第11話:いつもと違う朝
「もう、リリヤちゃん! じっとしていないと、包帯がうまく巻けませんよ」
「……ちっ。だいたい、こんなのかすり傷だって。大げさなんだよ、クリス」
白百合騎士団、後方支援棟の一角。
朝の柔らかな光が差し込む医務室で、二人の女性が対照的な空気を醸し出していた。
一人は、緩やかな亜麻色の髪を揺らし、困ったように眉を下げているクリスティナ・ベル。この騎士団において数少ない『癒やし』の象徴であり、衛生兵たちのまとめ役でもある。
もう一人は、真っ赤なツインテールを不機嫌そうに跳ねさせ、処置台の上で足をぶらつかせているリリヤ・バーンズだ。
「かすり傷でも、ばい菌が入ったら大変です。リリヤちゃんはいつも無理をするんですから」
「うっさい。あんな雑魚、相手にもなんねーし。……ほら、もういいだろ。終わったなら行くぞ」
リリヤが処置台から飛び降りようとしたその時、廊下から聞き慣れた足音が近づいてきた。
「おはようございます。入っても大丈夫ですか?」
ひょっこりと顔を出したのは、レオンだ。
その瞬間、リリヤの表情が劇的に変化した。先ほどまでの狂犬のような険しさはどこへやら、パッと目を見開くと、猛烈な勢いでレオンへと突っ込んでいく。
「レオン! 遅いぞ、待ちくたびれた!」
「わわっ、おはよ、リリヤ。朝から元気だね」
衝撃に備えて足を踏ん張ったレオンの腰に、リリヤがガシッとしがみつく。まるで散歩を待っていた大型犬のような懐きようだ。
「おはようございます、レオンさん。ふふ、ちょうど良かったです。リリヤちゃんをなだめるのに苦労していたんですよ」
クリスがホッとしたような溜息をつきながら、いつもの聖母のような微笑みを浮かべる。
彼女にとって、レオンは荒ぶる部下たちを唯一大人しくさせられる頼もしい存在であり、同時に、重責に押し潰されそうな心を密かに預けられる数少ない相手でもあった。
「あはは、すみません。……リリヤ、クリスさんの言うことはちゃんと聞かないとダメだよ?」
「……っ。レオンが言うなら、少しだけ聞いてやってもいい」
リリヤはレオンの胸に顔を埋めたまま、小さく「フン」と鼻を鳴らした。
クリスはその様子を慈しむように見守っている――かに見えた。
「――? リリヤ、どうしたの?」
ふと、レオンの腰にしがみついたまま、リリヤが動きを止めた。
それどころか、クンクンと鼻を鳴らし、レオンの首筋のあたりを熱心に嗅ぎ始めたのだ。
「……リリヤちゃん? レオンさんが困っていますよ?」
クリスの声が、わずかにトーンを落とした。
リリヤは一瞬だけピクンと肩を震わせると、パッとレオンから離れた。その表情には、得体の知れないものを警戒するような、あるいは不機嫌を極めたような鋭さが宿っている。
「……レオン。お前、昨日……」
「え? 昨日? ……ああ、昨日はちょっと夜更かしして調合してたけど……」
「………………ちっ、なんでもねーよ。腹減った、飯食ってくる!」
それだけ言い残すと、リリヤは嵐のように部屋を飛び出していった。
残されたレオンは呆然としたまま、その背中を見送るしかない。
「あの子ったら……。すみません、レオンさん。……ところで、レオンさん。その襟、少し曲がっていますよ?」
クリスが歩み寄り、レオンの首元へ手を伸ばした。
指先が糸を引くように襟元をなぞる。昨夜、彼女自身が刻み込んだはずの痕跡のすぐ傍を。
「ああ、ありがとうございます、クリスさん」
「……いえ。今日も大変でしょうけれど、無理はしないでくださいね。何かあったら――いつでも、私を頼ってください。いいですね?」
優しく微笑み、首元を整えてくれるクリス。
その瞳の奥にある、影に……鈍感なレオンが気づくことはなかった。
*
食堂へ足を向けると、そこには既に戦闘服に身を包んだセレスの姿があった。
だが、今の彼女からは、立ち寄る者を拒むようなピリついた空気が漂っている。
