第9話:包囲網の構築
深夜のケア室前での「鉢合わせ事件」は、白百合騎士団の全機能に、目に見えぬ亀裂と異様な緊張感をもたらしていた。
翌朝、定例の幹部会議。
円卓の首座に座るセレスティリアと、その右腕たるエスト・ヴィオラ。二人の間には、物理的な距離以上に冷たく、鋭いナイフのような沈黙が横たわっている。
「……次の、議題に移るわ」
エストが、氷の塊を吐き出すような声で切り出した。
手元でめくられる書類の音さえ、普段より刺々しい。
「特別ケア要員・レオン・アルジェントの処遇、および公式な身分保証について」
セレスの眉が、ピクリと跳ねた。それは明白な、戦闘開始の合図だった。
「先日の試用期間――正確には一週間の結果提示について。彼の滞在開始からすでに二週間が経過していますが、その有用性は、団長ご自身が最も切実に、そして肉体的に理解されているはずです」
エストの眼鏡が、逆光を受けてパッと白く光る。その瞳は、逃がさないと言わんばかりにセレスを射抜いていた。
「彼のケアを受けた隊員たちの動きが、明らかに違います。誰もが開戦時のような鋭さを一日中保っている。……特筆すべきは団長個人です。剣筋の鋭快さ、魔力の練り上げ速度。もはや別人のように仕上がっているわ。……主に、深夜から未明にかけて行われている、非公式な個別ケアによる効果、とお見受けしますが」
セレスの白い肌が、一瞬にして真っ赤に染まった。
羞恥と、そして秘密を暴かれたことへの動揺が、彼女の冷静さを奪う。
「な……っ、何を……根拠に、そんな不確かなことを……!」
「事実を、ただ述べたまでです。私の目は、誤魔化せませんよ」
円卓を囲む他の隊員格――ディアンヌは「肉体的理解……深夜……?」と顔を赤らめて首を傾げ、ミレイアは静かにこめかみを押さえ、リリヤは椅子の背もたれにふんぞり返りながら「団長、ズルいぞ。俺だって揉んでほしいのに」と不平を漏らす。
「よって、レオン・アルジェントを一時的な滞在ではなく、公的な地位に据えて私の手元に置くことを提案します」
エストが一枚の、すでに自身の署名が済んだ書類を円卓に滑らせた。
『副団長付き・特別戦略補佐官への任命について』
セレスの目が見開かれ、唇が小刻みに震えた。
「……待て。副団長『付き』だなんて、そんな職権濫用が通ると思っているのか! それは実質的に、あいつをお前の私物にするということだろう!」
「騎士団全体の利益を考えた上での提案です。現在、彼のケア枠は特定の個人によって――」
エストの視線が、隠す気もなくセレスをなぞった。
「――感情的に、かつ無計画に独占されている。これは私の……いえ、騎士団の貴重な戦力である私の精神状態にとって、極めて看過しがたい由々しき事態ですわ」
円卓が、静まり返った。
セレスが、ガタッと椅子を蹴り飛ばすように立ち上がった。全盛期以上の魔力が、怒りに任せて彼女の周囲に渦を巻く。
「却下だ! 断固却下する! 彼は騎士団全体の、ひいては苦しむ民のための慈雨であり、特定の個人の所有物にすべきではない!」
「あら。では、団長ご自身も今日限りに深夜の徘徊とケアをお止めになる、ということでよろしいかしら? ご立派な理念を掲げるのであれば、まずはご自身が潔白を証明なさい」
「っ…………それは、団長としての、最前線維持のための……不可欠なのだ!」
「ふふっ……滑稽ですね。私にとっても、彼を自室に招き入れることは、副団長としての私を維持するための、絶対に必要な『癒やし』です」
火花が激しく散り、周囲の隊員たちは息を呑む。
この二人の、国家最強レベルの女性による、なんとも低次元で、しかし切実すぎる「一人の男の奪い合い」に。
