ。

「お前を、清掃の刑に処する。いいな」

 流れでうなずきそうになったが、僕は聞き慣れない刑に首をかしげた。

「……せいそう? あの、それは掃除などの清掃、ということなのでしょうか?」

「他にどんな意味がある」

 適当な他の意味は思い付かなかった。

 魔術師は家を出ると、すぐ脇の草むらの中から木製のバケツを取り上げた。

「これに水を汲んで来い。まずは中の拭き掃除をしてもらおう」

 手渡されたバケツはひびが入り、コケがむしている。底には乾ききった灰色の雑巾がへばり付いていた。長い間使われていないのは一目瞭然だ。

「水はこの裏の井戸で汲める。さっさと行って来い」

 そう言うと魔術師は家の中へ戻っていった。残された僕はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、投げ出すわけにもいかず、これは魔術師様への非礼の罰なのだと自分に言い聞かせ、どうにか動き始めた。

 家の裏の井戸からバケツに水を汲む。どうやらバケツから水は漏れていないようだ。乾いていた雑巾は一気に井戸水を吸い、水の中でゆらゆらと揺れた。急いで玄関へと戻り、ぼろい扉を開く。ぎしぎしと音を立てて開く扉を押しながら、僕はまた緊張し始めた。

「し、失礼いたします」

 開けた中の部屋は、外から見た通りかなり狭い。しかも至る所に分厚い本が山積みにされていて、人一人がやっと通れる隙間しかなく、余計に狭さを感じる。ただ、拭き掃除をする箇所は、この多すぎる本のおかげで大分少なく済みそうだ。十分もあれば終わるかもしれない。そう思うと僕の体は軽快に動いた。

 小さな窓を開け、空気の入れ替えをしつつ僕は床を拭き始めた。一拭きしただけで雑巾には大量の埃が付いてくる。この家は何年掃除をしていないのか。バケツの水でゆすぎながら、見える床を拭き続けた。床はあっという間に綺麗になり、予想した十分も経たずに拭き掃除は終了した。

「終わった……」

 僕は曲がった腰を伸ばす。二十歳でもかがんだ姿勢は腰にくる。

「終わったら、次はこっちだ」

 背後からの声に、僕はびくりとまた跳び上がった。そう言えば魔術師は今までどこにいたのだろうか。そう思った僕の目の前で、魔術師はとんとんと階段を下っていった。階段? 僕は山積みされた本の壁の裏をのぞき込んでみた。そこには隠れるように、地下へと続く階段があった。そりゃそうだ。この部屋だけで生活できるわけがない。僕はバケツと雑巾を持って階段をゆっくり下りた。

 見えてきた地下の部屋は、一階の部屋よりも大分広い。五倍くらいはありそうだ。日が差さない地下のため、ランプの照明がいくつも使われている。上の部屋とは対照的に、ここは物が整理整頓されていて、机や棚にはきっちり物が並べられている。ただ一か所だけ、雑然としたところがあった。今魔術師が向き合っている、一番大きな机の上だ。ここだけ本やら得体の知れない物がごちゃごちゃと散らばっていた。

「こっちの気が散るからな、早く拭き掃除を終えてくれ」

 魔術師は僕のほうには見向きもせずに言うと、何かの作業に没頭し始めた。気が散るなら掃除なんかやらせるな、とは言えるはずもなく、僕は罰を受け入れ拭き掃除に取りかかる。

 地下の部屋は壁も床も石でできている。膝をついて拭く動きは結構痛い。だから時々立ち上がっては膝の痛みを消して、またかがむということを繰り返していた。その立ち上がる動きのたびに目に入るのが、魔術師のしている謎の作業だった。ガラスの瓶の中に茶色の粉を入れたり、乾燥した植物を火で焼いていたり、とにかく良くわからない作業だった。気になって仕方がなかった僕は、勇気を出して聞いてみることにした。

「あ、あの」

「……何だ」

 魔術師は作業から目を離さない。

「それは一体、何をされているんでしょうか?」

 魔術師は作業を止めず、口も開かない。しばらく沈黙が続いた。やっぱり聞くのはまずかったかと思い始めた時だった。

「……お前には理解できんだろう」

「そ、そうですね。博識な方しか、わかりませんよね……」

 僕はすぐに話を終わらせた。聞いた自分が馬鹿だった。

「机の下もちゃんと拭くんだぞ」

「わかりました……」

 僕は魔術師の使う机の下に潜り込み、床を拭く。

「ところで、わしの正しい名は思い出したか?」

 ぎくりとして息が詰まった。まだそれを聞くか。思い出したとしても、それが正解なのか僕には自信がない。ここは下手に回答するよりは、正直に答えるべきだと思った。

「……実は、まだ思い出せなくて」

 頭上でフッと魔術師が笑ったような声がした。

「ならば、次回会う時までの宿題だ。もしまた忘れていたら、その時は……」

 掃除以上の罰、ということになる。これだって精一杯優しい罰だ。二度目も間違えたら、今度こそ僕は人生を終えてしまうかもしれない。その時は? その時は一体どんなことになってしまうのだ――僕は魔術師の言葉の続きを待った。でも、なぜか言ってくれない。黙ってしまって、まるで話はなかったかのような空気が漂う。あれ? と感じながら、僕は机の下から魔術師の様子をうかがおうと顔をのぞかせようとした。その途端だった。

