副団長の限界
エスト・ヴィオラは、自分の身体が「レオンの魔力」を再び摂取した瞬間を、正確に記憶していた。
レオンの指先が冷え切った首筋に触れた、あの深夜の二時。
それは四日前のことだ。
五分間の「検証」という都合のいい言質を取って申し出た男の手は、セレスに施した時のような力強さではなく、頭脳労働者に特化した繊細なアプローチだった。
「……あ」
エストの唇から、あの日以来ずっと我慢していた、抗いようのない吐息が漏れた。
こめかみの側頭筋。眼窩の周囲。首の付け根から後頭部にかけての、神経が密集したデリケートな筋群。
レオンの指は、まるで彼女の脳内の疲労物質を直接指先でつまみ出すかのように、正確に、そして深く沈み込んでいく。
「エストさん、力を抜いて。仕事のことは、今だけは忘れてください」
その声もまた、温かな魔力の波となってエストを包み込む。
酷使された頭脳を支える筋肉が、温かいバターのようにゆっくりと融けていく感覚。視界を覆っていた霞が晴れ、重く沈んでいた思考が嘘のように軽やかな浮力を持って動き出した。
五分が経過した時、エストは内なる至福を必死で隠していた。
視界が、入団以来最高レベルの解像度で澄み渡っている。
ペンを握る手は、微塵も震えていない。論理の鎖が、一分の隙もなく脳内で噛み合い、回転し始める。
何より、干からびていた彼女の心が、「レオン成分」で満たされたことで極彩色の喜びに震えていた。
「いかがですか?」
レオンの声に、エストは慌てて眼鏡を直して立ち上がった。ソファに残る、自分の身体が発していたはずの淀んだ熱気。
「……確かに、劇的な変化があった。認めざるを得ないわ。あんなに酷かった眼精疲労が、完全に消え去っている」
「よかった。それじゃあ、今日はもうゆっくり――」
「ただし」
エストはあえて冷たい目で見据えた。その瞳の奥で、まだ余韻として残る快感がくすぶっているのを悟られないように。
そして、団長を牽制するための決定的な「楔」を打つ。
「あなたの能力は認める。だが、セレスティリア団長への深夜の施術は即刻中止しなさい。あなたは私が連れてきた。私の、優先管理下にある専属……予備戦力のようなものよ。他の者にうつつを抜かすなど、言語道断だわ」
レオンは困ったように、癖のある髪を掻き上げた。
「ええと……僕は、辛そうな人がいたら放っておけない性分でして。団長も、かなり無理をされていましたから」
「……誰にでも、そのように優しくするのね。腹立たしいわ」
「えっ?」
「今後、どうしても誰かを思いやりたいと言うなら、私を優先しなさい。……明日の夜も、同じ時間にここへ来て。私の疲労を癒やすのが、あなたの最優先任務よ」
エストは半ば強引に言い切り、逃げるように執務デスクに戻った。羽ペンの先端が、新品のような滑らかさで紙を滑る。その後ろ姿を、レオンはただ、穏やかな笑みを浮かべて見送っていた。
背を向けたエストの顔が、彼に自分を最優先させた優越感と、「明日の夜もまた触れてもらえる」という約束を取り付けた歓喜で、だらしなく歪んでいたことなど知らずに。
◆
そして翌日の深夜。
エストの執務室の扉が、約束の時間を一秒も違わずノックされた。
「入って」
短く応じたエストの声は、努めて冷徹さを装っていた。だが、その実、扉が開く十分も前から彼女の思考は書類から完全に浮き上がってしまっていたのだ。
「こんばんは、エストさん。お茶をお持ちしました」
レオンが入室し、昨日と同じようにハーブティーを机の端に置く。
エストはペンを置き、無言で立ち上がってソファへと向かった。その所作があまりにもスムーズだったためか、レオンが小さく吹き出した。
「ふふ、今日は素直ですね」
「……勘違いしないで。これは、組織の頭脳たる私のコンディションを維持するための、最も合理的な処置よ。……早くしなさい」
ソファに座り、彼女はあえて目を閉じた。
背後にレオンが立ち、彼の温かい指先が首筋に触れた瞬間――
「……っ、ふぁ……」
エストの口から、昨日よりも甘く、無防備な吐息が漏れた。
自分でも驚くほどの反応。だが、一度この快感を覚えてしまった身体と脳は、彼の手を待ち焦がれていたのだと痛感させられる。
「今日は、右側の肩甲骨周りが特に固まっていますね。少し強めに解しますよ」
レオンの的確なマッサージが、彼女の疲労の芯を捉える。
冷たい鉄の鎧を着込んでいたような彼女の心と身体が、嘘のように融け、彼への依存度を深めていく。
「……五分よ」
「はい。昨日の約束通り、五分間だけです」
その言葉に、エストは内心で舌打ちをした。
