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一般マッサージ師、女騎士団の専属になる  作者: 久喜崎


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第8話:計算外の重い感情



あれから、一週間が経った。


エスト・ヴィオラの日常は、表面上は一分の狂いもなく運営されている。

朝、鳥が鳴き始めるよりも早く執務室に入り、山積みの書類を優先度順にソートする。会議では冷徹なまでに正確な戦況分析を披露し、部下には毅然とした顔を見せている。


変わったのは、夜十一時を過ぎた後の、密やかな「儀式」だった。


「十一時五分。定刻ね。入りなさい」


エストの声に、一秒の遅れもなくレオンが扉を開ける。

彼女は表向きこれを「彼の技術による疲労回復の定期確認」などと呼んでいたが、実態は違った。限界を迎える前に「彼との逢瀬」という名の合法的な独占時間を確実に確保するための、完全な私設ルールである。


「今日も五分ですか? エストさん」

「……いいえ、今日は十分よ。明日の王都軍務局との折衝に備えて、左側の僧帽筋への継続的な圧力を増やす必要があるわ。……だから、十分間、絶対に手を離さないで」


レオンは、トレイに載せた予備のハーブティーを置きながら苦笑した。


「秒単位なんですね。相変わらず」

「……ええ。さあ、始めて」


エストはソファに座り、まるで儀式用の石像のように背筋を正した。だが、レオンの手が彼女の首筋に触れた瞬間、その細い肩がわずかに、期待を孕んで震えるのを彼は見逃さなかった。


「……っ、ぁ……」


指先が接触した瞬間、エストの脳内に、快感の痺れが走る。

たったそれだけで、一日の激務で張り詰めていた武装がすべて解除されてしまいそうになる。

彼女の全細胞が、レオンの魔力を「絶対不可欠な存在」として求めてしまっていた。


レオンの指が、熟練の職人のようにエストの疲労の芯を捉える。


「……ここ、ですね。今日は左のこめかみの拍動が少し強い。午後の予算会議、かなり紛糾しましたか?」

「……どうしてわかるの」

「触ればわかります。あなたの筋肉が、『今日はここが辛いです』って僕の手に喋りかけてくるんですよ」


冗談めかしたレオンの言葉。その指先が側頭筋の深い凝りにある「一点」を捉えようとした瞬間、エストは奥歯を噛み締めた。

声を出すまいと。あの夜のように、無様に彼の手の中で蕩けてしまうのを隠そうと。自分は優秀な副団長であり、セレスのように骨抜きになってだらしない声を漏らす俗物ではないはずだ。

その「強がり」すらも、彼への愛情の裏返しであることを、彼女は薄々自覚し始めていた。


「エストさん、呼吸して。そんなに息を止めたら、せっかくの気が詰まってしまいます」

「……黙りなさい。集中、しているのよ……っ、あぁ……」


短く切り捨てた声が、隠しきれずに色を帯びて掠れる。指が首の付け根、延髄のすぐそばを愛撫するように圧迫する。視界が白く飛び、思考という名の鎖が、一本ずつパチンと弾けていく至福の快感。



十分間のケアが終了した後、エストはいつものようにハーブティーを啜りながら、レオンと短い会話を交わした。

これも彼女に言わせれば「心が落ち着いて仕事がはかどる」からということになっているが、本音は「少しでも長く彼を自室に留めておきたい」という執着だった。


「レオン」

「はい」

「あなたは……なぜ、治癒師になったの。その……異常なほど、過剰な能力を持ちながら」


窓の外、月光が青白く駐屯地を照らしている。ティーカップの温もりに指を添えながら、レオンは少し困ったように遠くを見つめた。


「理由、ですか。うーん……たぶん、それしかできなかったから、だと思います。肉体強化も戦闘魔法も、同期の中では最低レベルで。炎の属性魔法を練習したら、自分の前髪が焦げちゃったくらいですから」


エストは無表情を保ったが、内心では、額を抑えて慌てる少年の姿を想像し、ほんの数ピクセルほど口角が緩んだ。


「でも、傷ついた人の体を触ると、どこが痛いのかが光って見えるような気がしたんです。『楽になった、ありがとう』って。その一言が、不器用な僕にとって、何よりの救いだった」


