第三十五話 想定外
婚姻の儀が行われる大広間は、すでに人で埋め尽くされていた。各国の客人たちが色とりどりの衣装を身にまとい、ここが自国であることを忘れさせるほど、国際色が豊かだ。
広間の壁には、我が国を象徴する濃い紅色のエンブレムと、アラシア国の鮮やかな黄色の旗が交互に飾られていた。赤と黄の色が視界いっぱいに広がり、見ているだけで胸が圧迫される。まるで「今日からすべては変わる」と無言で告げられているようだ――。
「見て、あそこ。アラシア国の王族たちよ」
「ほらほら、あのエキゾチックな人たちはセクタメール国の貴族じゃない? 私、けっこう好みかも!」
「なに言ってるの、あなた恋人がいるでしょ。あとで言いつけてやるから」
そんなふうに侍女たちは楽しそうに笑い合っていた。けれど、私には別の世界の話のようにしか聞こえなかった。
(なぜこんなことに……)
私は自分の腕を抱きしめた。身体を包んでいるのは、おろしたてのシルクのドレス。触れるとひんやりとしてなめらかで、裾は床にまで流れ落ち、光を受けて完璧な弧を描いていた。
これ以上ないほど上等で、これ以上ないほど美しい衣装。きっと、今の私は誰よりも輝いて見えるのだろう。鏡を見たとき、自分でさえ息を呑むほどだったのだから。
そして、私はどうしようもなく――みじめだった。
(半月前には……こんなところに座っている自分なんて、想像もできなかった……)
2階のバルコニーに用意された私たちの席は、参列者からは見えない。けれど、こちらからは広間のすべてが見渡せた。それをいいことに、侍女たちは噂話に夢中だった。
「見て、あのオーナメント! あれ、全部純金じゃない?」
「ほんと! しかも配られた記念品も見た? 一人ひとりに宝石が渡されたんですって。いったいどれほどのお金が動いてるのかしら」
神官がゆるやかに壇上へと歩み出ると、さっきまでのざわめきが嘘のようにしぼんでいった。
やがて響き渡ったのは、高らかなトランペットの音だった。黄金の音色が天井まで突き抜け、壁に飾られた旗を震わせた。
クラウス8世がゆっくりと入場し、豪奢な玉座に腰を下ろす。その存在だけで、空気が一気に重く、威圧的になった。
「これより、インテルヴィア国リアクロンビー公爵と、アラシア国ロザリナ皇女との婚姻の儀を始める!」
そう宣言すると、巨大な宝石があしらわれた杖で床を打った。乾いた音が大広間に広がり、合図のように全員が一斉に立ち上がる。
静寂が訪れ、緊張と祝福の空気が会場を満たしていった。
リルク様とロザリナ皇女が入場する――。
「ほら、セシル様も立ち上がって」
「え、ええ……」
私も立ち上がり、胸の鼓動を押さえるように両手をぎゅっと握った。
みんなが期待しているのは、華やかで神聖な儀式のはずだ。けれど私にとっては、首を絞められるような時間でもある。
そして、会場の視線が一点に集まった。
扉が開かれ、2人が入場してくるはずの場所に――。
……30秒。
1分。
やがて2分が過ぎても、誰も現れなかった。静寂はやがて、ひそひそとした小さなざわめきへと変わっていく。
「……まだか?」
「支度に手間取っているのでは」
「そんなはずは……」
クラウス8世の眉間がわずかに動く。杖がもう一度床を打った。参列者たちは慌てて口をつぐみ、再び水を打ったような静けさに戻る。
だが――扉はまだ開かれなかった。
空気がピリピリと緊張し始めるのが肌で分かった。
その時だった。
冷や汗で髪の生え際まで濡らした臣下が、よろめくように玉座へ駆け寄った。必死に息を整えながら、王の耳元へ何事かを囁く。一瞬、王の濃紺の瞳が驚きで大きく見開かれた。次の瞬間には、憤怒の色が顔を覆い尽くしていた。頬が赤黒く染まり、片手が杖をぎゅっと握りしめている。
「……どうなさったのかしら?」
私の隣で囁く声。関係者席でも空気がざわつき、侍女たちが顔を見合わせていた。やがて、事情に通じているらしい年配の侍女が、血相を変えて私たちの席に駆け込んできた。声を抑えてはいたが、興奮を隠しきれず、早口で吐き出す。
「――ロザリナ皇女がいないの! それだけじゃない……リルク様まで見当たらないって噂よ!」
「え、ええ〜〜っ!?」
「嘘でしょう!? だって式はもう始まってるのに……!」
「どうするのよ、他の国からあれだけの客を呼んでおいて……! 恥も外聞もないじゃない!」
小声のやりとりはあっという間に伝染した。
「何?」
「何かトラブルがあったみたいよ」
――断片的な言葉が飛び交い、空気が一層重苦しくなっていく。そのざわめきの渦を、クラウス8世が一喝した。
「――静まれ!」
鋭く低い声が大広間に響き渡った。まるで刃物のような声に、参列者は一斉に口をつぐみ、沈黙が戻る。
「まず、今日この日を『無事に』迎えられたことを嬉しく思う」
『無事に』という言葉が、やけに強調された。
「我がインテルヴィア国は、火の神エウルオンによって建国された。以降、歴代の王が何世紀にも渡って血と汗で領土を広げ、繁栄を築いてきた。だが今、求められるのは剣による侵略ではなく、国家間の友好と絆だ。リルクート公爵とロザリナ皇女の婚姻は、その象徴である。――さあ、盛大に祝おう!」
少しの沈黙ののち、拍手が起こり、やがて大きな歓声となった。
だが、誰もが心のどこかで同じ疑問を抱いていた。
(――ところで、その二人は?)
「この婚姻の前に、余からも報告がある」
「国際的な発展も、まずは各国が豊穣と繁栄を得てこそだ。我が王家の繁栄も、ゆくゆくは世界の発展に資するものである。この度、私は妻をとることにした。――紹介しよう。我が妻、そして我が国の新しき母となる……セシル・ニルヴァル嬢だ」
クラウス8世の指先が、真っ直ぐに私を指す。群衆の視線が、一斉に私へと突き刺さった。
「セ、セシル様!? どういうことですの!」
「わ、私も聞いてないわ……! この場で紹介されるなんて……」
「我が美しき婚約者よ、ここに参れ」
(こんなこと想定してなかったーーどうしたらいいの?)




