雨竜
雨竜
中国の想像上の動物。竜の一種。トカゲに似た大きなからだで、角はなく、尾が細長い。全身青黄色という。あまりゅう。
辺境の貧しい村ではあるが、特に飢えるほどでもない。雨風強く降り付けるような日も多くあるが暴れ川はなく、ひどい土砂崩れに見舞われたこともない。良きところと言い難いものの、悪いところでもない。即ちいたって平凡なところでの出来事である。時代は知れず。ただ古い話である。
村に住む童どもが、裏山の竹林に遊びに出かけたときのことだった。竹林は人を惑わす迷い神の住むところであるから、深く立ち入ってはならないと注意されてはいたが、やんちゃな子供たちのことであるから、つい少しくらいはと思い進むにつれて、帰る道も分からないようになり、途方にくれて泣き出すものも出てきた。如何ともし難く、歩きつかれたこともあり、こう迷ってしまっては徒に歩き回っても詮無しと思い、皆集まりてそこかしに座り佇んでいると、次第に小雨がぱらぱらと降り始めた。
あぁ、泣きっ面に蜂とはこのことである。不幸が重なり、子供たちのこころは雨雲の如く重く沈んでいたところ、どこからかあやしくかわいく鳴く声が聞こえて来た。何者であろうか、あるいは迷い神の誘う声かといぶかしく、また恐ろしく思っていたところ、白く美しき毛並みの犬に似た生き物が、とっとと鳴きながら歩み寄って来るのを見つけた。
あれは何かと考える間も無く、そのいとかわいげな様に女子魅かれて駆け寄る。男ども怪しく思へども、白き蛇の尊きこと、やもりの白く有り難きことを思えば、かなる純白な獣もまた尊からんと結論付けて、終に我も我もと撫で遊ぶ。
白き獣はそれを疎ましく思ったのであろう、ひょいと童の股をくぐり抜け、去っていく。撫で足りぬ童ども、まて、まてと追い回す。十分ほど追いかけ、やっと獣に追いつき、捕まえてみると、竹林をすっかり抜け、見覚えのある景色が広がっていた。少し高くなった丘の上からは村がはっきりと見える。雨もあがり、日が差し、虹がちょうど村の少し奥くらいにかかっている様が美しい。童どもはその光景にすっかり見呆け、その後ハッとして獣の姿が見えないことに気がつく。あれは何であったのだろうかと皆で話すが、結論は出ない。ここにいても仕方がないと思い、童ども皆手を繋ぎ、歌をうたって帰ることにした。
童のうち、特に犬を好む優しい性格の女子がいた。姉に竹林で迷いたることを言い伝え、かの犬に似たる獣に再度会わんことを欲して共に行く。竹林に入り、かの獣の鳴き声を真似て歩む様はなんとも可愛く微笑ましい。それに誘われたか知らん。女子の声真似に返す声あり。彼の白き獣である。女子まこと喜びて獣撫で遊ぶ。それを女子の後ろから見る姉は、獣のあまりにも美しく尊き様に驚き、必ずしも神聖な神に仕え給うに違いなしと思い、持ちて来る握飯の一つ取りて白き獣に呈する。獣、喜びてこれを喰らう。
「きっと貴方様が、子供たちを哀れに思って竹林から出してくださったに違いありません。どのような神様の御使いにあらせられるかは存じませんが、まこと有難きことであります」
と姉は深く深く感謝して述べ、妹の獣を撫でたるを諫めて止めさせ、白き獣の飯を喰らいたる間、手を合わせ、恭しく感謝申し上げるとともに、これからも我ら見守りたまえと切に祈るのであった。
その後、二度三度、女子白き獣に逢わんと竹林を訪ねたれども、次第に冬さびて雪降りたればもはや訪れ難いものがある。昼に秋雨を懐かしみ、夜に春雨を想う日を送るは心焦がれる思いぞする。然るに耐え難くなりて、雪まだらに解けたる中、雨降りたるも厭わず、親愛の姉に偽り言する後ろめたさをも振り払いて竹林に向かうは、ただただあの可愛き獣に会いたい一心があるのみである。如何にも幼く愚かな純真と言うべきものである。竹林の手前、あたかも女子を迎えんとして白き獣あるを見て、女子、嬉しさのあまり、走り来たるが故の息苦しさも忘れ、鼓動の早まりも胸の高鳴りにまぎれるが如し。この獣の待ちたる様はなんとも愛嬌があってかわいい。それを見て喜びのあまり雨を忘れ、寒さも忘れ、むしろ白き獣の温かきを愉しむ女子の様のなんと微笑ましきことであろうか。
