第12話:上書き
「……で、報告はそれだけか、エスト」
団長執務室。セレスティアの声は、低く、重く、室内を支配していた。
デスクを挟んで対峙するエストもまた、いつになく険しい表情で報告書を握りしめている。
「残念ながら、団長。……昨夜のレオンの動線をミリ単位で洗いましたが、不審な影は一切捕捉できませんでした。彼の部屋の周囲に仕掛けた警備魔法も、作動した形跡はありません」
「馬鹿な。……あの子の首筋には、あんなにも生々しい『痕』があったのだぞ。魔法を掻い潜り、誰にも気づかれずに侵入し、あまつさえ痕跡を残して去るなど……。そんな芸当ができる者が、この騎士団に何人いると思っている」
セレスは苛立たしげに、机の端を指先で叩いた。
犯人が特定できない。その事実が、彼女たちのプライドと、それ以上に一人の女性としての誰にも譲れない想いを激しく逆撫でする。
「……犯人は外部の人間ではない。そう判断してよろしいのですね?」
「ええ。外部からの侵入の形跡も皆無です。……つまり、犯人は『身内』。それも、この白百合騎士団の内部に、我々の目を盗んでレオンを『汚した』泥棒猫がいるということです」
エストの眼鏡が、逆光で鋭く光った。
彼女の視線は、報告書から逸れることなく、目の前の『上司』へと向けられる。
「……ところで、団長。昨夜の深夜、貴女はどちらにいらっしゃいましたか?」
唐突な問いに、セレスの眉が僅かに跳ねた。
「……何が言いたい、エスト」
「いえ、単なる確認です。……団長ほどの技量があれば、警備魔法を無効化してレオンの寝所に忍び込むことなど、赤子の手をひねるより容易いはずですから」
「……それは貴公も同じだろう。副団長として警備網の全容を把握している貴公なら、誰にも悟られずに『犯行』に及ぶことができる」
二人の間に、張り詰めた沈黙が流れる。
そこにあるのは、共に騎士団の頂点に立つ者としての信頼ではなく、たった一人の癒やしを巡る、剥き出しの不信感とライバル心だった。
「……徹底的に洗うわよ、エスト。犯人は、必ずこの手で見つけ出し――相応の報いを受けさせてやるわ」
「ええ、同感です。……泥棒猫は、一匹残らず排除すべきですからね」
*
一方、当のレオンは、騎士団内に漂うかつてないほどの凍てついた空気に、胃を痛めていた。
(……なんだか、今日はずっと視線が痛い気がする……)
廊下ですれ違う際、セレスやエストから、まるで獲物を鑑定するかのような、あるいは裏切り者を探るような、冷徹で鋭い視線を向けられるのだ。
彼女たちは互いを犯人と疑い、牽制し合うあまり、レオンに対しても「余計な真似はさせない」と言わんばかりの重圧を放っていた。
その歪な膠着状態は、夕刻になっても解消される気配はなかった。
あまりの重圧に耐えかねたレオンは、逃げるようにして中庭のベンチへと足を運んだ。
「ふぅ……。なんだか、今日は生きた心地がしないな……」
首筋をさすりながら、レオンは力なく息を吐く。
そんな彼の背中に、突然、柔らかな重みが飛び込んできた。
「みーつけたっ! レオン、お疲れ様ー!」
「わわっ!? ……リリヤか、びっくりした……」
後ろから首に腕を回してきたのは、騎士団のムードメーカー、リリヤだった。
彼女はいつも通りの無邪気な笑顔で、レオンの肩に頬を寄せてくる。
「えへへ、レオン、なんだか今日は一段と疲れてるね? ほらほら、元気を分けてあげる!」
「あはは、ありがとう。リリヤと話してると、少し肩の荷が下りるよ」
セレスやエストの冷徹な視線とは対照的な、ひだまりのような明るさ。
リリヤの体温に触れ、レオンの強張っていた心がようやく少しだけ解けていく。
