第10話:キスマーク事件
まどろみの微かな意識の中。
レオンは、夢と現実のあわいで、心地よい温もりにたゆたっていた。
ふわりと体を包み込むのは、ただの毛布の柔らかさではなかった。
微かに息遣いを感じる、ひとの体温。
そして、無防備な胸元にそっと預けられる、愛おしいほどの少しの重さ。
それは、まるで彼を外の世界の全てから守り、同時に彼そのものを閉じ込めようとするかのような、甘い温もりだった。
(……なんだろう……あったかいな……)
微睡みの中で、レオンは無意識にその温もりに身を寄せる。
鼻腔をくすぐるのは、ふわりと香る、甘く高貴な花の匂い。
次の瞬間――首筋に、ちくりとした刺激が走った。
それは単なる痛みではない。熱を帯びた柔らかな何かが吸い付くような、甘く、かすかに肌を焼くような感覚。
わずかに息が漏れるその直後、肌をなぞるように滑らかな何かが触れ、ぞくりと背筋を震わせた。
(……それに、すごくいい匂いがする……)
抗う気など、欠片も起きなかった。
ぼやけた意識のまま、レオンはその柔らかな重みと心地よい刺激、そして甘い香りに満たされながら、再び深く、抗いようのない眠りの底へと沈んでいった。
*
翌朝。
いつものように白百合騎士団の居住棟で目覚めたレオンは、日課の身支度を整えていた。
鏡の前に立ち、寝癖のついた髪を軽く梳かす。まだ少し眠気が残っているのか、あくびを一つ。
「相変わらず、ここは朝が早いな……」
特茶や薬草が香る自室を出て、レオンは一日の始まりに備えた。
彼の現在の「主」であり、最大の顧客でもある白百合騎士団のトップ二人に、今日の施術スケジュールと健康状態の報告を行うため、団長執務室へと足を向ける。
荘厳な装飾が施された長い廊下を抜け、重厚な木扉の前に立つと、軽くノックをした。
「失礼します。レオンです。本日の報告に伺いました」
中から「……入れ」という、いつも通りの凛とした声が響く。
扉を開けると、そこには白百合騎士団の団長セレスティアと、副団長エスト・ヴィオラの姿があった。
二人は大きな執務机に向かい、山積みになった書類の処理に追われているようだった。
「おはようございます、セレス団長、エスト副団長。お疲れ様です」
レオンが穏やかに頭を下げると、二人は同時に顔を上げた。
セレスは優美な微笑みを浮かべようとし、エストは冷徹な眼差しを向けようとした。
――しかし、その動作は途中でピタリと止まった。
「……ん?」
レオンが首を傾げた瞬間、執務室内の空気が一変した。
まるで時が止まったかのように、二人の視線が一箇所に釘付けになっていたのだ。
「あの……どうかされましたか?」
レオンの問いかけに対し、最悪の沈黙が数秒間続いた。
やがて、その沈黙を破ったのは、信じられないほどの動揺だった。
パキッ。
乾いた音が響く。見れば、セレスが握っていた高級な羽根ペンが、見事に真っ二つに折れていたのだ。
「え、あ、ちょ、団長!?」
「…………っ!!」
普段は悠然としており、騎士団の象徴として隙のないセレスが、目を見開いて口をパクパクとさせている。顔は急速に朱に染まり、折れたペンのインクが書類に滲んでいることにも気づいていない。
一方のエストは……。
彼女はバッ、と持っていた書類で顔の下半分を隠した。
鋭い眼光はそのままレオンに向けられているが、その手が微かに震えている。
「副団長? 顔色が悪いようですが……まさか、また徹夜を? 施術の回数を増やした方が……」
「ち、違うっ! 違うわ馬鹿者ッ!!」
エストが裏返った声で叫んだ。
よく見ると、彼女が隠れ蓑にしている書類は上下が逆さまだった。あの冷静沈着で理知的な副団長が、文字の向きすら認識できないほど取り乱しているのだ。
「ええっ? じゃあどうして……」
「レ、レオン君……」
ようやく言葉を絞り出したセレスが、震える指先でレオンの首元を指差した。
その瞳には、信じられないものを見た驚愕と、得体の知れない感情が渦巻いている。
「あ、あなた……その首筋に……『何』がついていると思っているの……?」
「首筋……?」
レオンは首を傾げながら、自分の首筋に触れた。
少しだけヒリッとするような、虫刺されのような感覚はある。しかし、特段痛むわけではない。
「何かって……ただの虫刺されか何かじゃ……」
「鏡! そこに鏡があるから、よく見なさい!!」
エストが怒鳴るように指示した先には、執務室の片隅に置かれた姿見があった。
言われるがままに鏡の前に立ったレオンは、首周りの襟を少し下げて、自分の首筋を確認する。
「…………え?」
そこには、白く健康的な肌の上に、赤紫色の生々しい痣のような痕が、くっきりと残っていた。
虫刺されなどでは断じてない。丸みを帯びたその形は、誰かの思考を奪うような、生々しい……。
「これって……なんだ……?」
レオンの脳裏に、昨夜の微睡みの中の記憶がフラッシュバックする。
ふわりとした重み、花の香り、そして首すじに落ちた、熱を帯びた柔らかな感触。
あれは夢じゃ……なかったのか?
