恋と猛毒: 後
自慢じゃ、ないけれど。
昔の私は本当に美しかったの。
人も獣も不死者も、私を見れば必ず振り返り、惚ける。魔法を使ってるんじゃないかと言われるくらいに、必ず隙を見せるくらい、ね。
でもそんなものよりも私には、誇るものがあった。それは歌。そして、声。
私の声は誰よりも綺麗だと思っていた。
この世の全て、ううん、天上も地獄も含めて、どんなものよりも。
それくらい自信はあったし、だからそれを誰かに聴かせたいと思いながらも、ずっとこの川のほとりで歌っていた。
うっとりと、聞き惚れた小鳥が枝から落ちてそのまま川に呑まれていく様が誇らしかった。木々まで心を休めて枝葉がさざめき止まる姿が私の自意識を増長させた。
この時の私は、世界で一番だったの。
なのに。
私がまた一人で歌っていた時のこと。誰かが私の声に併せて、デュエットを始めたの。
その女性の声は、私よりもずっとずっと綺麗で。夜空を衝いて耳に届くそれに、瞬間的に。ああ、敵わない、なんて思っちゃったの。
勿論、悔しくって。
この声の持ち主を殺せば、また私が一番になれる、なんてことも咄嗟に思ったわ。
だからそうして怒ってその声をした所に行ったのだけど、これにもまあびっくり。
その子は、人間だった。
人間の女の子が、泣き腫らしながら、貴女があんなに綺麗な声で歌っていた人?と聞いてきて。すっかり、毒気を抜かれてしまった。
泣きながらこちらを見る瞳。
雫になって落ちる涙。
そして、さっきに聞いた声。
ううん、毒気を抜かれたなんてものじゃない。
私はその全てに。
彼女の全てに骨身を抜かれてしまった。
私は人に、恋をしてしまったの。
その女の子は、ある日聞こえてきた私の声に惹かれてここまで来たって、言っていた。その子に届いていたのは誇らしかったし、こちらにおびき寄せるほど魅了していたことも嬉しかった。
だけど、もっともっと。正気が失うくらいに魅了したくて仕方なかったし、人の身でありながらそんな私よりも上手な彼女に嫉妬もしていた。だから、彼女に会ってからというもの、もっともっと熱心に歌うようになったの。
それからというもの、彼女も毎晩私の元に来るようになった。一緒に歌って、彼女の歌を研究して、必死に歌い方を変えてみては、「前のあなたの歌い方のほうが好きだった」と無邪気に言われて。
今思えばそんな、日々も楽しかった。
…恋をしたっていうのも、楽しかったっていうのも、今になって思い返して初めて自覚したことなの。あの時に、もっと早く気付いていれば。なんて、悔やまない日は無かったわ。
私は一度、彼女に恥を偲んで、どうしてあなたはそんなに歌が上手くなれたの、と聞いてみた事があった。
そう言うと、両手を振って、私なんて貴女に比べれば全然!と、行った。
そういうのはいいから、と強く問い詰めたら、そうしたら彼女はこう言った。
「恋をしたから。
私は、それで上手くなったよ」
それを聞いて、がっかりしたのを今でも覚えているわ。安っぽいセンチメンタルで、そんなに歌が変わるわけないじゃない、なんて。
そう思っていた。
毎晩、毎晩。彼女と私は逢瀬をしたわ。数えるのが馬鹿らしくなるくらい、ずーっと。彼女のシワが増えて、声が前よりも伸びやかでは無くなった。でもそれでもずっと、相変わらず私より巧くて、ずーっと妬き続けていたわ。
口付けや、同衾なんてこともしてみて。
人間の恋の真似事を彼女ともした。
…あら、そんなに驚く事?私たちには特に、性別なんてどうでも良いことじゃない。
まあそうしても、変わらなかった。
結局、最期まで妬いたままだった。
ええ、最期。
彼女は死んだわ。
老衰や、病死じゃない。殺されたの。
元々、煙たがられていたのでしょう。
私のような化物と交友を育んだ事。同性と、同性で情愛を育めること。きっとそういうことからずっと、彼女は疎まれていた。それが致命的なまでに露見するのは、いずれにしてもそう遠くないことだったのかも。
私が、いつも来る時間に来ないな、なんて能天気に思っていた時には彼女はもう、彼女は撲殺寸前まで私刑をされていたわ。彼女が這う這うの体で私の小屋に着いて、こんな事をした屑どもに復讐をしようとした私を、それでも彼女は止めて、言ったの。
「ここの綺麗な水を、残して」
「貴女に、そんな事をさせたくない。いつか初めて見た時に、貴女に見合うひとになりたくて、必死に歌を練習したの。だから、貴女と一緒にいれて本当に嬉しかった。あなたと、この綺麗な水のほとりで愛しあえたことが、何よりも嬉しかった」
「だから、あなたはずっと綺麗なままでいて。
あんな人たちを殺したりなんてしないで。
綺麗なままの水を、残していて」
「さよなら、私の初恋の人」
そう言って、息絶えた。
それ以降私はただ、ここのままで流れる水を浄化している。私はただ、この川のほとりを綺麗にして、あの子が言った言葉と、私の中にある美しかった情景を守っている。
それのせいで、私は美貌を失った。
あの子が褒めてくれた肌も、唇も。
それのせいで、私は声を失った。
あの子が、私を好きになってくれた歌。
あの子は、嘘つきね。
恋をしたら、巧くなるなんて大嘘。
私は恋をしたせいで、この歌を失ったの。
…
……
「……聞くに堪えない話だった、でしょ?