こんな極上の時間を、なぜたったの五分に設定してしまったのか。己の過去の計算違いを呪いながらも、彼女はただ、背後の男の温もりに身を委ねるしかなかった。
◆
あの夜から、さらに二日。
エストは再び、絶望的な限界に追い込まれていた。
日々の五分間のケアによるブースト効果は確かに絶大だったが、それを嘲笑うかのようなペースで業務が積み上がっていく。
セレスのコンディションが絶好調になった結果、騎士団の遠征範囲は広がり、殲滅速度は増した。それは喜ばしい「戦果」の拡大だが、同時に処理すべき膨大な書類仕事の増加を意味していた。
「第七小隊、補給路の確保報告に三カ所の矛盾。第三防衛線の魔導壁維持コストの再試算……。王都軍査察官への提出資料……。ちっ、なぜ、私ばかりがこんな……」
窓から差し込む朝の光。昼の喧騒。夕暮れの影。
エストは時間の経過を、差し込む光の角度と、インク瓶の減り具合だけで感じていた。
羽ペンが紙を擦る乾いた音。それが深夜の執務室で、彼女の心臓の鼓動よりも大きく響く。
彼女には、弱音を吐く相手がいなかった。
セレスは、騎士団の象徴として常に明るく、強く、迷いのない存在。その輝きを維持するために、泥臭い事務処理で彼女を煩わせてはならない。他の隊長格も、それぞれの部隊運営と訓練で手一杯だ。
「副団長エスト・ヴィオラは、完璧に業務を統括する」
それが、彼女がこの数年かけて築き上げた防壁だった。
だが、今は違う。
「彼に逢いたい」
その一念だけが、彼女を呪いのように急き立てる。
仕事が終わらなければ、また深夜にこっそり彼を自室に呼びつける名目が使えない。彼との五分間――いや、今度は十分間要求しよう――そのために、彼女はひたすらにペンを走らせていた。
◆
「クリスさん、大丈夫ですか? 顔色が、その……土気色というか、なんというか」
一方で、騎士団の衛生室でも、もう一つの限界が訪れていた。
ディアンヌが、壊れ物を扱うような手つきでクリスを支える。
白百合騎士団の衛生兵頭・クリスティナ・ベル。彼女は、包帯を巻きながら、焦点の合わない目で宙を見ていた。
「あらあ〜、大丈夫ですよぉ。ほら、私の目を見てください、こんなにパッチリ……開いて……ますかぁ?」
完璧なはずの慈愛の笑顔が、重力に負けて崩れかかっている。
団の活動激化に伴い、訓練や実戦での怪我人が急増。魔法による即時治療が必要な重症者から、日々の体調管理、擦り傷への消毒まで、すべてが彼女一人の双肩にかかっている。
「ほら、リリヤちゃんの左腕の裂傷、化膿しやすそうだったから念入りに洗浄して……。あ、ノアちゃんの魔力酔い用の薬湯、煎じなきゃ……。それから、王都に申請する医療用ポーションの在庫リストが……あと、何千項目だっけ?」
クリスの手が、空を掴むように動く。
献身的で、誰に対しても優しすぎるお姉さん。けれどその優しさは、自身の肉体を削り取ることで成立していた。
「……クリス殿。今はレオン殿という強力な助っ人もいる。彼に少し任せてはどうだ?」
「だ、めよお……レオンくんは、まだ『外の人』なんだから。私が……私が、お姉さんとして、がんばらなきゃ……」
そう言いながら、クリスの糸の切れた人形のような危うさに、ディアンヌは深い懸念を抱かずにはいられなかった。
◆
四日目の深夜。
エストの限界は、唐突にやってきた。
報告書の最後の一枚を書き終えたところで、ペンが手から滑り落ちた。
「……っ」
拾おうとして、体が傾いた。
椅子からずり落ちそうになり、机の端を掴んで辛うじて耐える。視界が明滅し、空間が歪む。
まずい。
エストは冷静に自己診断を下した。極度の眼精疲労、慢性的な睡眠不足、魔力行使の反動による自律神経の失調。複合要因による一時的な機能低下。必要な処置は、休息と栄養補給。
解はわかっている。
けれど、身体が動かない。
扉をノックする音が聞こえたのは、その時だった。
「エストさん。まだ起きていらっしゃいますか」
レオンの声に、エストは歯を食いしばった。
「……なぜ、また来たの……」
「すみません、エストさん。あなた、昨日の深夜も結局扉の鍵を開けてくれませんでしたよね。今日もずっと灯りが消えませんでしたから、さすがに心配で入り口のマスターキーをお借りしました」
扉が開いた。
レオンの手には、前回と同じ温かいハーブティー。加えて今回は、小さな皿の上に焼きたてのスコーンが二つ載っていた。
「食事、摂っていないでしょう。ずっと執務室にこもったままなのを、僕は知っています」
エストの眉が跳ねた。
「なぜ、あなたがそんなことを――」
「ずっと心配だったんです。あなたが無理をして倒れてしまわないか、気が気じゃなくて」
