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一般マッサージ師、女騎士団の専属になる  作者: 久喜崎


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第5話:夜を徘徊する騎士団長

翌朝。


セレスティリアは、窓辺で軽やかに鳴く小鳥のさえずりでふと目を覚ました。


柔らかく清々しい朝日が、真新しいカーテンの隙間から差し込んでいる。

目を開けてぼんやりと見つめた天井は、いつも見上げている執務室奥の自室のものではない。見慣れない少し低めの天井、肌触りの良い清潔なシーツ、そして部屋全体にほのかに残る、どこか安心するハーブの香り。


――ここは、あの男のケア室だ。


途端に、昨夜の記憶が奔流のように一気に蘇った。


深夜の冷たい廊下で、呪いの激痛に耐えきれずうずくまっていたこと。

あろうことか、あの男の腕に簡単にお姫様抱っこで抱き上げられたこと。

そして、背中を……素肌を触れられ、呪いを抜かれて――。


『もっ……と、ふか……く……そこ、お願い……っ』


「っ……!!」


セレスティリアはバッと跳ね起き、即座に毛布を頭からすっぽりと被り、毛布の中で声を殺して悶え、音のない悲鳴を上げた。


あの声。自分は狂ってしまったのかと錯覚するほど、あのとろけるように甘く、情けなく、だらしない声を、他でもない自分自身があの男に向けて懇願するように出したのだ。

誇り高き白百合騎士団長ともあろう者が、会って三日目の見知らぬ非戦闘員の男の前で、あんな無様な姿を晒すなんて。


「ありえない……絶対にありえないっ……! 夢だ、あれは酷い悪夢だ……!」


毛布の中の暗闇で顔を覆う両手までが、沸騰したように熱かった。顔から火が出そうだった。今すぐこの場から消え去りたかった。


けれど。

動揺のままにベッドの上で身体を起こした瞬間、セレスティリアはピタリとその動きを止めた。


……軽い。


何かがおかしい。荷物を下ろしたというようなありふれた表現どころではなかった。ここ数年間、常に身体に纏わりついていた文字通りの鉄の鎧のような重圧と、骨の髄まで染み込んでいた疲労の重りが、物理的に根こそぎ消え失せている。

恐る恐る右腕を上げ、肩を大きく回してみる。引っ掛かりも痛みも全くない。左膝を深く曲げて伸ばす。古傷の嫌な軋み音がしない。首を左右に大きく傾ける。まるで鉛の塊のように張り付いていた強烈な凝りが、忽然と消え去っていた。


「……嘘、だろう」


信じられない思いで、自身の身体をまさぐる。

絶好調だった全盛期の頃よりも、さらに一段階軽い。呼吸は深く透き通るように肺を満たし、指先の末端に至るまで、身体の奥底から新しい魔力と活力が泉のようにグツグツと湧き上がってくるのを感じる。


セレスティリアは呆然と自分の掌を握りしめたり開いたりして見つめ、それからようやく、施術台の横の小さなテーブルに目をやった。

そこには、まだほんのり温かいハーブティーのカップが一つ、真っ白なタオルが几帳面に折り畳まれた上に置かれている。そしてその隣には、丁寧に添えられた小さなメッセージカードのメモが。


『おはようございます。奥深くに刺さっていた呪いの芯は完全に除去し、ついでに全身に蓄積した疲労物質も粗方流しておきました。かなり無理をされていたようですが、今日はどうか無茶をしないでくださいね。朝食の前にこのお茶をどうぞ。――レオン』


男性の字とは思えないほど丸みを帯びた、変に気負いのない穏やかな筆跡。


セレスティリアはそのメモを顔を赤くして睨みつけ、クシャクシャに握り潰すと、残されていたハーブ水を一気飲みし、乱暴にカップを置いた。


「……こんなもの、誰が認めてやるものか……っ!」



しかし、現実の肉体は残酷なほど正直だった。

その日の午前中の合同訓練で、騎士団長セレスティリアの異変は、見守る全隊員の目にも明らかだった。


セレスの剣が、異常なほどに速い。

いつも無駄がなく鋭い太刀筋だが、今日はそのさらに一つ上の次元に達していた。重い大剣をまるで木の枝のように軽々と振るい、踏み込みは深く、そして何より――その瞳の奥には、長年抑圧されていた身体機能が解放されたことに対する「抗えない純粋な歓喜」が溢れ、心底楽しそうに剣を舞わせていた。


