第四十二話 別れ
デドリウス視点のお話です。
リルクの宣言が響いた瞬間、広間は割れんばかりの歓声に包まれた。
天井のシャンデリアが震え、窓の外の空まで共鳴しているかのようだった。だが、その熱狂の中で、セシルだけは静かに立ち尽くしていた。皆が前を向くなか、彼女だけが背を向けている。
ーー白い肩が小さく震えていた。
(……立っていられないのか?)
人々の間をかき分け、彼女の肩にそっと手を添えた。
「デドリウス様……?」
振り向いた顔は血の気を失っていた。
「大丈夫か」
「え……?」
喧騒が嵐のように押し寄せ、声はその渦に飲み込まれていく。
「あっちで少し休もう」
彼女の手を取り、群衆を抜け出した。
噴水の水音だけが響く中庭にたどり着き、ベンチに座らせる。遠くの熱狂がまだ空気を震わせていた。
「気分は?」
「……少し楽になりました。人の熱気で、頭がくらくらして」
「これを」
保存食として持っていた菓子を差し出す。セシルは戸惑い、首を横に振った。
「少しでもいいから食べるんだ。甘いものは力になる」
ためらいながらも、一口。すぐに目を見開いた。
「……すごくおいしいです」
「だろ? “チョコレート”っていうんだ。疲れたときに効く」
一口、二口、三口――食べるたびに、彼女の頬に淡い赤みが戻っていく。その光景が、なぜか胸に沁みた。
(……かわいいな)
無邪気に喜ぶ姿が、どこか遠くへ行ってしまう前触れのように見えて、息が詰まった。
――これから、決定的な話をしなければならないというのに。
「裁判はうまくいったな。これでリルクの地位は揺るがない」
「ええ……でも、なんだか胸騒ぎがします。クラウス8世が――笑っていました。まるで怖くないみたいに」
「ああ、どこまでも不気味な野郎だ……きっとハッタリさ。最後まで王を演じたんだろう。それより、この結果が何を意味するか分かるか?」
「……リルク様が、正式に国王になる」
「そうだ。クラウス8世の処刑が済めば、即位だ。――セシル、君はどう思ってる?」
セシルは少し考えたあと、俯いて言った。
「嬉しいです。でも……怖い。今日の人たちの熱狂を見て、あの中に飲み込まれてしまいそうで」
「国を背負うなんてとんでもないことです。リルク様なら大丈夫だと信じていますが――もし、私がその隣に立つことになったら」
「……」
セシルの声はかすれていた。沸き立っている群衆たちのほうに一瞬目をやり、怯えたように震えている。
(それなら、リルクなんて選ぶな。俺にしろ)
リルクを選ぶということは、王妃になるということ。
民の前に立ち、責任を負い、孤独を抱えて生きるということ。並大抵のことでは務まらない。
それを分かっていながら、彼女は歩もうとしている。
(俺を選べば、気楽に暮らせる。好きなことをして、好奇の目や批判に晒されることもなく――裕福に、穏やかに生きられるのに)
(それでも、行くのか? あいつのもとへ)
声にならない思いを押し殺し、セシルの横顔を見つめる。陽の光に照らされるその横顔は、残酷なほど美しかった。
ーー彼女が誰を見ているか、分かっている。
それでも、目を逸らせなかった。
なぜこれほど、セシルのことを好きになってしまったんだろう。
その輝くような美貌だけではない。知れば知るほど、彼女に惹かれた。大人しいかと思えば破滅するのではと不安になるほど大胆で、頑固。でもこんな風に急に冷静になって怖がったりするんだ。
(まったく……どこまで心配させるつもりなんだ)
心配で目が離せなくて、かと思えば予想外に強くて――どうしようもなく愛おしい。
(だからこそ……ここではっきりさせないといけないんだ)
大切な人には、幸せになってほしい。
――たとえ、隣りにいるのが俺でなくても。
「……リルクのことを、愛してるのか?」
問いながら、声が震えた。自分でも驚くほど静かな声だった。セシルがゆっくりと顔を上げる。その瞳には迷いがなかった。
「はい」
わずかに震える唇からこぼれたその一言が、世界のすべてを静止させた気がした。胸の奥の何かが、音もなく割れていく。
(ああ……やっぱり、か)
(俺では、だめだった……)
深呼吸をして、無理やり笑顔を作った。
――気持ちよく送り出してやるんだ。それが俺にできる最後のことだろ?
「それなら――怖がってちゃだめだ。隣りで支えてやれ」
先ほどまでいた広間を指さす。リルクが、群衆の歓声の中心に立っていた。
「え……でも」
セシルの瞳が不安げに揺れた。
「ほら、早く」
セシルは一瞬ためらい、やがてうなずいた。さっきまでの弱さが嘘のように、その背筋はまっすぐだった。
駆け出す背中を見て、思わず呼び止める。
「……待ってくれ」
振り向いたセシルの顔が、光の粒をまとっていた。その笑顔を見た瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
(きれいだ……)
ただ、それしか思えなかった。
「ほら、全部持ってっていいぞ」
残っていたチョコレートを渡す。
「こんなにたくさん!? わたし、そこまで食いしん坊じゃないです」
「いいから持ってってくれ」
セシルは一瞬きょとんとしたが、すぐに柔らかく笑った。その笑顔が、記憶の奥に永遠に焼きつく気がした。
「幸せになってくれ」
「はい!」
その声を最後に、彼女は群衆の中へ消えていった。
壇上のリルクがセシルを迎え入れる。程なくして、彼女の言葉が聞こえた。
「リルク様は、何者でもなかった私を地獄から救ってくださいました。
平等に民を愛し、機会を与えてくれる王になるでしょう」
歓声が広がり、空が揺れた。
「リアクロンビー卿、万歳!」
「新国王に栄光を!」
人々の歓喜の中で、俺はただ立ち尽くしていた。
(お似合いだよ)
その言葉が声になったのか、心の中だけだったのか――もう分からない。
胸の奥に、もう取り返せない温もりが残っていた。
触れられない温度。もう戻らない時間。
それでも――彼女が笑っているなら、それでいい。
「……やっぱり俺、“お人好し”かな……」
クラウス8世のあざ笑うような声が脳裏に蘇る。ーー図星だったのかもしれない。
だが、彼女を泣かせずに済んだ。それだけで、報われた気がした。
「これで、よかったんだ」
一個だけ手元に残したチョコレートを頬張る。
「苦いな……」
呟いた声は、誰にも届かず、歓声の渦に溶けていった。