レオンは穏やかに笑い、ソファの前のテーブルにティーカップとスコーンを並べた。
「食べたくなければ構いません。でも、お茶だけでも」
エストは動かなかった。
椅子に座ったまま、冷たい瞳でレオンを見つめている。
しかしその手は――ペンを握る右手は、いつの間にか震えが止まっていた。
ハーブティーの香りが、執務室に広がっていく。
カモミールとハニーブッシュ。温かくて甘い、安心する香り。
「……五分よ」
エストは立ち上がり、わずかにふらつきながらソファに移動した。
「今回も五分だけ。それ以上は許可しない」
レオンは頷いた。
「十分です。前回と同じ、首とこめかみをやりますね」
エストがソファに浅く腰を下ろす。レオンが背後に回り、彼女の首筋にそっと手を添えた。
今度は、前回とは違った。
レオンの指先が動き始めた瞬間、エストの体が小さく震えた。
前回の「検証」で、身体が覚えてしまっている。この手が自分に何をもたらすかを。
こめかみを押圧する親指が、絶妙な角度で側頭筋の凝りを捉える。視界の歪みが、嘘のように消えていく。
「あなた……っ」
エストの声が、僅かに震えた。
「はい」
「これは……ずるい。こんなの、頑なな私に対する……卑怯な交渉術よ」
「ただのマッサージですけどね」
レオンの指が、首の付け根から肩にかけて流れるように移動する。何日分もの緊張で鉄のように固まった僧帽筋を、温かい治癒魔力を含んだ掌がゆっくりと融かしていく。
エストの唇から、小さな吐息が漏れた。
「……っ」
慌てて口を引き結ぶ。
セレスのようにだらしない声を出すつもりはない。自分には理性がある。計算がある。
けれど。
「このあたり、ずっと痛かったでしょう? 何年も同じ姿勢でペンを握り続けた人特有の凝り方をしています」
レオンの声は、ただ穏やかだった。
「すごいですね。これだけの仕事量を、たった一人で」
その言葉に、エストの呼吸が止まった。
「……すごくなんかない」
声が掠れた。自分でも驚くほど。
「仕事なのよ。私がやらなければ、また……誰かが……」
「そうですね。だからこそ、あなたはずっと一人で背負ってきた」
レオンの指が、後頭部の緊張した筋肉を解きほぐしていく。
「でも、僕にできるのは裏方として皆さんを支えることだけです。戦うことも、事務処理をすることもできない。できるのは、疲れたエストさんの体をほぐして、温かいお茶を淹れるくらい」
エストの瞳が、微かに揺れた。
底抜けに卑下する男だ。規格外の治癒魔法を持ちながら、自分の価値を「お茶を淹れること」程度にしか見積もっていない。
彼を王宮に報告すれば、間違いなく最高待遇で囲い込まれる。
だが――絶対に教えるつもりはなかった。
「この男は、私のものだ」
その仄暗い執着が、彼女の胸の奥で音を立てて熱を帯びていく。
「……馬鹿ね」
エストの声は、いつもの冷徹さを完全に失っていた。
「あなたがどれほど……私にとって、必要な存在か……」
まるで告白のようなその言葉は、レオンの手技がもたらす極上の快感に溶けて、最後の数文字は吐息となって消えた。
レオンの指がこめかみに戻り、最後の凝りを解きほぐしていく。五分が過ぎようとしていた。
「はい、終わりです。お疲れ様でした」
レオンが手を離す。
エストの視界は、嘘のように澄んでいた。
頭の中の霧が晴れ、思考回路が冷たいほどクリアに回転し始める。身体は軽く、右手の震えは完全に消えていた。
「効果のほどは」
レオンが穏やかに問う。
エストは眼鏡を直し、立ち上がった。
ソファから立ち上がるその動作は、四日間の地獄を経た人間のものとは思えないほど滑らかだった。
「……確かに、前回よりも体が軽い。認めざるを得ないわ」
レオンは嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。それじゃ、スコーンも冷めないうちに」
エストはテーブルの上のスコーンに手を伸ばし、一口齧った。
バターの香りと、ほのかな蜂蜜の甘さ。空っぽの胃に染み渡る温もりに、思わず目を閉じた。
「……美味しい」
その呟きは、計算からは出てこない言葉だった。
レオンが静かに部屋を出ていった後、エストは長い間、空になったティーカップを見つめていた。
窓の外では、夜明けの光が空の端を白く染め始めている。
「……貴方は、私を狂わせてしまうのね」
誰にも聞こえない声で、エストはそう呟いた。
その声に含まれていたのは、苛立ちではなかった。
今はまだ名前をつけられない、もっと温かくて、もっと厄介な何かだった。




