第19話:潜入捜査
深夜の王都、旧市街スラム。
華やかな表通りから一歩足を踏み入れると、ひび割れた石畳と、腐臭や湿気が混じった重苦しい空気が街を支配していた。
月明かりさえ届かない細い裏路地を、二つの影が音もなく駆け抜けていく。白百合騎士団の遊撃隊長リリヤと、暗殺部隊副隊長のシエルだ。
二人は今、極秘の潜入捜査を行っていた。
現在、王都を中心に「紫黒色に発光する新種の魔法薬」が蔓延している。急進派貴族が裏組織へ資金や魔導具を横流しし、治安を意図的に悪化させているという決定的な証拠――『裏帳簿』を押さえるためだ。
「……ひどい有様だな」
リリヤが闇に溶け込むような低い声で呟く。路地の片隅には、紫黒の薬物に手を出したと思しきスラムの住人たちが、虚ろな目をしながら地べたに転がっていた。中にはまだ年端もいかない子供の姿もある。
スラム出身であるリリヤにとって、この光景は到底見過ごせるものではなかった。
やり場のない怒りを押し殺し、二人はさらにスラムの奥深く、古びた酒場の地下へと足を進めた。
カビ臭い階段を下りた先にある重い木扉をノックすると、ギィッと不快な音を立てて扉が少しだけ開いた。
「誰だ、こんな夜更けに……おや、リリヤじゃねえか」
隙間から顔を覗かせたのは、片足を引きずる初老の男だった。スラムの情報屋であり、リリヤの孤児時代からの顔馴染みである老爺『ガロ』だ。
「夜分に悪いな、ガロ。例の『黒蜘蛛』の連中について、聞きたいことがある」
「中に入んな」
ガロは周囲を警戒しながら二人を地下室へ招き入れた。薄暗いランプの光に照らされた彼の顔には、深い疲労と怒りが刻まれていた。
「お前さんたちが探してるのは、黒蜘蛛の連中が頻繁に荷運びをしているダミー拠点の裏口だろう。ただの薬売買所じゃねえ、奥に厳重な隠し金庫があるって噂だ。俺も、あの外道どもには腹を据えかねていたところさ」
ガロの手引きした地図を見る限り、その倉庫はスラムの中心から少し離れた廃工場跡のようだった。出入りする荷物の量や警備の配置から見ても、単なる売人たちの溜まり場ではない。
「情報助かるよ、じいさん。すぐに踏み込む」
「気ィつけなよ、二人とも。最近の連中は、昔のドンだったばあさんの仁義をすっかり忘れちまってる。どんな汚え罠を張ってるか分かったもんじゃねえ」
ガロから拠点の見取り図と警備の交代時間を聞き出したリリヤたちは、彼の案内で拠点付近の路地まで辿り着いた。ガロを安全な場所に見張りに残し、二人だけで警戒の薄い裏口へと向かう。
だが、拠点まであと一歩というその道中――。
「おい、そこのお前ら。止まれ」
不意に、背後から低く鋭い声が掛けられた。
振り返ると、紫黒の刺青を入れた男たちが三人、路地を塞ぐように立っていた。体格や身のこなしからして、ただのゴロツキではない。これから乗り込もうとしている新興マフィア【黒蜘蛛】の巡回であることは明白だった。
「見ない顔だな。こんな夜更けに、女二人でこんなところをウロついてるなんて怪しすぎるぜ。……顔を見せな」
男の一人が、毒を塗ったような禍々しい刃をちらつかせながら距離を詰めてくる。
普段の彼女たちであれば、一瞬で制圧して血祭りに上げているところだ。だが、今は『絶対に目立った騒ぎを起こせない』という重い枷がある。ここで戦闘になり、拠点に警戒されれば潜入任務そのものが破綻してしまう。
男の手が、リリヤの深く被ったフードへ伸びる。素顔を見られれば、騎士団であることが露呈してしまうかもしれない。
(斬るか……!? いや、血の匂いで仲間を呼ばれる……!)
緊迫した空気が張り詰め、強行突破しかないとリリヤが覚悟を決めた、その刹那。
「……触るな。この『商品』は、ウチの主人が買い付けた上物」
不意に、シエルがフードの奥から冷たい声色で言い放った。同時に、懐から一枚の鈍く光る木札を取り出し、男たちの眼前へ突きつける。
それは、裏社会の闇市で高位のパトロンだけが持つ『通行手形』だった。潜入の過程で、シエルが密かにスリ取っておいたものだ。
「……チッ。なんだ、お堅い貴族様の『お買い物』の護衛かよ」
木札の紋章を確認した男たちは、忌々しそうに舌打ちした。黒蜘蛛の連中も、表の貴族から資金や魔導具の援助を受けている立場上、上乗客の使いをむやみに刺激することは避けたかったのだ。
「最近は物騒だからな。さっさと主人の元へ帰りな」
男たちは武器を収め、道を開けた。
背中に刺さるような疑念の視線が消えたのを確認し、二人は小さく息を吐く。
「……心臓に悪いわね。ナイスカバーだった、シエル」
「……ん。急ぐ」
気を取り直し、二人は改めて裏口へと忍び寄る。
見張りの男が欠伸をした瞬間、シエルの影が背後に音もなく滑り込み、手刀一つで昏倒させる。リリヤがその体を素早く受け止め、音を立てずに物陰へ隠した。
二人の完璧な連携により、倉庫内部への侵入はあっけなく成功する。
倉庫の中は不気味なほどに静まり返っていた。
むせ返るような薬物の甘い匂いと、サビの臭いが鼻を突く。
二人は暗闇に紛れ、巡回する見張りの男たちを次々と無力化しながら、木箱が積み上げられた迷路のような通路を慎重に進んでいく。
やがて、最も奥にある厳重な鉄扉に辿り着いた。ガロの情報通りなら、この奥に目的の隠し金庫が置かれた区画があるはずだ。
「……ここだな」
「……ん。開ける」
シエルが懐から細い針金を取り出し、素手で複雑な錠前を外していく。数秒後、カチリと手応えがあり、重い鉄扉が開け放たれた。
窓一つない密室の中央には、黒光りする頑丈な金庫が鎮座していた。
「……あった、金庫だ」
リリヤが油断なく周囲を警戒する中、シエルが再び手先を動かして金庫のダイヤルと鍵穴をこじ開ける。
重厚な金属音が響き、ついに金庫の扉が開かれた。
決定的な証拠である裏帳簿が、ここにあるはずだった。
だが――金庫の中身は、もぬけの殻だった。
「空っぽ……!? ハズレか!」
リリヤが舌打ちをした直後、誰もいないはずの高所から、狂気を帯びた哄笑が響き渡った。
「随分と遅かったじゃねえか、ドブネズミ共!!」
突如として、天井に設置されたまばゆい照明が一斉に点灯し、闇に慣れていた二人の視界を白く染め上げたのだった。