「この議題は保留だ! 以降、彼に関する人事は私の直接承認なしには認めない!」
「議事録には残しておきます。……正当な要求が、団長の私情によって棄却された、と」
◆
会議の後、エストは執務室に戻り、静かに扉の鍵をかけた。
「……ここまでは思い通りね」
エストの唇に、三日月のような薄い笑いが浮かんだ。
先ほどの「副団長付き」の案が通るとは、最初から思っていない。
目的は別にある。セレスに「独占欲」という名の毒を自覚させ、彼女の隙を誘うこと。そして同時に、周囲の目をこの騒動に引きつけ、その裏で「本命」の処理を進めること。
エストは机の引出しの奥から、別の書類を取り出した。
それは、白百合騎士団の根幹規則を微修正し、レオンを「正規の騎士団所属・一級文官」に格上げするための人事申請書だ。
正規文官となれば、彼の身分は軍法によって極めて強固に守られる。王都からの急な引き抜きも、特定の指揮官による恣意的な解雇も、法的に不可能になる。
そしてその管理者として、何食わぬ顔で自身の名を連ねる。
「最初から、彼を誰かに渡すつもりなどない。私のものだ。誰にも奪わせない」
レオン自身の意志さえも黙殺し、彼女は着々と、彼をこの騎士団に――自分の傍に鎖で繋ぐための愛の檻を組み上げていた。
「……ふふっ。逃がさないわ、絶対に」
羽ペンが紙の上を狂おしく滑る。
その筆跡は、いつもの幾何学的な美しさから、情熱という名の歪みを持って、力強く刻まれていた。
◆
天井裏で、その一部始終を「影」として見つめている少女がいた。
シエル・ファントム。暗殺部隊副隊長。
彼女は今、梁の上に逆さまに張り付いたまま、エストが書き換えている書類の内容を、一文字残さず脳内の記憶領域に転写していた。
『副団長、越権行為の疑い。レオン氏を法的に拘束する工作を独断で進行中。団長の承認印を不要とする例外規定を模索している模様。』
シエルの感情を排した瞳が、わずかに細まった。
彼女は騎士団の「目」であり「掃除人」。組織に仇なす者は、たとえ副団長であろうと排除の対象となる。
けれど。
シエルは、自分の小さな掌をじっと見つめた。
先日、誰もいない深夜に、レオンに施された足裏のケア。
「シエルさんは、冷え性ですね。きっと、ずっと冷たい場所で頑張ってきたんでしょう」
そう言って、温かい治癒魔力を込めた彼の手が、彼女の氷のような心を、ほんの一瞬だけ溶かしたのだ。
その感覚が、今の彼女のナイフを、わずかに鈍らせる。
『追記:この件は、セレスティリア団長に即時報告すべきか迷う。……レオン氏の安全と現状の維持を優先し、当面は様子を見る。私情ながら、このままの方が良いのかもしれない。』
シエルは音もなく、一筋の影となって天井裏を去っていった。
彼女もまた、この「オアシス」を壊したくないという、初めての私情に振り回され始めていた。
◆
一方、当のレオンは、激しい嵐が周囲で吹き荒れていることなど露知らず――
「えーと、ここのサッシの溝には綿棒を使って……。いや、やっぱり最後は古布で磨き上げるのが一番かな」
駐屯地の長い廊下で、一心不乱に窓掃除をしていた。
腰には重曹水の入ったバケツ、手には使い古した雑巾。
窓から差し込む陽光を受けて、彼の穏やかな横顔がキラキラと光っている。
「おや、レオン殿。相変わらず熱心だな」
通りかかったディアンヌが、壁のように巨大な体を縮めて声をかけた。
「あ、ディアンヌさん。おはようございます。……まだ手の甲の傷、少し残ってますね。今日も夜、来てください。新しい塗り薬、僕が特別に調合したんです」
「い、いや! 悪い、そんなわざわざ……私のような無骨な女のために」
