第13話:聖母の素顔と、新たなる宣戦布告
「……ふふ。これで、また私のものになったわ」
月明かりの下、甘く濃密な吐息がレオンの首筋に落ちようとした、まさにその時だった。
「――そこまでよ!!」
バンッ!!
鼓膜を破るような激しい音と共に、自室の扉が手荒く蹴り開けられた。
同時に、強烈な光の魔術が部屋中を真昼のように照らし出し、団長のセレスティアと副団長のエストが怒り心頭の様子で乱入してきた。
「な、なんだっ!?」
レオンが驚いて身を起こすと、扉の枠には煌々と魔力を滾らせる二人。
その目は、ベッドの上の『侵入者』を射殺さんばかりに睨みつけている。
だが、光に照らされたその人物の正体を見て、セレスとエスト――さらにはレオンまでもが、息を呑んだ。
「クリス……!? お前だったのか……!」
「そんな、まさか……」
そこにいたのは、白百合騎士団が誇る『聖母』たる治療院長、クリスだった。
普段の慈愛に満ちた柔らかな微笑みは鳴りを潜め、狂おしいほどの独占欲を孕んだ、女の色香を漂わせる艶やかな笑みを浮かべている。
「……あら。せっかくいいところだったのに、ノックもなしに男性の部屋に押し掛けるなんて、はしたないですよ?」
クリスは悪びれる様子もなく、レオンの胸板にすり寄るように身を預けたまま、ふふっと蠱惑的に笑った。
「どうして、治療院長のあなたがこんな真似を……あんな手の込んだ偽装工作までして!」
信じられないといった顔で問い詰めるエストに、クリスは視線を落とし、レオンの頬をそっと愛おしそうに撫でた。
「どうしてって……決まってるじゃないですか。私が、レオンに救われたからです」
その言葉と共に、クリスの瞳の奥に、かつての仄暗い記憶が蘇る。
――白百合騎士団の治療院長。それは「聖母」としての完璧な振る舞いを求められる、極限の重圧を伴う役職だった。
毎日運ばれてくる、血まみれの重傷者たち。死と隣り合わせの絶望の中で、彼女は常に笑顔を絶やさず、騎士たちの心の拠り所であり続けなければならなかった。
だが、彼女も一人の人間だ。
他人の痛みに寄り添い、命の灯火が消えるのを看取るたび、彼女の心は確実に削り取られ、重く冷たい泥のような疲労が蓄積し続けていたのだ。
誰にも弱音を吐けず、限界を迎える寸前だった彼女の心を救ったのは――他でもない、レオンだった。
『クリスさん。……いつも皆のために頑張ってくれて、ありがとうございます。でも、無理して笑わなくてもいいです。今は包み隠さず、自分のためだけに休んでください』
ある夜、医務室の片隅で一人泣き崩れそうになっていた彼女を見つけたレオンは、そう言って彼女の冷え切った身体を温かな治癒魔法で包み込んだ。
ただの『特別な力を持った治癒術師』としてではなく、クリスという『一人の傷ついた女性』として優しく触れ、凝り固まった限界の心を解きほぐしてくれた。
レオンの手から伝わる規格外の温もりと安堵感は、彼女の中にあった絶望を跡形もなく溶かし去ったのだ。
その瞬間、クリスの中で張り詰めていた糸が切れ――そして、新しく生まれ変わった。
この優しい温もりだけは。私の全てを受け入れてくれたこの人だけは、絶対に他の誰にも渡したくない、と。
「……私は、レオンのことが好き」
回想を終えたクリスは、真っ直ぐにレオンの目を見つめ、静かに、けれど逃げ場のないほどの重い熱量で告げた。
「誰にも渡したくないくらい……私の全てをめちゃくちゃにしてしまいたくなるくらい、特別に愛しているの」
その赤裸々で、甘く重すぎるほどの愛情の吐露に、レオンは顔を真っ赤にして固まった。
だが、これを聞いて黙っている二人ではない。
セレスティアとエストが、猛然とベッドサイドへと詰め寄る。
「だ、だからといって抜け駆けは許さんぞ、クリス! そもそも彼をこの騎士団に連れてきたのは私だ! 彼の温もりを一番最初に知ったのは私だぞ……!」