だが、リリヤは不意に動きを止め、レオンの首筋に鼻を近づけた。
「……くんくん。……あれ? レオン、なんだか変な匂いがする」
「えっ……変な匂い?」
「うーん……甘いっていうか、冷たいっていうか……。なんだか、ちょっと怖い匂い。レオン、どこか変なところに行ったの?」
リリヤの言葉に、レオンの心臓が跳ねた。
まさか、昨夜のキスマークの主の残り香だろうか。
「そ、そんなはずはないんだけど……」
レオンは冷や汗をかきながら、必死に言葉を濁した。
もしや、この『匂い』の正体を追及されるのか――と身構えたが、直後、リリヤのお腹から『きゅるるる……』と可愛らしい音が鳴り響いた。
「あっ……。えへへ、匂い嗅いでたら、なんだかお腹空いてきちゃった」
照れくさそうにお腹を押さえるリリヤに、レオンは毒気が抜かれたように思わず吹き出してしまった。
「あははっ、リリヤらしいな。……よし、食堂に行って何か甘いものでも食べようか」
「本当っ!? やったー! レオン、大好きっ!」
無邪気に喜ぶリリヤの姿は、昨日までの彼女と何一つ変わらない。
セレスやエストの冷徹な視線に晒されていたレオンにとって、その裏表のない明るさは本当に救いだった。
(……よかった。リリヤは、昨日までと何も変わらないままだ……)
その無邪気さが、今のレオンにとっては唯一の心の癒やしだった。
彼女だけは、自分を「獲物」としてではなく、頼れる仲間として見てくれている。
そんな勝手な安心感に浸りながら、レオンははしゃぐリリヤに手を引かれて歩き出す。
――まさか、その「日常」すらも、底知れぬほど深く甘い情念によって形作られた虚像であるとは露ほども疑わずに。
*
深夜。自室のベッドで、レオンは深い眠りに落ちていた。
キスマーク事件から丸一日。
心理的な疲労もあり、彼の意識は意識の底へと深く沈み込んでいた。
カチャリ……。
静寂を裂く、微かな解錠の音。
一条の月明かりが床をなぞり、黒い影が音もなく部屋へと侵入した。
影は迷うことなくベッドへと歩み寄り、眠るレオンに覆いかぶさる。
ひんやりとした空気が、重なり合う体温によってじわりと熱を帯びていく。
「……っ……ん……」
微かな重みに、レオンが目を開けようとする。
だが、月光を背にした侵入者の顔は深い影の中にあり、その正体を判別することはできない。
ただ、ふわりと香る、甘く――それでいて背筋が凍りつくほどに濃密な熱情を感じさせる花の匂いだけが、彼の鼻腔をくすぐった。
「……せっかく私が、最初につけてあげようと思ってたのに」
耳元で、蕩けるような――同時に、逃げ場を奪うような甘く重い情念を孕んだ声が囁く。
「誰だか分からない相手に、泥棒猫みたいに汚されるなんて……。……許せないわね。本当に」
侵入者の細い指先が、レオンの首筋に残された既存の痕跡を、忌々しげに、そして愛おしそうになぞる。
「……全部、塗りつぶしてあげる。……貴方の体には、私一人分の色があれば、それでいいのよ」
次の瞬間、レオンの首筋に、先ほどまでとは比べ物にならないほどの熱を帯びた唇が押し付けられた。
「あ、……ぁっ……」
吸い付くような刺激と、逃げ場のない束縛感。
レオンは抗おうとするが、全身が心地よい痺れに包まれ、声にならない吐息しか漏れない。
既存の誰かの痕跡を、力ずくで、丁寧に。
より深く、より鮮やかに、「上書き」していく。
誰か分からない。だが、その相手の持つ逃げ場のないほど深く重い愛情が、レオンの意識を甘美な暗闇へと引き摺り込んでいく。
「……ふふ。これで、また私のものになったわ」
影に隠れた、艷やかな微笑み。
レオンは、抗いがたいほどに甘く濃密な熱情の底へ、音もなく沈み込もうとしていた。




