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薄氷の日  作者: 鈴木 穂高
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短命の島


薄暗い倉庫に安置された深海魚を一目見ると、派遣されてきた助手の男はあからさまに顔を顰めて溜息をついた。

「これは…」

「どうしますか、運ぶのなら手伝います」

男はしばらく口がきけない様子だったが、再び溜息を落としてテサの提案に頷いた。

「そうですねえ、お願いしてもいいでしょうか…。トラックで来ていますからどうにか載せますが、一人では無理です」

「…やっぱり運ぶのか」

思わず呟くとテサに小突かれた。教授自ら引き取りにくるものだと思っていたが、一人現れた助手によると、どうやら本人は体調が優れないらしかった。普段ならば二、三人で来るものを、不運にも単身お使いにやらされたらしい哀れな彼は、先が思いやられるといった表情で天を仰いでいる。

「車を回してもらえますか、二人だけですけど、俺たちも手伝いますから」

テサは気の毒そうに男に声をかけた。ふらふらと外に出ていく彼を見送って首を振る。

「あの研究室はろくなところじゃなさそう。あの人、ここに着いたときから真っ青だったぜ、かわいそうに」

「好きでやってるんだろ。研究者なんてそんなものだ、自業自得ってやつ」

「いや、ライだって別に、研究者がなんたるかなんて知らんだろ」

面倒になっったウスライは、無言で肩をすくめて返事に代える。海洋生物を専門とする研究者はあまり聞かないが、島の内陸には研究施設が多い。学舎を卒業したあと、同期の多くもそのいずれかに就職したと聞くが、ウスライがその実態を知らないのは事実だった。そもそもこの島での仕事といえば、医者か研究者か、それ以外かの三択なのだ。〈その他〉の中の一つを選んで島の端に来てしまったウスライには、内陸の方のことなど分からない。防人になった以上は防人が知る必要のある事柄のみを覚え、無知なままで人生は終わってしまう。だがそれがさして重大なことだとも思わなかった。物事を多く知らないままでも穏やかに生きていけるのならば、それはそれで良いことだ。

「ライさあ、教授がなんの研究してるか知ってる?」

屈みこんでビニールシートの下の死体を覗き込んでいると、頭上から声が降った。友人の裸足の足を一瞥して答える。

「リュウグウノツカイだろ」

「研究してなんになるのかってことじゃん、聞いてみたことないの?」

視線を上げると、腕を組んで立つテサと目があった。

「ない」

「入水好きなくせに、その辺り興味ないの?」

「ないな。テサが知りたいなら自分で聞けば良い」

いや、と友人は御免蒙ると言わんばかりにかぶりを振る。

「俺の方こそ興味なんてないもん。というか俺、いまだにライの興味対象が分かんない。ただの魚だぜ、しかも死体だぜ。なーにが良いってわけ?」

何がと聞かれても、うまく説明するすべをウスライは持たない。ただ、あの奇怪な風貌の巨大魚が、湿った砂の上で事切れているのを見ると、不思議に背筋が泡立つような感覚があって、それから目が離せなくなる。ウスライにとって入水は、あの魚の自由意志で行われていることなのだ。魚が自死するかどうかという議論はさておき─。入水の現場を見る度に去来する思いを言語化するのはしごく困難だった。もちろんウスライが入水に取り憑かれていることを唯一知るテサは、そしてその理由を一向に理解できない彼は、この質問を幾度となく繰り返していて、ウスライが答えを返さないことにも慣れ切っている。だからウスライは口をつぐんで、死体を見つめるだけだ。

「あ、来た来た」

車の鈍いエンジン音を聞いて、テサが呟いた。

息もできない世界に飛び込んで自らの生を終えた彼らは、ひどく浮世離れした存在に見える。穏やかな最期ではなかっただろう。だが、いい死に際だな、ともウスライは思う。薄曇りの空の下で深い青の波のきわで、穏やかな風に吹かれてというのは。




