第十話 色、人を迷わさず人自ら迷う
突然、部屋の襖が開き、真っ直ぐな黒髪が印象的な若い女の人が現れた。
ゆったりとした浴衣姿の彼女は、わたしに気付いていないようで、視線を反対側に彷徨わせている。
「……」
(一体、この綺麗な人は誰なんだ?)
尾崎さんに黒崎さん、尾崎さんの部下で白井さんに、金山さん、銀林さん――わたしの記憶が正しければ、この尾崎家に住んでいたり出入りしたりする人々は皆男性ばかりだったはずなのだが。
《ニャー》
「!」
「あら?貴女は?」
クリッとした瞳が戸惑うわたしを視界に捉えた、その時。
「あ!明ちゃんじゃないか」
玄関門が開いた。
「ただいま!明ちゃん」
「……お帰りなさい、尾崎さん」
驚きの表情から嬉しそうな顔に変わった尾崎さんは、門から屋敷の玄関口へと続く道から逸れ、庭を横切ってわたしの目の前に駆け寄り、帰宅の挨拶をした。
その様子はどう見ても主人に駆け寄って来る忠実な犬のようで、今にも嬉々として揺らすしっぽが見えてしまいそうだ――わたし的には、犬よりも猫のほうが良いのだが。
ただ、そんな尾崎さんの様子を見ていると、わたしもついつい笑みをこぼしてしまいそうになる、と。
「あ!恩さん」
そうだった。
尾崎さんの登場によって、先ほどの妙な空気はぶち壊されたわけだが、この人の存在が消えてなくなってしまったわけではない。
尾崎さんは名を呼ばれ、彼女の方へ顔を向けた。
「香織さん」
「ごめんなさい、恩さん。黒崎さんのところに行こうと思ったんですけど、道に迷ってしまって」
「ああ、この屋敷は無駄に広いからね、迷ってしまうのも仕方がないよ。黒崎のところでいいんだね?僕が案内しよう」
「ええ、ありがとう」
香織さん…――そう呼ばれた女性から視線を外した尾崎さんは、わたしに向き直った。
「明ちゃん。そういうことだから、ちょっとここで待っててね。僕は香織さんを黒崎のもとへ送ってく」
「すまないのだ。今日は早めに帰らないといけなくて、もうお暇させてもらう」
「へ?明ちゃん、夕飯食べていかないの?って、どうしたんだい?硬い表情をしているよ。どこか具合でも悪いのかい?」
「…ッ、何でもないのだ!それじゃあ、またっッ」
わたしは急いで尾崎家を後にした――…わたしの生きがいであり大好きなキンを放置するほどの勢いで。
「どうしたんだろう?明ちゃん……」
《……ニャーッ》
「何、僕が全部悪いみたいな目で見てるんだい?キン」
「…あの、恩さん?」
「――ああ、悪いね。君のことを放っていたよ。さあ、案内しよう」
もちろん、尾崎家を飛び出したわたしには、このような会話が成されていたなど知る由もない。
(どうしてだ。何故、こんなにも胸が苦しいのだッッ)
これまで、親しくしている男の人が、知らない女の人と仲睦ましげにしている様など、何度も見たことがある。充や優斗がいい例だろう――だが。
どうしてか、尾崎さんがあの綺麗な人の名を呼び、彼女も尾崎さんの名を呼び、尾崎さんが彼女に優しくしているのを見ているだけで、もう耐えられなくなったのだ。
(これは、もしかして……まさかっ)
「それは、ズバリ『恋』だよ!」