第3話:隠された激痛と、強行ヒーリング
白百合騎士団の駐屯地に来て、三日が経った。
レオンに与えられた「特別ケア室」は、かつて物置として使われていた部屋を急造で改装したものだった。広さは十分にあるものの、石造りの壁は無愛想で、簡素なベッドが一つ置かれているだけ殺風景な空間だ。
そこを訪れる者は、当然ながらまだ誰もいない。
無理もない話だった。非戦闘員の、しかも見ず知らずの男が突然やってきて「疲労回復のマッサージをしますよ」と触れてこようとするのだ。誇り高く、そして何より他者への警戒心が強いこの女騎士たちが、すぐに心を開くはずもなかった。
それでもレオンは毎日、腐ることなく自分の仕事を全うしていた。
朝一番に部屋の隅々まで塵一つ残さず掃除をし、リラックス効果の高い数種類のハーブをブレンドしてティーポットに常備する。施術台には糊の効いた清潔なシーツを敷き、いつでも患者を受け入れられる状態を保ち続けていた。
暇を持て余して廊下を通りかかる隊員たちに「お疲れ様です、一息入れませんか」と愛想よく声をかけるものの、返ってくるのは冷ややかな視線か、無言のまま通り過ぎる足音だけだった。
三日目の夕刻。
静寂に包まれていた駐屯地の空気が、一変した。
遠方の「嘆きの森」と呼ばれる死地で、大規模な魔物の群れが突如として出現したのだ。王都の防衛を担う白百合騎士団に、緊急の討伐命令が下った。
けたたましい鐘の音が鳴り響く中、レオンは自室の窓から外を見つめていた。
重厚な白銀の鎧に身を包み、鋭い号令とともに駆け足で正門を出ていく騎士たちの背中。その先頭には、ひときわ目を引くプラチナブロンドの髪を靡かせた団長、セレスティリアの姿があった。
彼女たちの背中を見送りながら、レオンは静かにハーブの葉をすり潰し続けた。
そして翌朝。
帰還した一行を、レオンは正門の脇からそっと見ていた。
朝露に濡れた石畳を踏みしめて戻ってきた彼女たちは、見事な勝利を収めたようだった。
先頭を歩くセレスティリアの白銀の鎧にはほとんど傷がなく、返り血すら浴びていないように見える。彼女の後ろに続く騎士たちも、息はあがっているものの、多少の泥汚れと比較的軽い擦り傷程度の損傷で済んでいるようだった。
「今回も完璧な指揮でしたね、団長」
「さすがです。先陣を切って、あの最大級のオーガの群れを一人で薙ぎ払うなんて……」
興奮冷めやらぬ隊員たちの賞賛を、セレスティリアは表情一つ崩さずに受け止めている。その立ち姿はまさに「完璧な騎士団長」そのものだった。
「私語は慎め。まずは負傷者の確認を急げ。ノアの状態はどうだ」
凛とした、よく通る声で指示を飛ばすセレスに、衛生兵のクリスが小走りで駆け寄った。
「ノアちゃんは重度の魔力酔いで倒れています。広域殲滅魔法を限界の二発まで撃ち込んだので……意識はありますが、極度の疲労状態でしばらく安静が必要です」
「わかった。彼女を最優先で医務室へ運び、休ませろ。他に自力で歩けない重傷者はいるか」
「リリヤ隊長が敵の爪を掠めて左腕に裂傷を負いました。ディアンヌ隊長は打撲のみですが――」
「それぞれ適切な治癒処置を急げ。討伐の報告書は、明朝までに私がまとめて上に提出する。各隊は各自の武器の手入れを終え次第、休息を取るように」
セレスティリアは流れるようにそう言い切ると、泥に汚れた自身の長い髪を鬱陶しそうに振り払い、執務室のある中央棟へと歩き始めた。
その足取りを――レオンだけが、じっと観察していた。
他の騎士たちが彼女の威風堂々たる背中に見惚れる中、治癒師としての訓練を積んだレオンの「目」は誤魔化せなかった。
右の足が、ほんの僅かに――コンマ数秒、気づかれないほどのわずかな差で、地面を踏み込む力が弱い。歩幅が普段より一センチ短い。
それに呼応するように、左の肩が微かに下がっている。分厚い鎧越しでもわかるほど、背中の、特に肩甲骨周辺の筋肉の張り方が、三日前に見た時よりも明らかに悪化し、硬直している。
「……気づかれてないと思って、隠してるな」
レオンは誰にも聞こえない声で小さく呟いた。
すぐにでも声をかけて施術台に寝かせたかったが、追いかけはしなかった。
今の彼女は「団長としての鎧」を分厚く羽織りきっている。無理に言葉をかけても、彼女が自分を受け入れ、素直に弱みを見せる理由がない。今はまだ、その時ではないのだ。
――深夜。
駐屯地は、不気味なほど静まり返っていた。
死線を潜り抜けて帰還した騎士たちは、深い疲労と生き延びた安堵感の中で、泥のように眠りについている。雲間から差し込む青白い月明かりが、石造りの冷たい廊下を等間隔に照らし出し、時折、見回りをしている歩哨の弱々しいランタンの光が遠くで揺れるだけだ。
レオンはベッドの上に座ったまま、眠れずにいた。
正確には、意図的に眠ろうとしなかった。
彼の治癒師としての卓越した勘が、夕刻からずっと肌を粟立たせ、警鐘を鳴らし続けていたからだ。