島の人間にとって死はそんなに遠いものではなく、むしろ海の向こうの人間が考えるよりもずっと近しいものには違いなかった。島の平均寿命が三十よりも下であることは皆知っている。そしてそれが、本土に住む人間よりもずっと短いのだということも。興味もない様々なことが頭の中を素通りしていくウスライでも、それくらいは覚えている。もちろんウスライはそれを頭の片隅に留めておくだけで精一杯なのだが、島の人々にとってこれは、かなりの重大事なようだった。十年制の学舎にいる間はおよそ自由や娯楽と呼べるものがないから、規則に縛られた生活からの解放を楽しみたければ、十六で卒舎した後にどう生きていくのかにかかっている。だが言ってしまえば、ほとんどの場合、卒業した時点で人生の半分は終了しているわけなのだ。島の人間がその終りの早さに、いつの間にかやってくる死に、些か過敏になるのも無理のない話ではある。けれども同時に、島の人間である以上それに文句など言ってはいられないのも事実だった。二十四で死のうが二十六で死のうが同じ年齢で此の世を去る島の人間は自分一人ではないのだし、その数年の差に片意地をはるより、その平等性に感謝する方がよっぽど有益で平和的だ。それに第一、必要最低限の生活を営む島では、時間はあり過ぎても持て余すものでしかない。

島は退屈なところだった。学生の時も防人になってからも、ウスライはどこか物足りない思いを抱えている。学生の時は不自由さゆえに退屈なのだと思っていたが、いざその外に出てみれば、ひどく自由でも退屈なのは変わらなかった。それは日々のあいまに風通しの良い隙間があるような心地で、すうすうとした空間は例の入水を持ってしても埋めきれずに、風が吹き抜けていくのを許した。─快さよりも落ち着かなさをもたらす空虚。

倦怠に気づいているのはウスライだけではなかった。ウスライよりは多くのことに関心を注いでいるに違いないテサですらも、その点については認めていた。彼は勉学に一切の能力を発揮できなかったために、学舎での退屈な生活に倦んでいた。そしてこの友人曰く、島の人間はほとんどそうだと。

「少なくともその感覚だけはお前が人と同じで安心した」

と、しばしばテサは言った。普段の彼が語る言葉─反論だったり反駁だったり─は、ウスライの思考とはかけ離れていて、もちろんまともに聞きはしないから覚えてはいないのだが、これに関しては何度も言われたから記憶に残っている。

「生き甲斐ってもんがあれば楽しくなるんだろうかな。俺の才能が生かされるところがあれば良いんだけど」

とも、いつだったか彼は言ったような気がする。ウスライと共に防人を選んだ彼はその早寝早起きの才能を存分に生かしているから、満足しても良いだろうとウスライは思うのだが、この友人にとっては充分ではないらしい。それもなかなか贅沢な話ではある。ウスライの持論としては、自分の才能が十二分に発揮される場などそう簡単に見つかるはずもないのだから、人生の目的をそんなところに定めるのは止めた方がいい。または自分に対する期待値を下げるか、だ。

ともあれ話を戻すと、毎日物足りなさを感じている島の人々は、自分の人生が退屈なまま終わってしまうことを何よりも恐れているように見えた─これは、ウスライの勝手な私見だったけれど。つまるところ彼らは死ぬのが怖いのだ。いずれ来るものだと諦めて、人生が暇なことくらい妥協してやれば良いのに、来ると分かっているから身構えたくなるのだろうか。穴が空いているから埋めたくなるように。

島の人間同士が死について深く話さないのも、それに触れることへの恐怖が表出しているからだろうとウスライは思っていた。

すでにウスライはその埋め損ねた部分に気づかないふりができるようになっていたけれども、島の人間が考えていることも理解できないではなかった。時間切れが来る前にすかすかな空虚をどうにかして埋めようとする必死さを。畢竟、入水がなければウスライも彼らと同じ道を辿っていたかもしれないのだ。

だからと言って島の人間のように、ひたひたと近づいてくる死に対して神経質になることもない、とウスライは、それ以上彼らと死というものについて考えたことはない。多少命の期限が伸びたところで、自分を満たしてくれる何かが見つかるという保証はないのだ。



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