ありがとうね、お二人とも。
熱心に聞いてもらえて嬉しかったわ」
はっ、と。二人は正気づく。そう呼びかけられるまでその話の中にいるようだった。それは彼女そのものの語りの上手さか、ウンディーネとしての特性なのか。
「…そうか。力になれたようで、良かった」
イドはそう言うと、がたりと席を立った。
そのまま剣を背負い外していた籠手を着ける。
「行ってしまうの?」
「ああ。少しだけのつもりだったのだが、すっかり話に没入して長く居すぎてしまったよ。お前の…いや。貴女の話がとても面白かったから」
「あら、お世辞が上手ね」
「ウンディーネ。世話になった義理で言っておくが、今から俺たちは、その女性の故郷の村を滅ぼし鏖殺する。それを止めるか?」
「……」
「止めるならば、俺も貴女を殺す。
…俺なら、貴女を殺すことができる。どうだ」
「…ありがとう、優しいお方。だけれど大丈夫。私はそれでもここに居続ける。それがもう、あの子のいた最後の証だから。
私はそれになり続けたいの」
「そうか。
…なら、行くぞクシー」
「あ、うん…」
ばたん、と扉を開けて先に出ていくイド。それについていこうとして、ピタリ、と足を止める。不死者の、二人きりの空間で竜は少しだけ口を開いた。
「…ウンディーネ、さん」
「どうしたの、クシーちゃん」
「私に、あなたの気持ちがわかる時があるかな」
「わからない方がいい。
こんな、寂しい気持ちはね」
「そう、なの?」
「うん」
たった一言と、少しの頷きだった。ただその即答には、数十年も増醸し続けた後悔と悲しみと、そうした言葉には出来ないただ苦渋を煮詰めたような感情。そういったものを感じた。
「…だけれど、もし。
貴女がそうなったなら…
その時は出来ればそれを全うしてね。
それは私には、出来なかったことだから」
「……」
答えないままに、クシーも小屋を出た。
背中に手を振る気配を感じた。
…
……
もう、あの村から、水のほとりに猛毒が流れることはない。そう、遠くで青く燃え盛る火を見ながらウンディーネはまた一人で川に浸かった。そうして歌を歌った。
がらがら、と聞くに堪えない歌。
雑音にしか聞こえない、惨めな歌。
そうして彼女は涙を流す。
それでもただそうして、暫く歌っていた。
猛毒はもう、流れはしない。だけれど、もっともっと酷い毒は、とっくに彼女を蝕んでいた。
恋という、人にしか生めない悲しい毒。
不死はそれのせいで、全てを失ったのだから。
水精は、遠く遠くの蒼焔を見つめながら。
いつまでも、いつまでも歌っていた…
…
……
あの不死者は、未だあの森の奥の小さな小屋で既に亡くなった愛した者との情景を守り続けているのだろうか。そんなことを、思っていた。
忘れたことは、ない。クシーはこの時。恋という感情を、初めて知ったのだから。
このようなものを、知るときがあるのかと聞いたとき。あの老婆は私がこうなることをわかっていただろうか?そんな、気がする。
だからあんな言葉を残したのだろう。
(……全う、か)
(うん、してみせるよ。そう、する)
…これは、恋を全うしようと、彼の死を妨げて、心臓を埋め込み呪った後の、暗い洞穴での追想。彼の恋など、ついぞ全う出来なかったと知る前のその時の竜の少女の追想。