「お前の身の安全は保証できんぞ!」

 至近距離に魔術師の顔面が現れて、僕は悲鳴を上げて反り返った。その拍子に頭を机の裏に強くぶつけ、机はがたんと音を立てて大きく揺れた。その直後――

「ガシャンッ」

 嫌な音が聞こえた。魔術師が慌てた様子で走る。落ちた何かの破片をつまみ、状態を確かめている。やがて溜息を吐き、じろりと机の下の僕を見た。ああ、終わった……。

 僕は机の下から這い出て、必死に謝った。これまでの人生でないほどの丁寧な謝罪を繰り返した。これで壊した物が直るわけではないが、今の僕は謝ることしかできない。せめて、わざとではないことだけはわかってもらいたかった。

 謝り続ける僕を、魔術師は手で制した。

「もういい、もういい。お前が悪いんじゃない」

「しかし、壊してしまったのは僕に違いなく――」

「もういいと言っている。……余計な仕事が増えた。掃除はいい。もう帰れ」

 口調は厳しい。でもその表情は怒っているというよりは、諦めているように僕には見えた。しかし、とんでもない失態をしでかしてしまったことに変わりはなく、僕はこの後、部隊長からどんな処分を言い渡されるのか、すでに戦々恐々とし始めていた。

 バケツと雑巾を手に、一階へ上がる。外へ出て黒くなった水を草陰にまき、バケツと雑巾をどこに置こうかと迷っていると、玄関にはいつの間にか魔術師が立っていた。はっとして固まる僕の手から魔術師はバケツと雑巾を取り上げる。

「これはわしのものだ。持って帰らせんぞ」

 持って帰るわけがない。兵舎にはもっといいバケツと雑巾がある。

「仕事を増やされるなら、お前なんぞに掃除をさせるんじゃなかったな」

 呆れた顔を向けてくる。ぼくだってあなたに負けず、この掃除を後悔している……。

「申し訳、ありませんでした。後日、改めて――」

「いらん。いちいちこんなことで対応しているほど、わしは暇ではない。今日のことはお互いの失敗として考えてくれ」

 意外にも魔術師の言葉が優しい。やっぱり、そんなに怒っていないのかもしれない。

「寛大なお言葉を、ありがとうござ――」

「礼を言われる筋合はない。さっさと帰れ」

 しっしっと魔術師は手で僕を追い出す仕草をする。

「わ、わかりました。では、これで失礼をいたします」

 ぼくはびしっと敬礼をし、玄関を離れた。魔術師の機嫌は最悪というほどじゃない。もしかしたら、厳罰を免れることができるかも……。そうあってほしいと祈りながら数歩進んだ時だった。

「そうだ。言い忘れていたことがある」

 思いがけない呼び止めに、僕はすぐさま振り向いた。

「……な、何でしょうか?」

 魔術師はバケツと雑巾を握ったまま、腕組みをして僕を見つめる。

「お前に、呪いをかけさせてもらった」

「……は?」

 意味がわからない。どういうことだ? 呪いって何だ? よくわからない衝撃に僕の頭は瞬時に混乱した。

「国のため、せいぜい励んでくれ」

 魔術師はにやにやしながら言うと、手のバケツと雑巾を玄関脇に放り捨て、家の中へ戻っていった。ばたんと扉が閉められると、横から冷たい風が吹いてきた。それがやむと、周りは一気に静寂に包まれた。こんなに静かだったかと思うほど、静まり返っていた。それが余計に僕の心の声の大きさを自覚させた。魔術師は怒っていない? そんなわけがない。怒っていたんだ。表に出さないだけで、はらわたが煮えくり返るくらい、僕に呪いをかけてしまうくらい、激昂していたんだ。部隊長に報告して処分してもらうよりも、自分の手で処分したいほど、僕のしでかしたことは取り返しのつかないことだったんだ。最後に見た魔術師の顔、不気味な笑みを浮かべて満足げだった。あれはきっと、僕が苦しむ姿を想像しての笑みに違いない。これからお前は呪いによって苦しい日々を生きるのだと、わしの仕事を台無しにした報いだと、喜びと楽しみを隠せなかった表情なんだ!