「まさか、あの時の……?」
信じられないというように、レオンは鏡の中の自分と、その首につけられた生々しい証拠を交互に見比べた。
まるで、所有印でも刻み込むかのような、濃厚な痕。だが、女性経験に乏しく、ましてやこんな痕をつけられたことなどないレオンにとって、それが「何を意味するのか」までは結びつかない。
いったい誰が? いつ?
自分が寝ている間に、誰かが部屋に忍び込んで、どうしてこんな事を……?
「~~~~っ!! この、破廉恥なっ! 神聖なる白百合騎士団の敷地内で、一体誰と、いつの間に、そのようなふしだらな真似を……っ!!」
エストが顔を真っ赤にして、書類をバンバンと叩きながら立ち上がった。
しかし、その声は普段の厳しい叱責というより、どこか悲痛な、そして嫉妬に狂いそうな「女の顔」をしていた。
「ち、違います! 僕には全く身に覚えが……!」
「嘘をおっしゃい! 身に覚えがないのに、そんな痕が自然に湧いてくるはずがないでしょう!?」
「ほ、本当の本当です! 朝起きたらこうなっていて……僕自身が一番驚いてるんです!」
レオンが必死に弁解するも、二人の耳には届いていないようだった。
セレスは折れたペンを握りしめたまま、うつむいてプルプルと震えている。
「レオン君は……昨日……夜は……誰かと……会っていた……?」
「いえ、いつも通り部屋で薬草の調合をして、そのまま寝ました! 誓って誰とも会っていません!」
「……そう、よね。レオン君がそんな、軽い気持ちで誰かと……そんなの……そんなこと……」
ブツブツと呪詛のようにつぶやくセレスの背後に、どす黒いオーラが見える気がして、レオンは思わず一歩後ずさった。
完全にパニック状態である。
まさか、ただのマッサージ師につけられたキスマーク一つで、この国を代表する強者二人がここまで狼狽えるとは。
「わ、わかりました! 今日は報告はこれで失礼します! すぐにこの痕を冷やすか何かして消しますから!」
これ以上ここにいては命の危険(あるいは貞操の危機)を感じたレオンは、逃げるように執務室の扉に向かった。
「ま、待ちなさいレオンッ! まだ話は終わって……っ!」
「失礼しましたぁっ!」
バタンッ! と扉を閉め、レオンは全速力で廊下を駆け去っていった。
残された執務室には、凄まじい緊迫感が漂っていた。
カラン……と、セレスの手から折れたペンが滑り落ちる。
「…………エスト」
氷のように冷たい声が、部屋に響いた。
先ほどまでの狼狽えぶりは嘘のように消え去り、そこには白百合騎士団長としての絶対的な威圧感と、それを上回る「一人の女」としての底知れぬ嫉妬が渦巻いていた。
「……何でしょうか、セレス」
エストもまた、持っていた書類を机に叩きつけるように置いた。
その表情は夜叉の如く険しく、瞳孔は細く収縮している。
「昨夜の、彼の動線を出しなさい。……騎士団の敷地内に、不届きな賊が侵入したようね。これは重大な規律違反だわ」
「同感です。……我が陣地に泥棒猫が入り込んだ。これは徹底的な調査と、容赦のない排除が必要です」
二人の視線が空中で激突し、バチバチと見えない火花が散った。
レオンには身に覚えがないと言った。あの様子なら、嘘をついているようには見えなかった。
問題は、誰が彼に『あの痕』をつけたのか、である。
(私以外の誰かが……あの子に触れた? あまつさえ、痕を残すなど……万死に値するわ)
セレスの心中に、暗くドロドロとした感情が渦巻く。
(私の専属ケア要員に……私だけの癒やしに、手を出した不届き者はどこのどいつだ……! 捕まえて、八つ裂きにしてやる!)
エストの理性が、激しい独占欲によって焼き切られようとしていた。
「徹底的に洗うわよ、エスト」
「ええ。ネズミ一匹、逃しはしません」
こうして、白百合騎士団トップ二人による犯人探しが幕を開けたのだった。