「寝言は寝て言ってください、団長。レオンの極上の癒やしを、身をもって一番深く知っているのはこの私です。……ねえ、レオン。貴方は、私たちの中で誰が一番好きですか!?」
セレスとエストまでもが、負けじと己の好意と独占欲を露わにする。
三人の凄まじいプレッシャーが、レオンへと一等地にのしかかった。
剣呑な火花を散らす、三人の最高幹部たち。
その中心で、レオンは冷や汗をかきながらも、ごくりと息を飲んで三人の顔を真剣に見渡した。
ここで曖昧な態度をとれば、彼女たちの真剣な想いに対する不誠実になる。
「……みんなのこと、凄く好きだし、尊敬してる」
レオンは、圧倒されそうになる空気を必死に抑え、素直な言葉を紡いだ。
「団長の真っ直ぐで嘘がつけないところも、エストさんがいつも裏で苦労して支えてくれてる優しさも、クリスさんの温かさも、全部大好きだ。……でも、それはまだ『仲間として』だったり『尊敬する人として』なんだ。僕の中にはまだ、誰か一人を恋人として選ぶような、そういう気持ちは育ってない……だから、まだ今は一人を選ぶことはできないです。ごめんなさい」
それは、真っ向からの好意の保留――ともすれば、期待を裏切る身勝手な拒絶とも取られかねない言葉だった。
レオンは申し訳なさそうに、深々と頭を下げる。
重く静かな沈黙が部屋に落ちる。……レオンは、これで彼女たちに愛想を尽かされ、失望されるかもしれないと覚悟した。
だが。
「……ふふっ」
「……ははっ」
「……ふん」
聞こえてきたのは、三者三様の、ひどく楽しげで、好戦的な笑い声だった。
レオンが恐る恐る顔を上げると、そこには落ち込むどころか、先ほどよりも遥かに強い熱気を帯びた瞳でこちらを見つめる三人の姿があった。
「『まだ』……か。ならば、話は単純だ。お前のその目が完全に私を『一人の女』として見るようになるまで、徹底的に惚れさせてやるまでだ」
「ええ、望むところですよ。レオンの心を一番早く独占するのは、私ですから」
「ふふ、二人とも甘いですね。……レオンが私なしでは生きられないように、もっともっと深く依存させてあげるからね?」
バチバチッ!!
三人の間に、もはや隠そうともしない強烈な恋の火花が激しく交錯する。
そこにあるのは萎縮や諦めなどではない。「誰よりも先にこの鈍感な男の心を勝ち取ってやる」という、最強のヒロインたちによる堂々たる宣戦布告だった。
「ちょっと待って! なんか面白そうなことしてる! 私も混ぜてよーっ!!」
その時、開け放たれた扉から、はしゃぐような勢いでレオンの背中に飛びついてくる小さな影があった。
赤髪のツインテールを揺らす遊撃部隊隊長、リリヤだ。
「わわっ、リリヤ!?」
「あはは! 皆で集まって何のお話? 私もレオンとなでなでして遊ぶーっ!」
恋の駆け引きなど一切気にする様子もなく、ただ純粋に楽しいことを求める無邪気な子供のように、リリヤが彼に頬ずりをする。
そんな騒がしい光景を見下ろすように、今度は頭上から静かな声が降ってきた。
「……私も、一番温かい居場所は、譲りたくない」
トンッ――と音もなくベッドに飛び降りたのは、暗殺部隊副隊長のシエル。
普段は気配すら感じさせない彼女が、布で覆われた顔を僅かに綻ばせ、レオンの背中にぴたりとくっついてきた。
「ちょっ、シエルまで!?」
部屋に集結した五人のヒロイン。
団長、副団長、治療院長、遊撃隊長、暗殺部隊副隊長――それぞれのベクトルでレオンへと向かう好意が、一つの部屋で完全に入り乱れる。
「みんな、ちょっと落ち着いて……!」
四方八方から押し寄せる彼女たちの勢いと好意に圧倒され、レオンは慌てて声を上げる。
だが、その騒がしさは決して嫌なものではなかった。
どうやら、この白百合騎士団での生活は、彼が想像していたよりもずっと波乱に満ちたものになりそうだ。
乙女たちによる激しくも賑やかな日々――その中央で、レオンの新しい毎日は幕を開けようとしていた。




