第6話:副団長の思惑と、捌ききれない業務
エスト・ヴィオラは、優秀な副団長である。
彼女にとって世界とは、整然と処理されるべき業務の集合体だ。戦場における敵の配置、味方の戦力比、消耗品の残数――表向きはそれらすべてを完璧に管理し、組織を回すための冷徹な歯車として機能している。
だが今、彼女の精神には、隠しきれない異常事態が起きていた。
「……ありえない」
執務室の机に積まれた報告書の山を前に、エストはペンを止めた。
窓の外はすでに深い闇に包まれ、時折聞こえるのは夜警の鎧が擦れる金属音だけだ。室内には、燃え尽きかけた魔導ランプの微かな熱気と、古い紙が放つ乾いた匂いが満ちている。
眼鏡を外し、目頭を強く押さえる。こめかみの奥で、鈍い痛みが不規則なリズムで脈打っていた。眼精疲労が、彼女の忍耐力にノイズを混じらせる。
「……四日連続」
呟いた声は、誰の耳にも届かない。執務室の分厚い石壁が、その小さな吐息を飲み込んでしまう。
セレスティリアが深夜にレオンのケア室を訪れ始めてから、もう四日が経つ。
エストはそのすべてを把握していた。副団長の権限を使い、門番の交代記録、廊下の灯火の消費量、そしてレオンの部屋の周辺での魔力反応の微細な変動。それらすべてを調べ上げれば、団長がいつ、どれだけの時間、あの男の元に滞在しているかを把握するのは容易だった。
分析の結果は、明白だった。
セレスの剣筋は過去五年間で最高の数値を叩き出し続けている。模擬戦の勝率は100%。集中力テストのスコアは入団以来の最高値。部下への指示も的確さを増し、団の練度は目に見えて向上していた。
原因は、あの男。レオン・アルジェント。
「……腹立たしい」
エストは椅子の背もたれに体を預け、黒く沈んだ天井を仰いだ。
あの夜、王都の裏路地で偶然見つけた小さな整体店。魔力回路がショート寸前の身体を引きずりながら、藁にもすがる思いで飛び込んだ、あの店。あそこで体験した極上の快楽は、エストの二十二年間の常識をすべて溶かしてしまった。
温かな指先が、石のように固まっていた筋肉を解きほぐし、枯渇しかけていた魔力回路に甘い潤いを与えた。
だからこそ、身柄を確保したのだ。王宮の目を盗み、正規の手続きを「特別任務」という名目で誤魔化しながら、彼を強引に連行してきた。
「自分だけのために」使うつもりだった。誰にも触れさせることなく、自分だけの専属の拠り所にするために。
なのに――あの男は今、他の女たちの専属になりつつある。
「私が先に見つけたのに。私の専属として連れてきた。……私の、ものだというのに」
エストの瞳が、暗い欲望に揺れた。表向きの「優秀な副団長」という仮面の下で、醜悪なほどの独占欲がとぐろを巻いている。
◆
実際のところ、その感情に浸っている余裕など今の彼女にはなかった。
白百合騎士団の急激な戦果拡大は、凄まじい速度で事務処理の山を積み上げていた。
魔物の出現予測と討伐計画。戦果に基づく褒賞の計算。補給物資の不備に対する兵站部への叱咤。王都軍務局への提出書類は日に日に増え、他部隊との合同演習の調整案が机の端で崩れそうになっている。
そのすべてが、エスト一人の細い肩にのしかかっている。
セレスは戦闘と指揮の天才だが、書類仕事は見るだけで頭を抱える。他の隊長格も同様だ。リリヤに至っては自分の名前以外の字を書こうとするとペンを折る。
「……次は、第七小隊の装備更新申請。予備の矢羽が三割不足している。その後に軍務局への四半期報告書……」
インクの染みが、指先にこびりついている。
書類をめくるたび、紙の端で指を切る。痛みなど感じない。ただ、思考の速度がわずかに鈍るのが不快だった。
ペンが止まった。
右手が、微かに震えている。神経の限界が、不随意な運動となって現れていた。
左手で右手首を強く掴み、力任せに震えを抑えた。眼鏡のレンズ越しに見る文字が、海波のように歪む。
眼精疲労、睡眠不足、そして魔力操作による過度な脳への負担。
長期間彼に触れてもらえないことによる、禁断症状の現れだった。
休息。
今すぐ彼の部屋に押し入り、自分を優先しろと命令すればいい。
だが、その選択肢は「副団長としての体裁」によって棄却された。
部下たちに「あの冷静沈着なエスト副団長が、レオンの手技に骨抜きにされて拉致してきた」などと知られるわけにはいかない。それは、これまでの彼女の築き上げてきた鉄の防壁を自ら破壊する行為だ。
誰にも本性を悟らせてはならない。
誰も知らない闇の中で、彼女は歯を食いしばり、ただ、ペンを走らせ続けた。
◆
その頃、騎士団の食堂では、深夜の残務を終えた隊員たちの間で不穏な空気が漂っていた。
「ねえ、最近の団長、なんか変じゃない?」
「わかる。肌ツヤが良すぎるのよ。不気味なくらい。昨日なんて、私の装備の傷を一瞬で見つけたのよ?」
「それに、あの人が朝の訓練で笑ってたの、見た? 『笑った』のよ? あの、氷の薔薇が」
一般隊員たちがさざめく中、その会話を耳に留めていた人物がいる。
