第14話:筋肉痛
宣戦布告から一夜明けた朝。
白百合騎士団の拠点にあるレオンの専用ケア室は、朝日が差し込む穏やかな空間でありながら、どこか嵐の前の静けさのような異様な空気に包まれていた。
昨夜のクリスの予想外すぎる凶行――否、大胆な愛情表現により、騎士団内の「レオンへの牽制の張り合い」は完全に均衡が崩れ去ってしまった。誰もが「次は自分だ」と水面下で牙を研いでいるに違いない。
平平凡凡な一般隊員でしかないレオンにとって、今の騎士団は、うっかり足を踏み外せば致命傷を負いかねない魔境と化していた。
「おはようございます、レオンさん……って、え!?」
いつものように深呼吸をしてから扉を開けたレオンは、眼前の信じられない光景に言葉を失った。
廊下の壁伝いに、二人の大柄な女性が這うようにして近づいてきていたのだ。
一人は、王国の最強武力である白百合騎士団を束ねる、氷の美貌を持った団長セレスティリア。
もう一人は、鋼の如き肉体と怪力を誇る重装歩兵部隊隊長のディアンヌ。
平時であれば、腕の一本が折れても平然と部隊に指示を出すような鋼の女騎士たちが、今はボロ雑巾のように肩を落とし、顔を歪めて壁に寄りかかっている。
「セレスティリア団長!? それにディアンヌさんまで! どうしたんですかその歩き方!」
「……お恥ずかしい話だが、全然後ろを振り向けないほど、首から背中にかけてひどい筋肉痛で……一歩も動けないのだ……」
「私もだ……体が鉛のようで……一歩歩くごとに、足が千切れそうだ……」
息も絶え絶えといった声で、大げさなほどに痛みを訴える二人。
レオンは慌てて二人の腕を両脇から支え、ケア室に並んだマッサージベッドへと誘導した。普段ならレオン一人の力で彼女たちを支えるのは難しいはずなのだが、今の二人はどういうわけか、レオンに体重のほとんどを預けて大人しく運ばれていく。
「だ、大丈夫ですか!? 昨日の今日で、そんな限界を超えるような激しい訓練を……?」
「うむ……少し、基礎に立ち返って無茶をしすぎた……」
「ああ……夜通しの基礎訓練だ……」
二人はレオンと目を合わせず、どこかぎこちなく答える。
レオンは詮索するのをやめ、急いで手洗いを済ませた。魔法の小鍋でじんわりと温めた特製のマッサージオイルを手のひらになじませると、まずは重症そうに見えるセレスの背中へとそっと指を滑らせた。
「ひゃうっ……あ、そこ、そこは……っ」
レオンの指先が、セレスの凝り固まった肩や首筋、肩甲骨の隙間にある深層筋をピンポイントで的確に捉える。と同時に、彼特有の規格外に温かい治癒魔力が、ガチガチに絡まり合った筋肉の繊維と魔力回路の淀みを、内側から強引に揉みほぐしていく。
鋼のように硬かった背中の緊張が、レオンの手が触れた場所からドロドロの液体のように溶け出し、セレスの口からは抗いがたい快感の吐息が漏れた。
「あぁ〜……れ、レオン殿の手、あったかくて……しあわせ、だぁ……」
隣のベッドでは、足裏のリンパマッサージを受け始めたディアンヌが、その大きな身体をモジモジとよじらせ、完全に乙女のような緩みきった顔でとろけきっていた。痛くて歩けなかったはずの足が、魔法のように軽くなっていく感覚に逆らえるわけがなかった。
――激しく安堵する二人の顔を見下ろしながら、実際に直接魔力を通したレオンは、指先から伝わってくる異常な感触に内心で首を傾げていた。
(……なんだこれ。ただの筋肉痛じゃないぞ。前線を三日三晩走り回った後みたいな、極度の緊張状態が長く続いた『尋常じゃない神経の強張り』だ。それに、さっきから服のかすかな隙間から鼻をつく、この焦げたハーブみたいな甘ったるい匂い……)
「……本当にお二人とも、ただの訓練ですか?」
レオンがポンと軽くセレスの背中を叩きながら尋ねると、とろけていた彼女の肩がビクッと跳ねた。