ディアンヌの顔が、耳まで真っ赤に染まる。
彼女は、レオンの「特別に」という言葉に、過剰な体温上昇を感じずにはいられなかった。
「怪我に男も女もありませんよ。大事なのは、ディアンヌさんが明日も元気に戦えることです。……約束ですよ?」
レオンが、眩しいほどの笑顔で念を押す。
ディアンヌは「う、うむ……」と消え入るような声で答え、逃げるように立ち去った。その背中には、初恋に戸惑う乙女のような可愛らしさが漂っていた。
◆
日が暮れ、夕闇が駐屯地を覆う頃。
ケア室の前で、セレスティリアが今夜も足を止めていた。
だが、その背後に立つ、黒い長髪の副団長の気配を、彼女は即座に察知した。
「……出てこい、エスト。そこにいるのは分かっている」
廊下の影から、エストが静かに、そして挑戦的な笑みを湛えて姿を現した。
「さすが団長。気配を探る能力が、ここ数日で飛躍的に向上しましたわね。……あれほど濃密なケアを毎晩受けていれば、当然の結果と言えるかしら?」
「……貴様、嫌味を言いに来たのか?」
「いいえ、交渉に来たのです。誰もが納得する形の、現実的な『解決策』を携えて」
二人が、真っ白な廊下で対峙する。
気温が魔法的に低下したかのような、絶対零度の静寂。
「週三日。これが私の譲歩できる限界ですわ、団長。残りの一日は、功績のあった一般隊員への『特別報奨枠』として開放すべきです。……これ以上の独占は、部下たちの不満を煽るだけです」
「……枠だと? 彼を物のように扱うつもりか!」
「彼をただ一人に集中させるから、奪い合いになるのですわ。彼だって、一人の人間。私たちの重圧で彼自身を壊してしまう前に……時間を区切り、徹底的に管理して『守る』べきよ」
エストの言葉には、建前以上の、レオンへの切実で重すぎる保護欲と独占欲が滲んでいた。
セレスはそれを聞き、己の無力さを悟るように息を吐いた。
「……分かった。週三日。それ以上は、騎士団の結束を乱す、利敵行為と見なす」
「ええ。合意に達しましたわね、セレスティリア」
二人の間に、一時の停戦協定が結ばれた。
だが、それは平和の訪れではない。より巧妙で、より熾烈な「正妻」を巡る、本格的な内乱の序曲に過ぎなかった。
◆
ケア室の中では、レオンが暢気に三人分のハーブティーを淹れ終えたところだった。
「あれ、今夜は二人とも同時ですか。珍しいですね、仲がいいんですか?」
「偶然だ!」「偶然よ!」
見事に重なる否定の声。
レオンは困ったように笑い、二つのティーカップを、絶妙な配置でテーブルに並べた。
「まあまあ。お茶を飲みながら、肩の力でも抜きましょうか。お二人とも、今日は廊下ですれ違った時に、すごく怖い顔で睨み合ってましたよ」
「当然よ。この女の厚顔無恥な私物化工作を考えれば、顔も尖るわ」
「あら。恋する乙女のようにウロウロとケア室前を徘徊するご自身の滑稽さを、少しは省みていただきたいわ」
レオンは「あはは、僕のせいでケンカしないでくださいね……」と苦笑しながら、怒れる二人の背後に回った。
窓の外には、静謐な満天の星空。
駐屯地に流れるのは、夜風の音。そして、どんなに否定したくても認めるしかない、二人の女傑が同時についた、最高にだらしなくて、最高に安らかな安堵の吐息。
――翌日の早朝。
訓練場では、すでに凄まじい剣風が巻き起こっていた。
セレスとエストが、防具もつけずに、私情の限りを尽くした木剣での乱戦を繰り広げている。
「何か、あったのかなぁ……。朝から熱心だなぁ」
レオンはケア室の窓を丁寧に磨き上げながら、首を傾げた。
太陽の光を反射するガラスの向こう側で、騎士団を二分するような乙女たちの戦いは、まだ始まったばかり。