 恐ろしさばかりが増していた。得体の知れない呪いというものに追われているようで、城へ戻る足は勝手に速く動いた。でも頭は混乱しているのに、森の帰り道はしっかりと覚えている。特技はいつでも特技だった。

 城へ帰り着き、すぐに部隊長に報告を済ませた。そこで僕が粗相をしたこと、呪いをかけられたことは最後まで言えなかった。ご苦労と部隊長に言われ、僕に与えられた仕事は完了した。いつ部隊長から呼び出されるか、一日一日をびくつきながら過ごしていたが、何日経っても呼ばれることはなかった。魔術師は間接的な処分は望んでいない。直接自分の手で処分する気だ。その方法こそが、呪い。僕はもう魔術師の手の中に捕らわれているのか? 自由を奪われてしまったのか? 嫌だ。そんなの絶対に嫌だ! 僕は僕の自由を生きたい――


「……話、長いって。あ、こっち酒おかわりー」

 オグバーンは空になったコップを店員に掲げて見せる。

「いや、経緯はちゃんと話したほうがいいかと思って」

「要点だけ教えてくれればいいって。つまり、命令で忘れ物を届けに行ったら、魔術師に呪いをかけられたってことだろ? 五秒で済む話だ」

「わ、悪かった。そんなに長かったか。でも、僕の不安な気持ちもわかってほしくて……」

 女性店員が酒のおかわりを持ってきた。オグバーンはそれを受け取り、すぐに口をつける。

「お前、かなりびびってるみたいだけどさ、何がそんなに怖いんだ?」

 僕は一瞬、オグバーンを見つめ返した。

「え、怖いと思わないのか? オグバーンは」

「何が怖いのか、俺っちにはよくわかんねえな」

 呪いが怖くないなんて言う人間がいるとは思わなかった。酒で思考が鈍っているのか?

「だってさ――」

 オグバーンは机に頬杖をつき、僕をだるい目つきで見つめる。

「呪いなんて、実際あるのか?」

 なるほど。そういう考え方かと、僕は心でうなずいた。

「呪いなんてさ、古い物語にしか出てこない、悪者の常套手段だろ? つまりだ、読んだ人間に悪を印象付けるための、便利な言葉でしかないんだよ」

 まるで専門家のような口ぶりに、思わず納得しそうになる。

「でも、オグバーンも学校で習っただろ? 昔、呪いの儀式を行っていた時代があったって」

「それは何百年も昔の話で、一部の狂気じみた集団のしたことだろ。それに呪い殺したなんて教科書には書いてあったか? 被害者は結局、集団が直接手にかけたってことになってたはずだぞ」

「……歴史に詳しいんだな、オグバーン」

「俺っちの親は何かって言うと勉強しろってうるさかったからさ、嫌でも憶えてるんだよな。おかげで落第せずに済んだわけだけど」

「そう言えば、確か入隊試験の成績、オグバーンが断トツの一位だったよね」

「あれはまぐれだよ」

「そんなわけないって。やっぱりもともと頭がよかったんだよ。僕は上位組にも入れなかったっていうのに」

「多分、実技が評価されたんだと思う。筆記は平均点取れてたかどうか」

「またまたあ、謙遜するなんてオグバーンらしくないぞ」

「してねえって。事実を言ってるだけだ」

 昔の思い出を肴に、僕とオグバーンは陽気に酒を飲み続けた。――あれ? 僕は思い出話をするためにオグバーンを呼んだんだっけ……?

「……って違う!」

 両手で机を叩き、話をさえぎった。

「な、何だよ急に」

「こんな話はどうでもいいんだよ。僕は呪いについて相談したいんだ」

「え? その話、終わったんじゃないのか?」

「まだ終わってない! 解決すらしてない!」

「だから、呪いってもんは、この世には存在してないものだって――」

 オグバーンの言葉を僕は手を突き出し、制する。

「その意見はわかった。でも、呪いが本当に存在しないっていう証拠にはならないだろ」

「じゃあお前は呪いが存在する証拠を知ってんのか?」

「もちろん知らないよ。だから存在するかしないか、どっちとも言えない状況だから、僕は不安でたまらないんだ」

 オグバーンは腕を組んで少し考える。

「……あれじゃないか? お前、魔術師って呼び名に影響されてんじゃないの?」

 僕は首をかしげた。

「魔術師はあくまであだ名で、本当に魔術師じゃないぞ」

 そんなことはとうに知っている。

「でも、実際魔術師と顔を合わせたら、本当に魔術を使ってもおかしくないと思えるよ」

「へえ、そんなに不気味な人だったのか?」

 不気味ではない。見た目は至ってよく見かけそうな老人だった。ただ、あの突然現れる気配、つかみどころのない雰囲気、そして最後に見た笑み……思い出すたびに胸の奥から不安が湧いた。呪いなんて信じたくなくても、信じずにはいられないというか、あの老人なら呪いを扱えそうな気がしてしまうのだ。