レオンの目が、思い出を慈しむように優しく細まる。


「だから、今もやっています。戦うことも、国を動かすことも僕にはできない。でも、戦って疲れた皆さんの、その一瞬を支えることならできる。それで、十分なんです」


エストは、カップの中の琥珀色の液体をじっと見つめた。


支えるだけで十分。

この男は、本気でそう思っているのだ。

王宮の筆頭治癒師さえ凌駕するほどの特級能力を持ちながら、己の価値をまるで理解していない。ただ「ありがとう」のために、夜な夜な他人の泥濘を掬い取っている。


(この男を、他の誰の手にも触れさせたくない)

そのドス黒いほどの独占欲が、彼女の理性を完全に焼き尽くそうとしていた。


「……馬鹿な男」

「えっ、僕、また何か失礼なこと言いましたか?」


レオンが、子犬のようにきょとんとして首を傾げる。


エストはバタンと立ち上がった。長い黒髪が、燃えるような情念を隠すように乱れる。


「今日は以上よ。このハーブティー、甘さが少し足りないわ。……明日も、同時刻。十分きっかり、一秒の遅刻も認めないから」

「はい。わかりました」


レオンが、どこまでも穏やかに微笑む。その笑顔を見るたび、エストの胸の奥で、計算では導き出せない「熱」が膨らんでいくのを感じていた。



翌日、エストは自分の中に渦巻く「異常なほどの情念」を、事務用手帳の隅に匿名を装って記録し始めた。


『対象:E・Vにおける彼への感情記録』


一日目:歓喜。合法的に彼を側に置ける環境の構築完了。

三日目:安堵。彼のケアによる極上の疲労回復。これぞ私の特権。

五日目:嫉妬。他の隊員と彼が話しているだけで不快。殺意すら覚える。

七日目:——


七日目の欄で、ペンが止まった。

書きたい言葉がないのではない。既存の、どの語彙を当てはめても、今の胸の締め付けとドス黒い渇望を表現するには不足しすぎているのだ。


エストはペンを置き、窓の外を見下ろした。

ケア室の前の廊下で、セレスティリアがまるで恋する乙女のように、頬を赤らめてウロウロしている。


視界が、怒りと嫉妬で完全に真っ赤に染まった。


「……腹立たしい。泥棒猫が」


手帳を握る指が、ミリミリと音を立てる。


「あの女……私の数倍も彼と一緒にいるなんて。どう考えても私だけの専属なのに……絶対に許せないわ」


強がり。すべては強がりだ、と自分でも薄々気づいていた。

氷のような冷徹さなどとうに消え失せ、恋敵を焼き尽くさんとする、苛烈な執着の炎だけがそこにあった。


「……セレスティリア・フォン・ローゼンバーグ」


エストは、手帳の「七日目」の欄に、ただ一言、激しい力で書き込んだ。


【争いも厭わない】



その頃。

セレスティリアは、ケア室のベッドの上でレオンに肩を揉まれながら、かつてない焦燥に駆られていた。


「おい、レオン」

「はい、団長」

「……お前、エストと二人きりで、一体何を……その、どんな『検証』をしているのだ」


レオンの手が、肩甲骨のキワを解きながら止まり、すぐに再開した。


「ああ、エストさんですか。眼精疲労の具合の確認と、あとは軽い雑談くらいですよ。彼女、一人きりで無理をしてしまいがちですから」


雑談。頑張り屋さん。

その言葉が、セレスの心臓を無慈悲に抉った。


「毎晩……行っているのか? あいつの部屋に」

「ええ、エストさんが『疲労の確認』だとおっしゃるので」


セレスの顔が、怒りと恥辱で真っ赤に沸騰した。

自分は団長としての「誇り」を言い訳に来ているのに、あいつは「業務」を隠れ蓑にして、彼との時間を確保している。


「……あの、抜け目ない……小賢しい女め!」


セレスが叫んだちょうどその時、廊下からカツカツという、硬い足音が近づいてくるのが聞こえた。


白百合騎士団に、戦場のそれよりも恐ろしい、新たな最前線が構築されようとしていた。


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