あの強烈な背中の強張り。ただの疲労ではない。あれは――。
意を決し、レオンはケア室の重い木の扉を静かに開け、冷え切った廊下へと出た。
自らの足音を殺しながら、静かに歩を進めていく。兵舎の奥深く――団長専用の私室と執務室がある区画の手前まで来た時、レオンの足がピタリと止まった。
廊下の薄暗い隅に、不自然な人影があった。
誰かがうずくまっている。
冷たい石の壁にすがるように手をつき、両膝を床につき、肩を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返している。
窓から差し込んだ月光が、乱れた長い髪を照らし出す。美しいプラチナブロンド。
「団長……?」
セレスティリアだった。
分厚い鎧は脱ぎ捨てており、寝る前だったのか薄手の寝間着姿だ。その華奢な背中が、呼吸のたびに異常なほどにビクビクと強張っている。
「来る、な……っ」
振り向かずに放たれた声は、歯を力一杯食いしばり、痛みに耐える凄絶な響きを含んでいた。
壁に押し当てられた両手が、石の床を削るように強く掴んでいる。指先は血の気を失って真っ白になり、小刻みに震えていた。
「ただ、の……魔力疲労だ。放って……おけ」
威厳を保とうとするその声の端が、隠しきれない痛みに大きく歪み、掠れた。
レオンは足を止めなかった。
静かに、しかし一切の迷いなく近づき、セレスティリアの真横に片膝をついてしゃがみ込んだ。
「失礼します」
「触るなと言って――」
拒絶の言葉を最後まで待たなかった。
レオンは素早くセレスティリアの膝下と背中に腕を差し込み、一度の動作で軽々と持ち上げた。
いわゆる、お姫様抱っこの体勢だ。日々の過酷な戦闘と鍛錬で引き締まった彼女の身体は、決して軽くはないはずだった。しかし、長年重傷者の介助と運搬に携わってきたレオンは、梃子の原理と慣れた体重移動の技術で、全く無駄な力を使わずに彼女の身体を安定して支えきった。
「なっ……放せ! 貴様、何をする!」
「動かないでください、余計に痛みますよ。今のあなたの背中には、強力な『呪いの芯』が深く突き刺さったまま残っています。帰り際、オーガの死に際に放たれた呪撃でも被弾しましたね? それをずっと隠して、平気な顔をして『団長』を演じていたんでしょう」
図星を突かれたセレスティリアの冷徹な氷の瞳が、限界まで見開かれた。
「……なぜ、それを」
「僕は治癒師ですから。身体から漏れ出す魔力の乱れと筋肉の悲鳴は、見ればすぐにわかります」
レオンは反論の隙を与えぬまま、彼女を抱えたまま廊下を早足で進み、自分のケア室の扉を肩で乱暴に押し開けた。
そして彼女を施術台の上に静かに寝かせ、傍らに用意しておいた素早く清潔なシーツを広げて準備を始める。
「今から、その呪いの芯を直接抜きます。奥まで入り込んでいるので多少の痛みが伴いますが、このまま意地を張って放置すれば、明日には確実に両足の感覚が消えて立てなくなりますよ」
セレスはなおも言い返そうと口を開いたが、強烈な痛みの波が押し寄せ、身体が全く言うことを聞かない。
レオンが施術のために、彼女の薄い寝間着の背中側を緩めようとそっと手を伸ばした瞬間、彼女の青白い顔が一気に羞恥で真っ赤に紅潮した。
「――っ! 待て、待て! 私の背中を……男に晒せと言うのか……!」
「今は『白百合の騎士団長』ではなく、ただの苦しんでいる『患者』です」
レオンの声は波立ち一つなく穏やかだったが、その響きには絶対に有無を言わせない、岩のような静かな強さがあった。
「限界を超えた痛みを我慢して、ここで一人で壊れてしまうのは、貴方の勝手です。でも、それで明日、あの子たち……貴方を心から信じている部下たちの前に立てなくなったら、一番苦しんで困るのはあなた自身でしょう?」
セレスティリアの懸命の反論が、ぴたりと止まった。
彼女の脳裏に、今朝の野営地での光景が鮮明によぎる。
限界まで魔力を振り絞って魔力酔いで倒れた最年少のノアの手を強く握りながら、「大丈夫だ、よくやった。あとは私に任せろ」と力強く声をかけた自分。
敵の猛攻を身を呈して防ぎ、重傷を負ったリリヤに、「お前が盾になってくれたおかげで前線が持った。感謝する」と誇り高く告げた自分。
その全てを、今にも砕け折れそうな背中の激痛を、冷たい鎧の下で必死に隠しながら演じきっていたのだ。
「……勝手に、しろ」
セレスティリアはついに観念したように長く美しい睫毛を伏せ、耐え忍ぶようにシーツに顔を深く埋めた。
少しだけ覗くその尖った耳の先まで、恥ずかしさで真っ赤に染まりきっていた。
「……ありがとうございます」
レオンは静かに頷き、邪魔にならない位置にタオルを当て、彼女の素肌の背中に直接触れる準備を整えた。
彼の指先に、温かく、そして底知れない深さを持つ淡い治癒魔法の光が、静かに灯し出された。




