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一般マッサージ師、女騎士団の専属になる  作者: 久喜崎


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プロローグ:深夜の迷い客と、国家権力によるお持ち帰り

王都の片隅――裏路地の奥まった一角に、小さな店がひっそりと灯りを灯している。

表通りの喧騒はここまで届かず、聞こえるのは軒先に吊るされた風鈴の微かな音と、時折通りすがる野良猫の足音だけだ。

扉には『整体・疲労回復処 レオン』という簡素な木札が下がっている。その木札自体も、もう何年も風雨に晒されて角が丸くなっていた。


「……ふぁ。今日も平和だったなあ」


店主のレオン・アルジェントは、カウンターに頬杖をつきながら本日の売上を計算していた。

銅貨を一枚ずつ積み上げ、指折り数える。


「えーと……銅貨が12枚。うん、明日のパンと野菜は買える。贅沢をしなければ」


それだけで満足そうに頷くあたり、彼の欲のなさは筋金入りだった。

レオンは少しばかり特殊な治癒魔法と整体の技術を持っている。けれど基本的には争い事を好まない性分で、王都の下町で肩こりや腰痛に悩む庶民の身体をほぐしながら、細々と、しかし穏やかに暮らしていた。

常連客のお爺さんが「あんたの揉みは世界一じゃ」と褒めてくれることが、彼にとっては何よりの報酬だった。


ランプの芯をつまみ、火を細くする。

今日も一日、何事もなく終わる。いつもと変わらない、平穏な夜――。


――のはずだった。


ランプの炎が、不自然に揺れた。

風はない。扉も閉まっている。にもかかわらず、灯りがまるで怯えるように、ぶるりと身震いした。


レオンの指先に、微かな違和感が走る。

空気の肌触りが変わった。店の外から、凄まじい密度の魔力が――まるで暴風雨の前の気圧変化のように――押し寄せてきている。


カラン、と控えめなベルの音が鳴った。

重い木の扉が、軋みながらゆっくりと開く。


「いらっしゃいませ。申し訳ありません、本日の営業はもう――」


断ろうとしたレオンの声が、途中で止まった。


入ってきたのは一人の女だった。

深く被ったフードの下から覗くのは、氷のように冷たく、鋭い知性を湛えた黒い瞳。その瞳の奥には、夜よりも深い疲労の色が沈んでいる。

彼女が纏うのは、一目で上等とわかる漆黒の外套。しかしその下からは、微かな血の匂いと、長時間にわたって酷使された鉄の匂いが染みついていた。裾には乾いた泥が跳ね、靴の爪先は擦り切れている。


だが何より異常だったのは、彼女から発せられる魔力の乱れだった。


治癒師の勘が、触れるまでもなく悲鳴を上げている。

魔力回路はショート寸前。全身の筋肉は限界を超えて石のように硬直し、体内に蓄積された疲労は――数日どころか、何年もの無理が折り重なったものだった。


よくこれで歩いている。よく立っていられる。

レオンは思わず息を呑んだ。


「……看板に、『どんな疲労でも確実に抜き去る』と書いてあったな」


女は掠れた声で言った。

一歩、踏み込む、その足取りが僅かにふらついた。壁に手をついて体を支え直す、その仕草を悟られまいとするように、すぐさま背筋を伸ばす。

声には威厳を保とうとする意志が滲んでいたが、その底に隠しきれない疲弊が揺れていた。


「その言葉が真実であることを祈る。……ただの肩凝りだ。すぐに治してくれ」


強気な台詞とは裏腹に、彼女の唇は白く、目の下には深い隈が刻まれていた。まっすぐ立っているだけで、全身が微かに震えている。


レオンは一瞬だけ目を細め、静かに頷いた。


「ひどい状態ですね。……わかりました、すぐに手当します。そちらのベッドへどうぞ」


相手が何者であろうと、目の前に限界を迎えた患者がいれば放っておけないのが、彼という人間だった。

差し出したのは、清潔な白いタオルと、温かいハーブ水の入ったカップ。


「……私の体に触れることは許可するが、できれば手短に頼む。……あまり、時間がない」

「はいはい、まずは力を抜いてくださいね。深呼吸、ゆっくりで大丈夫です」


外套を脱がせると、その下から現れたのは引き締まった細い身体だった。鍛え上げられた筋肉の線が服の上からでもわかる。けれど肩甲骨の周辺は異常なほどに盛り上がり、首筋には青白い魔力の滞留が薄らと浮かんでいた。