「その匂い、王都の裏路地……スラム街の奥でよく嗅ぐ、安い怪しいお香の匂いに似てたので。あそこの治安は悪いですから、いくらお二人でもあまり不用意に近づかない方が……」
その言葉に、セレスとディアンヌはハッとして、ベッド越しに一瞬だけ鋭い視線を交わした。
昨夜、クリスの予想外の行動によって精神的に動揺していたものの、二人は騎士団のトップとして、王都内で急速に警戒レベルが上がっている「新型の危険薬物」の流通ルートを、極秘裏に徹夜で偵察していたのだ。
一歩踏み外せば濁流に首まで浸かるスラムの地下水路。腐敗臭と汚水の中で気配を限界まで殺し、二人は暗殺用の毒刃を隠し持つ密売組織のアジト深部まで潜り込んでいた。
そこで見たものは、スラムのチンピラが扱えるような単なる粗悪品ではなかった。純度の高い魔力を帯びて紫黒色に怪しく発光するその結晶は、どう見ても高度な魔法薬学と莫大な資金、そして「上位貴族」の手引きがなければ大量生産できない代物だった。さらに数日以内に、それを王都全域にばらまく手筈が整いつつあるという恐るべき会話までも。
いつ全方位から数え切れない狂気の刃が襲いくるかもわからない、実戦さながらの息詰まる極限の索敵。王国の中枢を腐らせるような未知の巨大な陰謀が動き出したことへのプレッシャーと、一睡もせずに泥の中で張り込んだ圧倒的な疲弊は、決してレオンの気を引くための「仮病」などではなく、紛れもない真実だったのだ。
だからこそ、血や泥の臭いが毛穴まで染み付いた冷たい彼女たちの心身に、レオンの指先から伝わる規格外の温もりは、抗いがたい致死量の快感となって溶け込んできたのである。
しかし、そんな王都を揺るがす恐ろしい任務や陰謀の詳細について、専属ケア要員でしかない一般人のレオンにわざわざ語って聞かせるわけにはいかない。
「……裏路地を走ったのは、持久力強化の一環だ」
セレスは視線をスッとそらし、少し気まずそうに咳払いをした。
「心配はない、我々は騎士だからな。君が気にする必要はない。それよりも……」
「……」
「早く、続きを頼む……背中が痛いのだ……」
最後は完全に子供のような情けない声で催促してくるセレスに、レオンは苦笑して小さく溜息をついた。これ以上は追及しないでおこうと心に決める。自分に出来るのは、危険な任務を戦い抜いてきた彼女たちの強張った背中を、限界まで和らげてあげることだけだ。
「なら、今日はいまの痛みを全部俺が抜きます。ちょっとだけ痛いですよ」
「あっ……ふにゃ、ああっ……! レ、レオン、そこは……!」
「うひゃあああああ……! レオン殿ぉぉ……!」
レオンが一切の遠慮を捨て、指の関節を駆使してツボの奥深くまで治癒魔力を叩き込むと、二人は先ほどの凛々しさを一瞬で彼方へと吹き飛ばし、だらしない悲鳴を上げて清潔なシーツに顔を沈めた。
――そして1時間後。
「おい、いつまで寝ているのだ! 次は私の番だぞ!」
「嫌だ……もう一歩も動きたくないのだ……ここで一生暮らす……」
「セレスティリア団長、ご自分がそんなだらしなくてどうするんですか! どきなさい!」
「……ええい、五月蝿い! 今日はまだ基礎訓練の疲れが抜けていないのだ! レオン、あと100回肩甲骨を押してくれ……ふにゃぁ……」
完全に骨抜きにされ、限界以上に心身をチャージされた最強の二人は、ベッドから「ストライキ」を起こして根を張った。そこへ他の騎士たちがなだれ込んで来て、新たなマッサージ権を巡る醜い縄張り争いを始めることになるのだが……。
――どんちゃん騒ぎの裏側で、レオンはふと服に染みついた微かな匂いに鼻をすする。
先ほど嗅いだ、スラム特有の焦げた甘さ。遠い路地裏の気配が、自分の足元までひたひたと滲み出してきていることに気づく者は、まだ誰もいなかった。




