第四十話 リルク様の過去
その日の夜、私は思い切ってリルク様に会いに行った。
もう夜も更けていて、廊下には人の気配がほとんどない。ランプの灯りだけが、静かに床を照らしている。
書斎の前まで来て、私は小さく息を吸った。
(こんな時間に押しかけるなんて、迷惑かもしれないけど……どうしても話したかった)
意を決して扉をノックすると、中から低い声が返ってきた。
「入れ」
いつもの落ち着いた声。でも、どこか疲れがにじんでいるように聞こえた。
「失礼します」
おずおずと扉を開けたその瞬間――
「……えっ」
思わず声が漏れた。部屋の中は、人・人・人!
円卓を囲んで十人以上の貴族たちが座り、山のように積まれた書類を前に、真剣な表情で何かを議論していた。
(えっ……会議中!? どうしよう!)
全員の視線が一斉にこちらへ向かい、空気がピンと張りつめた。その圧に耐えきれず、私は背筋を伸ばしたまま固まってしまう。
(もう夜の十二時を回ってるのに……まだ仕事してたなんて。軽率だった……)
「あの……ご、ごめんなさいっ。お邪魔しました……!」
私が慌てて頭を下げると、リルク様は苦笑しながら椅子を引いた。
「いや、ちょうどいい。今日はここまでにしよう。これ以上話しても結論は出ないだろうし――明日、8時にまた集まろう」
その声に、貴族たちは次々と立ち上がった。 会議の出席者たちは私にも礼儀正しく挨拶をして、部屋を後にした。その中でも若い貴族の一人が私に見惚れ、足を止めた。
「なんとお綺麗な……」
「コホンッ」
リルク様の咳払いが鋭く響く。
「し、失礼しましたっ!」
若者は真っ赤になって逃げるように退室していった。
部屋に静けさが戻る。残されたのは、私とリルク様だけ。私はおそるおそる口を開いた。
「まさか、まだお仕事されてるなんて思いませんでした……。ほんとに、大変なんですね」
「まあな」
リルク様は深く椅子にもたれ、指でこめかみを押さえた。
「明後日――いや、もう明日か。クラウス8世の裁判の準備で、いろいろ調整が多くてな。セシルも傍聴するんだろう?」
「え、ええ……」
私は少しうつむいた。クラウス8世の裁判は公開で行われる予定で、今や国中の注目を集めていた。地方からも人々が「見物がてら」と押し寄せ、まるで祭りのような騒ぎになると噂されている。
「……気が重いな」
リルク様は立ち上がり、窓の外に視線をやった。
「今日は満月か。少し歩かないか」
私はうなずいた。そして二人で廊下を抜け、夜気の澄んだ中庭へ出た。湖のほとりまで来ると、丸い月が水面に浮かんでいた。風が静かに波紋を広げ、月がゆらゆらと揺れている。
リルク様は周囲を見回し、「誰もいないな」と小声で確かめてから、そっと息を吐いた。
「どうしても気が抜けないな。分かってはいたが――想像していたより、ずっと重い」
リルク様は遠くの闇を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。私は何か言いたかったのに、言葉が出てこなかった。ただ静かに手を伸ばし、そっとその手に触れる。
私たちはしばらく何も言わず、湖面に浮かぶ月を見つめ続けた。水面が風に揺れるたび、月が震えて、まるで心の中まで映しているようだった。
「……今日、お父さまたちがいらっしゃったんです」
「ニルヴァル伯爵が?」
「ええ、お義母さまとお義姉さまも一緒に。『宮廷に住みたい』なんて言われましたけど……お断りしました。もう一切関わらないとはっきり伝えました」
「図々しいにも程があるな。声をかけてくれたら同席したのに」
「いいんです」
私は首を振った。
「今回のことでよく分かったんです。たとえ家族でも分かり合えない人っているんだなって。相手にするだけ時間がもったいないわ。もう諦めて前を向きます」
口にしながら、自分でも驚くほど声が落ち着いていた。リルク様はにっこりと笑う私を見つめ、静かに手を伸ばした。
「悲しい時は、無理に笑わなくていい。……よく頑張ったな」
「え……」
