第八話 石の上にも三年
ここは京都。
昔の首都であり、政治・経済の中心であった。百姓・武士・為政者、様々な身分の者が集まった。そして、人が多く集まるところこそ、歓喜・快楽・憎悪・嘆き・恨み・悲哀……人々の様々な思惑が絡まり、そこには闇が生まれやすくなる。そして、そこにつけいるモノたちも。
―――――――――――――――――――――――――――――
女は必死に走った――…つもりであった。
無情にも、その顔面は恐怖に引き攣り、体は震え、足は縺れてしまい、第三者から見れば早歩きしているくらいのスピードにしか見えない。
それでも女は足を止める訳にはいかない。
何故なら足を止めれば最期――おそらく自分の命の灯が儚く消え去るのを本能で感じているからである。
女はこんな真夜中に出歩いてしまったことを激しく後悔していた。
もし真夜中でなければ…、もし一人でなければ…、もしあそこを通らなければ…、もしもしもし、といくら考えても現状は変わらない。
体も精神もすでに限界を通り越している。
どうして自分はこんな目に遭わなくてはいけないのか、何故大きな通りまできたのに人も車もいないのか、もう全てが絶望の淵に立たされた時、女の目に自分に近付いてくるアレが映った。そう、この世のものとは思えないアレが。
―――――――――――――――――――――――――――――――
夜も更けそろそろ朝日が昇ろうかという時、例の屋敷へ戻ろうとしていたクロは、《ニャー》と鳴く野良猫たちの声が耳に届いた。
小さい体の向きを変えゆっくり堂々とそこへ近付くと、底の見えない黒に包まれた瞳に映し出されたのは、精気のない女の姿であった。
「行方不明、だと?」
「そうです。まだ世間に向けては発表されていないのですが、ここ最近、若い女性の行方不明が立て続けに起こっているのです」
「……」
「若い、女性か――」
「当初は借金や男女間での問題を抱えた女性の失踪だったので、金銭トラブルや怨恨の線で捜査されていたようなのですが、勤務態度も良く人間関係も良好で失踪するような要因が見当たらない女性までも行方知れずとなってしまったのです。この一ヶ月という短期間に五件も続くとなると、事件性も考えられます。通り魔的な誘拐犯か拉致犯か暴行犯か―――…行方不明となった女性たちの接点はほとんどありません、ただ」
「…………」
「ただ?」
「女性たちの共通点として、皆、十代後半から二十代前半というものが挙げられます。しかも、女性たちの住所が京都市内のとある場所に限られています」
「………………」
「なるほど。それで、お前にも話が回ってきたってことか、優斗」
「そうです。だから、あなたたちの耳にも入れておこうと思いまして――ねぇ、充、明」
「な、なんでここにいるんだ!優斗ぉッ!!」
楽しく充実していた夏休みも明け、季節が秋へと移り変わる中、またしても憂鬱な授業が始まってしまった。
(ああ、面倒だ。どうしてこうも勉強ばかりしなくてはいけないのか、ハアァッァァ)
五月病ならぬ、休み明けの憂鬱病に一歩足を踏み入れようとしていたわたしは、授業がはやく終わり、日課となりつつある猫屋敷ならぬ尾崎家への訪問までの空いた時間を利用して、約一ヶ月半ぶりにサークル部屋へと足を向けた、と。
そこには、何故かここにはいるはずのない、違う大学に通っている優斗が、何故かサークル部屋の中央を陣取り、一切この部屋にはそぐわない豪華なソファーに座って優雅に紅茶を飲む様が、目に飛び込んできたのである。悔しいことに、こんな簡素な室内なのに、優斗という存在とその雰囲気にピッタリなソファーによって、ここはまるでどこかのホテルのロビーかのような錯覚を覚える。
暫し思考が停止したわたしは、玄関先で立ち止まっていたのだが、不意に優斗に名前を呼ばれ、慌てて声を発したのであった。
「何故って……私もこの『星空サークル』に入ったのですよ」
「ハアァァァァ?!いつッッ!?」
「いつって……そうですねぇ、確か九月ごろでしたね、充」
「ああ」
「九月って一ヶ月も前から……何でわたしに教えてくれなかったのだ、充?!」
「そんなの、お前が夏休み中ずっと大学へ来なかったからだろ?俺らに会ったのって確かあの映画の時以来だもんな。わざわざ連絡するほどのことではないし――お前、この夏休みは何をしてたんだ?」
「そっ、それは――…バイトだ」
「ヘエ、面倒くさがりなお前が大学に来る暇もないくらいバイトしてたのかよ」
「……――実は、とある屋敷に入り浸って猫を愛でてました」
「ああ、前に麻衣子から聞いたことあるな……確か、東山の猫屋敷だったか?」
そうだ。
わたしは約一ヶ月半という大学に行かなくてもいいなんて誠に素晴らしい期間である夏休みに入ると、一切大学には寄り付かず、大半の時間を尾崎家へ赴き、そこの縁側で屋敷に住み着いているクロ・キン・ギンといった屋敷にいる面々の世話をしたり一緒に遊んだり……と、至福の日々を過ごしていたのだ。ああ。今思い出すだけでも、なんと甘美な時間であったか……――出来ることなら、ああやって猫を愛で猫を見守り猫と共に過ごす日々を送りたい。
「おい、明。お前の思考、駄々漏れだぞ。俺、お前がきちんと社会で生きていけるのか、心配になってきた…」
「まあ、明の猫に対する想いの強さあまりに、奇行に走ることは今に始まったことではないのですから」
「優斗ッ!奇行って何だ!奇行って!!そもそも、どうして全く違う大学に通う優斗が、うちの大学のサークルに入るんだ?!優斗なら、向こうの大学のサークルでも部活でも引く手数多だろ!」
フウッと一息ついて、そっとティーカップを皿の上に置いた優斗は、それはそれはとても楽しそうに目元を緩ませた。
「だって…―――充に明に麻衣子……こんな面白いメンツが揃っているサークルに入らないわけではないでしょ?」
……そうだった。優斗は面白いことが大好きな太刀だった。
わたしに充に麻衣子と、優斗にとって愉快な人材が転がっているのに、そこへ足を踏み出さない訳がなかった。つまり――。
(あの映画の日、わたしたちが出会ったあの瞬間、こうなることを予想していな
かった、わたしの認識が甘かったということ、かァ)
今後の日々を思うと、何度も何度も溜め息をつきたくなってしまうのは仕方がないと思う。
「昨日、麻衣子と来た時は誰もいなかったから、こんな展開予想していなかった…」
「ああ、そういえば、昨日は俺も塾のバイトでいなかったな」
「私もここ数日は忙しかったので、夏休み明けにここへ来るのは久し振りのような気がします。なんせ夏休み中は、ほぼ毎日通っていたくらいですから」
「ハァ?毎日!?」
「そういえば、麻衣子は?」
(わたしの反応はムシなのかッ!説明もないのかっ!一体、何様のつもりだ!!……ああ、そうだった。彼は優斗サマだった)
優斗がわたしの後ろを窺うような仕草をする。
「麻衣子なら、いないぞ」
「何故です?夏休み中、平日はいつも会っていたのに」
「ハアアアア?!いつも…ッて、一体どういうことだ!!」