レオンは、うつ伏せになった彼女の肩に、そっと両手を置いた。


「――っ!?」


彼女の全身が、びくりと大きく跳ねた。

無理もない。


レオンの指先から流れ込んだのは、彼特有の――規格外の治癒魔法だった。

ただの揉みほぐしではない。彼女の体内に何層にも蓄積された凄まじい疲労物質、数え切れないほどの古傷が残す鈍い痛み、そして魔力回路に絡みついた呪いの芯までも、レオンの掌を通して、ゆっくりと、確実に融解していく。


氷が春の陽射しに溶けるように。


「あ……っ」


彼女の喉から、小さな声が漏れた。

自分でも予想していなかったのだろう。慌てて口をつぐみ、シーツを強く握りしめる。


「首の付け根から肩甲骨にかけて、氷みたいに固まっていますね。相当な無茶をされてきたでしょう」


レオンの指が、凝り固まった深層筋の芯を正確に捉える。親指の腹で、ゆっくりと圧をかけていく。


「ま、待て……そこは……っ」


理性で耐えようとしている。それはわかる。

だが、彼女の身体はもう限界だった。


何年もの過酷な任務で積み上げてきた疲労と痛みが、一気に溶け出していく。張り詰めていた筋肉の一本一本がほどけるたびに、猛烈な脱力感と、それを上回る圧倒的な快感が全身を駆け抜けていく。


「だめ……っ、指が、深く……あぁっ……」


氷のように冷徹だった彼女の口から、信じられないほど甘く、力の抜けた声が零れた。

彼女――王国最強と謳われる『白百合騎士団』の副団長、エスト・ヴィオラは、生まれて初めて経験する極上の安堵感の前に、理性という名の防壁をあっけなく粉砕されていた。


「だめ……こんなの、わたし……おかしく、なっ……」


声は震え、瞳からは無意識に涙が滲んでいた。

痛みからではない。何年もの間、誰にも見せなかった疲労と緊張が、根こそぎ融かされていく安堵――その圧倒的な解放感に、身体が勝手に泣いているのだ。


「お疲れ様でした。今日はもう、ゆっくり休んでください」


レオンの穏やかな声が、彼女の意識を手放す最後の引き金になった。

計算高く、効率のみを追い求めてきた鉄の副団長は、ただの街のマッサージ師の掌によって完全に骨抜きにされ、数年ぶりの――もしかすると人生で最も深い眠りに落ちていった。


寝息が規則正しくなったのを確認して、レオンは静かに毛布をかけた。

安らかな寝顔は、先ほどまでの凛とした雰囲気とは別人のように幼く、無防備だった。


「……よっぽど頑張ってきたんだなあ」


レオンはそう呟いて、余ったハーブ水をひとくち啜った。



――数日後の、のどかな昼下がり。


レオンが店先で植木鉢の花に水をやっていると、裏路地の入り口を塞ぐようにして、一台の豪奢な馬車が止まった。


「……えっ?」


水差しを持ったまま固まるレオンの前に、馬車の扉が勢いよく開いた。

降りてきたのは、全身を白銀の鎧で包んだ屈強にして美しい女騎士たち。その鎧は実戦仕様で、一分の隙もなく磨き上げられている。


「あの……どちら様で……」


女騎士たちが左右に道を開き、その中央から現れたのは――先日、この店でだらしない寝顔を晒して熟睡していた、あの黒髪の女性だった。


エスト・ヴィオラ。

その表情には、あの夜の温もりなど微塵も残っていない。感情を完全に遮断した冷徹な瞳が、まっすぐにレオンを射抜いた。


彼女は一枚の羊皮紙を差し出した。蝋で封じられた王室の紋章が、陽の光を鈍く照り返している。


「レオン・アルジェント。貴方を本日付で、白百合騎士団の『特別ケア要員』に任命する」

「……はい? いや、あの、僕ただの民間人で、そんな大層な――」

「これは国家命令だ。貴方に拒否権はない」


エストの眼鏡がきらりと光り、その奥の瞳が妖しく細められた。

あの日以来、彼女はレオンのマッサージなしでは満足に眠れない体になってしまっていたのだ。こんな規格外の人材を、王都の片隅に放置しておく手はない。


「身柄を確保しろ。本部に連行する」

「えっ、ちょ、ちょっと待って! 店の戸締まりくらいさせてぇぇぇっ!?」


水差しから水が溢れ、植木鉢の花がびしょ濡れになった。


こうして、ただの街の整体師だったレオン・アルジェントは、王の勅命という名目での副団長の職権乱用によって、心身共に限界を迎えている女騎士たちの園――白百合騎士団の駐屯地へと、強制連行されていくのだった。

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