第九話 天使に出会いました
あれから私はどうやって音楽室を出たのか覚えていない。
連日の小さいけれど確実にダメージを負わせるような攻撃に、今日の攻撃は留めをさすようなものだった。
どうしたらいいか分からない――否。
(どうすべきかなんて分かってる…でも)
私は彼の笑顔を、手を、心を――手放したくないと思っている。
「!」
「ッわ!」
ドン――という衝突音とともに、明らかに自分のものではない高い声が聞こえた。
「――ったぁ…あ!尾ノ上さんじゃない!ごめんなさいね。大丈夫?」
そう言って、尻もちをついている私に手を差し伸べたのは――我がクラスの担任であると同時に、音楽室の天使こと、鈴木麻衣子先生だった。
「…こちらこそ、すみません。ありがとうございます。」
(ん?)
「…あ、あのぉ。麻衣子ちゃん?」
「麻衣子、せ・ん・せ・いです!」
ご丁寧に、いつものように訂正を入れた麻衣子ちゃんは、なぜか掴んだ私の手を放そうとしない。
「先生?いい加減はな」
「どうしたの?尾ノ上さん?」
いつになく真剣な目をした麻衣子ちゃんは一言そう言った……どうかしたの?ではなく、どうしたの?と。
「大丈夫よ。私はいつも尾ノ上さんの味方。だって、あなたは私の大事な生徒だから」
そんな麻衣子ちゃんの温かい眼差しに、とうとう今まで我慢していたものが溢れ出した。涙腺が崩壊してしまい、ここが廊下であるにも関わらず、小さい子どものように私は大泣きしてしまった。
「ぇえ!尾ノ上さん!とっ、とりあえず準備室へ行こッ」
急に泣き出した私に慌てた麻衣子ちゃんは、急いで私の腕を引っ張りながら音楽室へと向かった。
(ごめんね、麻衣子ちゃん。だけど。今だけ…今だけは、私の先生への想い分だけ泣かせて)
「どう?落ち着いた?」
優しい声で私を気遣いながら、麻衣子ちゃんがハンカチを出した。
私はそれをありがとうございます、と言って受け取った。
「ごめんなさい…迷惑をかけてしまって」
「何を言ってるの。全然、迷惑だなんて思ってないですよ~」
「麻衣子ちゃん、いい先生だね」
「どうしたのよ、急にィ」
「あっ、照れてる」
「もう!生徒が先生をからかわないの!」
「あははは」
麻衣子ちゃんのおかげで少しすっきりした。ありがとう…でも。
先生である麻衣子ちゃんに今の状況を相談することなんてできない。
自ずと、私は顔を下に伏せ、麻衣子ちゃんに借りたハンカチをギュッと握りしめた。
「ねえ。尾ノ上さん」
「……」
「私は教師であるから、話しにくいこともいっぱいあるだろうし、無理に聞き出そうとは思ってないわ。だけど、一人で抱え込むのだけは止めなさいね。あなたは一人ではないのだから…例えば、家族とか友人とか恋人とか」
恋人――その言葉を聞いて、私の中で何かが弾けた。
「ねぇ、先生」
「何?お…ッ!」
「恋って何なのかな…恋人って何なの?」
「尾ノ上さん…」
「――好きな人を好きでいちゃダメなのかなあ…」
「……」
「こんなにも好きなのに…愛してるのに!一緒にいちゃダメなのぉ?」
正直な私の気持ちが溢れ出た。
ずっと思っていたことだった…私が先生を好きになることは、そんなに咎められなきゃいけないことなの?と。
「ねぇ、尾ノ上さん」
頭上から温かい声が降ってきた。
その、あまりにも優しい声音に、私は唇を噛みしめたまま顔を上げた。と。
驚いた。
とても穏やかな、幸せそうな――そして何よりも愛しそうな顔を浮かべている麻衣子ちゃんに。
「実はね。その気持ちがよく分かるの…私も昔、同じことを考えていたから」
「同じ、こと?」
「うん。好きでいちゃダメなのかな?とか、一緒にいることはそんなにいけないことなの?とか、ね。そんなことをいつも考えていた。そうするとね、どんどん、どんどん不安が大きくなって、いつの間にか、彼にいつ嫌われるのかって考えるようになっていた。それは、彼のことを信じ切れなかった、ということ。弱かったの、私は。結局、自分が可愛くて、傷付くのが怖くて、一度、彼から逃げてしまったの」
「麻衣子ちゃん…」
「でもね。その時に思い知った、彼への想いの大きさに。そして――彼の想いの深さに。私が離れてしまえば、彼がどんな風に思うか、傷付くか…全然気付いていなかったの」
「――ッ」
「たくさん遠回りしたけど、今でも彼と幸せな時間が過ごせてる。あの時、この想いを貫いてよかったって思っているの」
「……」
「だからね」
麻衣子ちゃんの口調が少し強くなった。
「相手がどんな人でも、それが本当に愛ならば、愛していけないなんてことないのよ。恋愛は自由よ」
「何より、自分が愛している人ならば、その人を信じてあげて――向き合ったり頼ったりして、その人に正面からぶつかってみて。きっと大丈夫。だって、あなたが選んだ人なんだから――愛している人なんだから」
次話から後編に入ります。