「とにかく、ここは呪いがあると仮定して考えてほしいんだ。僕が呪いから解放されるには、一体どうしたらいい?」

 僕は身を乗り出して聞いた。

「どうしたらって……俺っちが知るわけないだろ」

 当然だ。至極当然だが――

「そこをどうか、一つでも妙案を出して、僕を救ってほしい!」

「……妙案なら、一つだけある」

 僕はオグバーンに詰め寄る。

「何?」

「お前が呪いを無視することだ。そうすれば呪いで不安になることはなくなる」

 力が抜けた。無視できたら、どれだけ楽になるか。以前の能天気な自分が羨ましい。

「わかってるよ。それができないから相談してるって言うんだろ? そうだな……」

 オグバーンは宙を睨みながら真剣に考え始めた。オグバーンにとっては馬鹿げた悩みなんだろうが、それでもこうして真面目に付き合ってくれるところが、本当にいいやつだと思える。

 一分ほど考え込んで、オグバーンは口を開いた。

「やっぱ俺っちには思い付かねえ」

 僕は肩を落とし、椅子にへたり込んだ。そうだよな。そう簡単に思い付けるわけがない。

「まあ待て。俺っちはわかんねえけど、今、巷で有名な占い師ならわかるかもしれねえぞ」

「……占い師?」

 初耳だった。こんな僕の様子に、オグバーンは驚きの顔を向けた。

「お前、本当か? 半年くらい前からかなり有名になってたぞ。噂くらい聞いたことあるだろ」

 僕は首を振った。

「前から流行に疎いやつだとは思ってたけど、まさかここまでとはな……」

 呆れられても、知らないものは知らない。

「休暇の時、お前街とか出かけてるか?」

「出かけたいとは思うんだけど、何かやっぱり……」

 田舎の出の僕は、都会への憧れは人一倍ある。でも、いざこうして都会に住み始めてみると、にぎやかで洗練された人達を見るたび、どうも自分とは違う世界のようで、気後れしてしまうのだ。ここに住んで二年が経つのに、未だにそんな気持ちが抜けない。我ながら情けないところだ。

 こんな僕と正反対なのがオグバーンだ。彼は都会生まれ、都会育ちで、生粋の都会人なわけで、僕の屈折した気持ちは理解できないだろう。それでも友人になれたのは、彼が都会人らしくなかったからだと思う。僕の出身が田舎だと知ると、大抵の都会人は見下した言動を取る。でもオグバーンはまったく気にせず、話が合うとわかると、頻繁に飲みに誘ってくれた。ここで楽しく暮らせるのは、ひとえにオグバーンのおかげなのだ。ちなみに、僕のオグバーンへの第一印象は、変なやつ、だった。自分のことを俺っちなんて、まるでなまりみたいな言い方をして、当初はぼくのことをからかっているのかと思ったが、後に聞くと、昔読んだ大好きな物語の影響で、ずっと直さず言い続けているということだった。変なやつという印象は、今は、ちょっと変なやつに変わったが、それはオグバーンには伝えないことにする。

「仕事以外のことも知らないと、女にもてねえぞ」

 オグバーンは酒を飲み、コップを机に力強く置く。顔が少し赤い。酔い始めてきたみたいだ。

「もてるより、今は仕事をこなすほうが大事だよ」

「違うな。両方とも器用にこなすんだ。それが男だ」

「……持論はいいから、その占い師のこと教えてよ」

「あ、そうだったな。で、その占い師ってのは、何でも予知ができるらしくって、当たったってやつが何人もいるんだ」

 予知――それは何だかすごそうだ。

「オグバーンも占ってもらったの?」

「いや。俺っちの休み、週末だからさ、週末は長蛇の列ができるんで、そんなの並ぶ気になんねえよ。お前の休みは確か平日だったよな」

「うん。二週間後にあるけど……」

 そう言って僕は考えた。次の休みまで二週間。この間、僕は呪いの不安を感じ続けなければいけないということだ。十四日間――結構長い日数だ。僕は耐えられるだろうか……いや無理だ。今こうして悩んでいる時点ですでに耐えられていない。これはすぐに解決しなければ。休みが遠いなら、休暇を取るしかない。まだ新米兵士の身分で休暇なんて生意気だと思われるだろうが、こっちには呪いが差し迫っているんだ。背に腹はかえられない。

「平日なら、そんなに並ぶこともないだろ。呪いのこと、存分に相談してみろ。もし駄目だったら、また俺っちに話してくれ。次の案を一緒に考えてやるから」

 いいやつだ。この男は本当にいいやつだ。

 その後、僕は占い師の店の場所を教えてもらい、少々千鳥足のオグバーンを抱えながら兵舎へと帰った。

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