しかしそのとき、女子はハッと後ろに、黒き猿に似たる鬼の立ちたるを知る。恐れおののき、腰も砕けて逃げるに逃げられず。眼に溜まった涙が溢れこぼれ落ちるほどで、声も出なかったが、それでも何とか振り絞り「あぁ、かわいき君よ、逃げ給え」と白き獣を気遣う様は如何にも健気で尊い。
そうして白き獣を後ろに逃がさんとしたとき、腕からヒュっと獣が抜け出し、女子と鬼の間に割って入った。鬼が歩み寄ってくる。風に吹かれて漂うにおいが生臭い。
「こは変わった犬じゃ。いと白く見目麗しく、また毛も艶ありて長ければ剥ぐもよし、喰らうもよし。思わぬ儲けものだ」
と世にも恐ろしきことを言う。少女、あぁ、これまでと思い目を瞑る。ほんの一秒が一刻に感じるほどであったから、どのくらい時間があったかは分からないが、しばしして雷の物凄い音が聞こえて心臓が止まる気がするほどに驚いた。思わずはっとして瞑っていた目を開けると、そこには竹林を突き抜けて仰々しくうねり立つ白き獣がいた。目は赤く輝き睨まれるとそれだけで身動きが取れなくなる。牙は一つ一つが大岩ほどであり、ぱっくりと裂けた口は蛟と豚の子と伝え聞く象ですら丸呑みしてしまうだろう。毛の一つ一つが油で滴り、水をはじいている。その毛は棘のように鋭利であるから、触れれるだけで身を裂くに違いない。この巨体、軽く撫でれば岩を砕き、さっと尾を振れば家を潰すだろう。その威厳ある様は、あらゆる者の心を貫きて畏怖させるほどである。しかし不思議と、少女は獣に恐怖を感じなかった。雷光に照らされる白い獣は、ひたすらに神々しく、有難く思えたのである。
獣が、口を僅かに開いて言う。
「鬼よ去れ。再びこの地に姿を現すことあらば、死より他にないことを知れ」
鬼、腰を抜かし、まともに立つことも出来ぬ様なれども、這いずりて急ぎ山に逃げる。
獣、少女を見て言う。
「我は父に雨龍を持ち、母にシンゴ(聖獣。虎に似た姿をしており、徳のある人物の前に現れるという)を持つ者なり。父は孤高を誉れとし、母は聖者を求め海山を越えて行かば、天涯孤独の身と言うも可なり。我、父の龍性から群れるを嫌うといへども、母の衷心をも受け継がば人を愛する心あり。さあらば、人中に生きるにあらざれども、人外にありて人を守らんと欲する。故にこの地に参りて汝が村を見守っているのだ。
汝の村人、我を崇めるにあらざれども、日頃の生業堅実にしておろそかにすることなく、また家族朋友と親しく交わることを常とし、相争うことなし。不幸な寡あらば皆で助け、また他人の子を愛でること己が子と異ならず。一人のの賢者なしといへども、皆よりて文殊とし、一人の英傑なしといへども、共に助けて一糸も乱れず。これ、我の汝が村を好む所以なり。
幼子よ、村に帰れ。そして、再びこの地に参るなかれ。竹林を越え山に行き、かなる鬼の跋扈したるを見るは、我とてげに恐ろし。かなる盆地の狭しといへども、飢えなく災いなきことは、実に幸いなり。これ、天の汝らに与えたるものと思え」
そこまで言い終えると、白い獣は天を仰ぎ見た。気が付くと、少女と聖獣の周りにだけ日が差している。余りにも聖獣が大きいので、少女はすっかりとその影に収まっている。光を受けた聖獣は本当に神々しい。その御顔は威厳に溢れ、雄々しく、自然と頭が垂れる。雨が滴る毛の一筋一筋が美しく、そのお姿からは不思議と母の様な温かみを感じる。見とれていると、ふと笑みを浮かべたように思え、はっとしているうちに、そのお姿は霧となって消えてしまった。雨はすっかりと晴れ、大きな虹がかかっている。その下にある村里には、光がいっそう強く差し込んでいた。少女は竹林に向かい敬をなし、里へ帰り、このことを伝えた。
その後、竹林の手前に小さな祠が建てられた。季節ごとにお供えものをし、有難い聖獣の加護に篤く感謝申し上げ、お言葉に違えることがなかったため、村はいつまでも平穏であったという。