模擬戦の相手に指名された副隊長格の熟練騎士は、打ち合いの火花を散らす暇もなく、わずか三合で太刀筋を躱され、床に無様に転がされていた、

セレスティリアは勝利を宣言するわけでもなく、剣を振り抜いた美しいフォームのまま、自分でも信じられないというような唖然とした顔で、微塵も疲労を感じない己の右腕をまじまじと見つめている。


「だ、団長……? 今日は、なんというか……いつも以上に、恐ろしいほどに絶好調ですね……。剣筋が見えませんでした……」


周囲の圧倒された空気を察し、衛生兵のクリスが恐る恐る、しかし感嘆の声を漏らしながら声をかけると、セレスティリアはハッとして我に返り、慌てて威厳ある表情を引き締めた。


「ッ……当然だ。私は常に心身ともに万全を期しているからな。お前の踏み込みが甘いだけだ」


大嘘だった。

つい昨日の深夜まで、呪いの余波と極度の疲労に隠れて悶え苦しみ、あげく見知らぬ男にあられもない声を漏らしてほぐされていたのは、他でもないこの完璧な騎士団長自身なのだ。

しかし、その屈辱的で甘美な秘密の嘘を知っているのは、この広大な駐屯地の中でたった一人、レオンだけだった。



「あいつには、今後一切近づくな」


昼食後、急遽開かれた第一幹部会議の場で、セレスティリアは唐突に、そして強い語気でそう命じた。

集まった各部隊の隊長たちは顔を見合わせ、首を傾げている。


「あの男……新しく来たレオンという非戦闘員の輩には、今後必要最低限の接触に留めるように各隊へ通達しろ。彼が何をしようが乗せられるな。一週間の期限が来れば、速やかに駐屯地から追放する方針にいささかの変更もない」


セレスティリアの焦りを含んだ強い言葉に、副団長のエストが冷静に丸眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、淡々と問うた。


「……理由を伺ってもよろしいでしょうか、団長。仮にも上層部からの推薦で派遣された治癒師です」

「不要な要素だからだ。我が白百合騎士団に、あのような異物は必要ない。話は以上だ」


セレスティリアは目を合わせようとせず、それだけ一方的に言い捨てて足早に会議室を退席していった。

重い扉がバタンと閉まった後、エストはゆっくりと椅子に背中を預け、小さく、だが意味深な息を吐き出した。


「……不要、ね。あの方の今朝の、人が変わったような異常な剣筋を見てそう言い切るなら、大した役者だわ、団長は」


エストの知的な冷徹さを宿した瞳が、何かの数式を計算するように、スッと細められた。

実はエスト自身もまた、あの初対面の日の極上の「マッサージ」による呪縛から逃れられず、彼がいなければどうにも満足に深い眠りにつけない身体にされつつある一人だった。



深夜二時。


静まり返った駐屯地の石造りの廊下を、一人の細身の人影が音もなく歩いている。

足音を完全に殺し、明かり取りのランタンも持たず、窓から差し込む青白い月明かりだけを頼りに。


セレスティリアだった。


薄い上着を肩から羽織っただけのラフな寝間着姿で、美しく長いプラチナブロンドの髪が、歩くたびに背中で揺れている。

自分が向かっている目的地は、自分自身で痛いほどわかっていた。止めたいのに、足が勝手に動いてしまう。だからこそ、自分の不条理な弱さに猛烈に腹が立った。


そして、例のケア室の前で、彼女の足がピタリと止まる。


重厚な扉の向こう側から、扉の隙間から微かに暖色の灯りが漏れ見えていた。

まだ、あの男は起きている。


セレスティリアはその場で両手で顔を覆い、十秒ほど立ち尽くし、「だめだ」と踵を返した。

しかし三歩進んだところで、どうにも抗いがたい衝動に駆られて立ち止まり、また後ろ向きにフラフラと戻ってくる。


扉の前を、二往復。三往復。


「……一体、何をコソコソしているんだ、私は……」


自らを嘲笑するように自問する声は、情けないほどに弱々しく震えていた。


どうしても、昨夜のあの脳がとろけるような感覚が忘れられないのだ。

背中を滑る、あの広く温かい掌の感触。凝り固まった筋肉の芯を捉えられ、全身が熱く溶けていくような圧倒的な安堵感。何年もの間、ただの一度も下ろすことが許されなかった重い重い鎖が、一瞬にして消え去った、あの極上の解放感。