その優しい声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
押し込めていた痛みが一気にあふれ出して、視界がぼやける。
気づけば、涙が頬を伝っていた。
(あ……私、本当は悲しかったんだ……)
リルク様に指摘されるまで気づかなかった。
諦めたつもりだった。冷たくされた過去も、愛されなかった事実も、もう受け入れたはずだった。
過去は過去だと、自分に言い聞かせてきたのに――。
(結局、あの人たちにとって私はどうでもいい存在だったんだ)
その確信が、心の奥深くを静かにえぐった。
私はリルク様の胸に顔をうずめ、声を上げて泣いた。リルク様は何も言わず、ただ私の肩を抱きしめ、背を優しく撫でてくれた。まるで赤ん坊をあやすように、穏やかに、あたたかく。
「ごめんなさい、取り乱して」
「いいんだ。きっと時間がかかるーー俺はずっとそばにいるから」
リルク様が、私をさらにぎゅっと抱きしめた。微笑もうとしたけど泣きじゃくってしまい、うまく笑えなかった。きっと今の私、酷い顔してる。
「……お母様に会いたい」
「わかるよ」
「リルク様も、亡くなったお母様のこと考えたりしますか?」
「……最近は否が応でもな」
少しの沈黙。
「……家族は居場所にもなるが――呪いにもなる。俺にとっては、ずっと後者だった」
「どんな方だったんですか?」
「母は、優しい人だったと思う。でも、多分……幼すぎたんだ」
リルク様は遠くを見るように目を細めた。
「国王に嫁いだ時は、16か17。40の男に少女が嫁ぐなんて、それだけでも十分気味の悪い話だ」
国王とリルク様の母は長らく子に恵まれず、その間にクラウス8世の母が寵愛を得た。
彼女は何としてでも正妻の座を手に入れようと画策し、リルク様の母を「夫婦関係がなかった」と讒言して、結婚を解消させた――。
そして、リルク様の母は「幻の王妃」となった。
「……そんな理屈、通るものなんですか?」
「母は20を過ぎていたからな。5年も子ができないなら、そういう“理屈”なんだろう」
「でも皮肉なことに、追放された直後に俺を身ごもっていることが分かった。半年後に俺は生まれたが……もう手遅れだった。人は見たいものしか見ないからな」
淡く笑ったその表情は、どこか痛々しかった。
「だが新王妃にもなかなか子はできなかった。3年が過ぎて、焦った親父は――唯一の子である俺を宮廷に呼び戻した」
リルク様の声が少し低くなる。
「あの女は、まだガキだった俺にこう叫んだよ。『この子はあなたの子じゃない!』ってな。挙げ句に、母は“魔女”呼ばわりだ」
「……ひどい」
「最低だろ? そしてそのすぐ直後……クラウス8世を妊娠した。俺は用済みになり、母は心労で死んだ。……で、今はその弟を廃位に追い込もうとしてる――ほんと、最高の家族だよな」
リルク様は自嘲的に笑った。
(なんて痛ましい記憶なの……。それにしても……)
私の顔を見てリルク様が言った。
「タイミングが良すぎる……か?」
「少し、そう思いました……」
「だろうな。嘘をついていたのは、俺の母じゃなく――あの女の方だったのかもしれない。だが、俺もクラウス8世も、先代の王と同じ紺碧の瞳をしている。それもまた、事実だ」
苛立ちを抑えきれぬように、リルク様は石を拾い上げ、湖面へ放った。
石は何度も水を切り、遠くで音もなく沈んだ。
「真実は――誰も嘘をついていない、なんてことかもな……そんな地獄、知りたくもないが」
先代の国王と王妃は、外征中の事故で亡くなった。
もはや真相を確かめる術はない。
「リルク様はもう、恨んではないのですか?」
「誰をだ?」
「家族を……です」
「どうだろうな。まあ、愛に満ちた家族とは程遠いな。……自分でも分からない。あいつが処刑されればスッキリするのかもしれないし――虚しくなるだけかもしれない。一つ言えるのは、早くこんな過去から解放されたいってことだ」
月夜に照らされるリルク様の表情は悲しげだった。
(クラウス8世は、どう思っているんだろう……)
私の胸の中にも、重い影が落ちていった。
――そして翌日。
運命の裁判が、始まった。