「……あ、あの。あらためておはようございます、セレス団長」
レオンが恐る恐る声をかけると、セレスはピクリと肩を揺らした。
ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳には、先ほどの執務室での動揺がまだ色濃い影を落としている。だが、それ以上に……。
「……ああ、レオンか。おはよう」
その声は、驚くほど低く、平坦だった。
いつもなら「こっちへ来い」と隣の席を勧めてくれる彼女が、今日は一度もレオンと目を合わせようとしない。
それどころか、レオンが隣に座ろうと腰を落とした瞬間、彼女は弾かれたようにわずか数センチだけ距離を置いた。
その動作は拒絶というより、何かを必死に抑え込もうとしている――あるいは、近づくことで「何か」を見てしまうのを恐れているかのようだった。
「……あの、先ほどは……すみませんでした。あの痕、すぐに消しますから……」
レオンが申し訳なさそうに切り出すと、セレスの持つスプーンが、カチリと皿に当たって微かに震えた。
「……気にするな。あれは……騎士団の規律の問題だ。貴官に非があるわけではない……。今は、そう、調査を進めているところだ」
淡々と答えるセレスの表情は、氷のように硬い。
だが、その視線は……。
チラチラと、だが強烈な引力がそこにあるかのように、レオンの首筋の『痕』へと吸い寄せられては、苦渋を噛み締めるように逸らされるのを繰り返していた。
キスマーク事件の衝撃と、誰だか分からない相手への底知れぬ嫉妬。
団長としての理性を保とうとすればするほど、彼女の心中にはドロりとした独占欲が渦巻いていく。
「ですから……あ、お茶、淹れ直しましょうか?」
「……不要だ。自分でやる」
レオンが立ち上がろうとしただけで、セレスはカタンと音を立てて身を引いた。
その顔は、湯気が出るほど真っ赤に染まっているが、そこには羞恥だけでなく、剥き出しの感情を抑えきれない悔しさのようなものが混じっている。
「……私は、少し用事を思い出した。今日は……その痕を、あまり他人の目に触れさせるなよ」
それだけを言い残し、セレスは逃げるように……というよりは、感情を爆発させる前にその場を辞するように、足早に食堂を去っていった。
いつも凛としていて厳格なはずの彼女が、まるで思春期の少女のように動揺していた。
*
午前中の業務を終え、レオンは洗濯物を抱えて干し場へと向かっていた。
そこでは、先ほど医務室にいたクリスが、手際よく布類を捌いているところだった。
「あ、レオンさん。そちら、預かりましょうか?」
「いえ、これくらい自分で。……あ、これは昨日の僕の上着ですね」
レオンがカゴから取り出したのは、昨夜着ていた薄手のシャツだ。
それを見た瞬間、クリスの動きが止まった。
「……ええ。汚れてしまったようですから、丁寧に洗わないと、ですね」
クリスはレオンの手からシャツをひったくるように受け取ると、その襟元へ視線を落とした。
指先で優しく、何かを確かめるように生地をなぞる。
ふわりと、昨日のレオンの香りが鼻腔をくすぐった。
「クリスさん?」
「……。……ふふ、なんでもありません。汚れ、しっかり落としておきますね? ――ええ、こうしてレオンさんの身の回りをお世話できるのは、私の特権ですから」
いつもの柔和な笑み。
だが、その声はどこか冷たく、そして勝ち誇ったような響きを帯びていた。
「ありがとうございます。助かります」
「いいえ。……レオンさんの身の回りの世話をするのは、私の楽しみでもありますから」
騎士団を包む、いつも通りの穏やかな朝。
だが、その水面下では、確実に何かが変わり始めていた。
本人の預かり知らぬところで、少女たちの独占欲という名の炎が、静かに、だが激しく燃え広がっていることに、レオンだけが気づかずにいた。