ミレイア・アーチャー。狙撃・索敵部隊隊長。
千里眼の「鷹の目」を持つ彼女は、対象の心拍数から呼吸の乱れまでを見抜く。観察力に関しては、この騎士団で右に出る者はいない。
「……確かに、物理的な変化が見られるわね」
ミレイアは食堂の片隅で、冷めた緑茶を啜りながら冷静に分析していた。
セレスティリアの体調が異常なまでに良好。細胞の活性化、淀み一つない魔力の循環。それは事実だ。
原因として考えられる変数は――最近加入した、あの男。レオン・アルジェント。
「あの非戦闘員の用務員が、まさか団長に心身の干渉を……?」
考え込むミレイアに、巨体のディアンヌがトレイを持って通りすがりに声をかけた。
「ミレイア殿、こんな時間までご苦労様だ。……何か気になることでも?」
「ディアンヌ。最近、団長の変化に気付いた?」
「あ、ああ。確かに最近、団長殿はすこぶる機嫌がいいな。何か良い戦術でも思いついたのだろうか。私も訓練で投げ飛ばされる回数が増えて、実に光栄だ」
ディアンヌは純粋に、武人としての喜びを語る。この巨体の乙女は、裏を読むのが苦手だ。
ミレイアは腕を組み、窓の外――「特別ケア室」がある旧棟の方角を見やった。彼女の「鷹の目」には、闇の中に静かに灯る、あの部屋の明かりが見えていた。
「……少し、サンプルを収集してみる必要がありそうね」
◆
深夜、二時。
執務室のランプが、油が切れかけて細く揺れている。
エストの視界が、ぐらりと傾いた。
気づけば冷たい机の表面に頬を預けていた。一瞬、意識が飛んだのだ。慌てて体を起こすが、凝り固まった首の筋肉が鋭い悲鳴を上げた。
「……っ」
壁の時計を見る。午前二時十二分。
残りの書類――あと二十八枚。
ペンを握り直そうとした瞬間、右手の震えが戻ってきた。今度はもう、左手で抑えても止まらない。指先がキーボードの上を走るように小刻みに震え、インクが紙に不格好な染みを作った。
視界の端が、じわりと涙で歪む。それは感情ではなく、肉体の限界が告げる拒絶だった。
「エストさん」
控えめなノックの音と同時に、深夜の静寂に溶け込むような穏やかな声が響いた。
「……誰だ」
「レオンです。夜分にすみません、まだ明かりが見えたので」
エストの肩が、微かに強張った。今、最も計算に入れたくない男の声。
扉が遠慮がちに開き、レオンが顔を覗かせた。その手には、湯気の立つ木製のカップが二つ。
「執務室の灯りがずっとついていたので。これ、少し甘めに淹れました。よければ一杯どうぞ」
差し出されたのは、琥珀色のハーブティーだった。
カモミールの甘い香りに、レモンバームの爽やかさ。そして。
「……パッションフラワー、それにバレリアン。鎮静効果のあるブレンドね」
「さすがエストさん。香りで当てちゃいましたか」
レオンは退室する素振りを全く見せず、執務室の窓辺に静かに立った。
ハーブティーの香りが、インクと紙の匂いに満ちた無機質な部屋を、柔らかに満たしていく。嗅ぐだけで、張り詰めていた肩の力が、ほんの数ミリだけ緩むのを感じた。
「……余計なお世話だ。私は忙しい。この書類が終わるまで、一秒のロスも許されないの」
「わかっています。でも、その一杯だけ。飲む時間は、たったの三十秒ですよ」
レオンの声は、説得ではなく、ただそこにある真実を述べるようだった。
エストは答えなかった。だが、指先の震えを隠すように、逃げるようにカップを掴んだ。
温かかった。
ただそれだけのことが、書類をめくり続けて凍えた指先に、じわりと沁み入る。
「無理をして倒れてしまっては、元も子もありませんよ。エストさん」
「……私に説教を?」
「いいえ、ただの心配です。ずっと一人で、休まず働き続けているのを知っていますから」
エストの、カップを運ぶ手が止まった。
心配。
誰も彼女にそんな言葉をかけない。彼女が完璧な副団長である限り、誰も彼女の限界など気にしないのだ。この男を除いては。
「……私には、休んでいる暇などないのだけれど」
「なら、僕が少しだけ手伝わせてください」
レオンはそう言って、執務室の片隅にある、来客用の小さなソファを手で示した。
「五分だけ。首と肩だけでいいです。五分後に、少しでも体が楽になっていなければ、僕は二度とここには来ません」
エストの冷たい、けれど疲労と渇望に満ちた瞳が、レオンを射抜いた。
内なる彼女は歓喜していた。わざわざ自分から懇願せずとも、彼のほうから「疲労回復の実証」という完璧な建前を提供してくれたのだから。
「……五分だけよ。それ以上は、副団長の権限で処分するわ」
エストはペンを置き、あえて重い足取りを装ってソファへ移動した。
レオンが頷き、物音を立てずに彼女の背後に回る。
「失礼します。まず、一番頑張っている首筋から」
エストの、冷え切った首筋。そこに、王都の店で感じたあの温かい指先が触れた。
「っ……」
彼女の全身に、甘い痺れが走った。
あの夜からずっと欲していた熱。あの夜に彼女の理性を理不尽に溶かした、あの規格外の治癒魔法が、再び彼女のもとに戻ってきたのだ。