もう一度だけでいい。あと一回だけ。

いや、右の固くなった肩甲骨の周辺だけ。ほんの五分、いや三分だけでいいから、あの快感を……。


扉の前をウロウロと歩き回り、いよいよ四往復目に入ろうかというところで、


カチャリ、と音を立てて、唐突に目の前の扉が開いた。


「――ッ!!」


心臓が飛び出そうになったセレスの目の前には、レオン・アルジェントが、何もかもを見透かしたような穏やかで優しい笑顔を浮かべて立っていた。

彼の手には、わざわざお揃いのハーブティーが入ったカップが二つ用意されており、ふわりと湯気がゆらゆらと立ち昇って甘い香りを漂わせている。


「……な、何をしている」


セレスティリアの声は驚きで完全に上ずり、裏返っていた。


「いえ、小一時間ほど前から、ずっと扉の前を何度も行ったり来たりする気配がしていましたので。もしかして、僕に用事があるけど入りづらいのかな、と思いまして」

「ち、違う! 断じて違うッ!! これは夜間の見回り……そうだ、視察だ! 団長としての義務で、施設の安全と規律を厳しく確認しているだけだ!」


赤面しながら早口で捲し立てるセレスティリアに対し、レオンは否定もせず、ただにこりと柔らかく笑った。


「そうですか、それは深夜まで大変にご苦労様です。視察で歩き回って疲れた足と肩を、ついでに少しだけ、ほぐしましょうか? もちろん、あくまで『ついで』ですが」

「……ッ、つ、ついでだ! うむ、あくまでも、視察のついでだからな! 勘違いするなよ!」


セレスティリアは限界まで顔を真っ赤にして茹で上がったまま、逃げるように足早にケア室の奥へと滑り込んだ。


レオンはその意地っ張りだが愛らしい背中を見送りながら、静かに、そして満足げに微笑んだ。


「はいはい、わかっていますよ。ずっとお待ちしておりました」


バタン、と静かに扉が閉まる。


……その夜を境にして、誇り高き白百合騎士団の絶対的リーダーたる騎士団長は、毎深夜、こっそりと人目を忍んでケア室を訪れる「最優秀の常連患者」へと成り下がったのだった。



翌朝。


副団長のエストは、執務室の窓際から特注の丸眼鏡越しに、訓練場の様子を静かに見下ろしていた。


そこには、セレスティリアが、なんと二日連続で「異常なほどの絶好調ぶり」を見せつけ、無双している姿があった。

彼女の剣筋は過去何年間のデータを参照しても最高の切れ味を誇っており、次々と挑む模擬戦の相手は誰一人として、文字通り彼女の一撃すらまともに受け止めきれずに転がされている。


「……おかしい。私の計算が、決定的に合わない」


エストは手にしていた万年筆を置き、指先で眼鏡のブリッジをカチャリと冷たい音を立てて押し上げた。


あの男、レオン・アルジェントは、ただ腕がいいだけの非戦闘員の治癒師。

そう判断し、自分専属の有益な睡眠導入の「道具」として、都合よく騎士団に連れてきたつもりだった。彼の手技は、自分だけが独占し、管理するはずだった。


なのに――規律を重んじるはずの団長が、なぜあんなに活気に満ちている?

まさか、団長があの男と夜な夜な個人的に接触している?


エストの理知的な瞳が、蛇のように冷たく、昏い光を帯びてスッと細まった。


「……どういうこと。私の『お気に入り』を、勝手に横取りしないでほしいのだけど」


自室の誰も聞こえない空間で、彼女は冷たい声でそう呟いた。


完璧な計算と論理で生きる副団長の胸の奥底に、まだ彼女自身も名前をつけることができない、暗くドロドロとした黒い感情――独占欲が、ひっそりと、しかし確実に芽吹き始めていた。

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