1、とっておきの魔術を発動したら大変なことになった
猫の爪で暗幕をちょいと引っ掻いたような月が光る夜。
とある世界の、グラフローズと呼ばれる大陸の中央に位置する王都・クーニスにある魔術学校の女子寮の一室で、ひとりの少女が床に這いつくばっていた。
大陸きっての魔術学校の生徒にはあるまじき姿だが、本人はいたって真面目だ。
真面目に、鬼気迫る表情で白墨を手に、その少女エルネスタは魔術の陣を書いていた。
陣の紋様の細かさから、正確に書くには床いっぱいを使うしかなく、そのため床に這いつくばるしかなかった。だが、ローブを引きずったり肘で擦ったりしてせっかく書いた紋様を消さないよう、実は魔術で少し浮いているのだ。
絶対に失敗するわけにはいかないから、必死だ。そのために今日まで綿密に、手間暇かけて準備をしてきたのだ。
エルネスタが必死に発動させようとしているのは、良縁を引き寄せる魔術だ。
「……風向き良好、星の位置も申し分ない。月に陰りはないから、よし」
魔術陣を書き上げ、窓の外に視線をやった。
発動される魔術によっては、天候や天体に注意が必要な場合がある。今から発動させようとしている魔術は占星術の要素を多分に含むから、これらのことを無視できなかった。
環境は整ったから、あとは魔術に使う材料に不足がなければ、問題なく発動するはずだ。
今回の魔術は難易度的な問題よりも、手間と材料費の問題のほうが大きかった。
材料のひとつである、縁ある男女を結ぶという赤い糸は自分で染めなければならなかったのだが、鮮やかな赤を出すのは本当に難しかった。
赤い花びらをはじめ、綺麗な実をつけるが毒があるヤマブドウや、果ては樹皮や野菜まで様々なものに手をつけたが、結局植物からは望む色が出せなかった。
その後、エルネスタは巷に流通する鮮やかな赤が鉱物で染められているということを知り、装備を整えて採掘へと出かけていき、何とか材料を揃えたのだった。
材料を揃えたあとも深い赤を出すために何度も染め重ねを繰り返し、ようやく希望通りの赤い糸を手に入れたのだが、その過程でエルネスタは「私って魔術師じゃなくて染物師だったっけ……?」などと目的を見失いかけることもあった。
その他の材料も、精霊の涙とも呼ばれる高価な虫入りの琥珀だったり、血で文字を彫り込んだ蝋燭だったり、満月の夜に収穫したハーブを煮出して作る香油だったり、とにかくお金か手間かがかかるものばかりだった。
普通の学生なら、金銭面か手間の面で、この魔術をあきらめたに違いない。だが、エルネスタはあきらめなかった。
なけなしのお金や貴重な時間をなげうってでも、今日の魔術は成功させたかったのだ。
「……絶対に、お金持ちで魔術も上手でイケメンな殿方と縁を結んでやる!」
鼻息荒くそんなことを言いながら一心不乱に魔術の準備をするエルネスタは、はっきり言ってイケていない。
そんな暇があるなら学生としてしっかり真っ当な魔術の勉強をするか、年頃の娘として髪や肌の手入れに励むべきだと誰もが思うだろう。
鶴嘴を背負って山へ分け入ったり、目の下に隈を作って夜な夜な床に魔術陣を書いたり、非モテ女子まっしぐらな子が良縁がどうだと言っているなんて冗談にしか聞こえない。
だが、呆れられても馬鹿にされても、彼女にはこの魔術に手間とお金をかける理由があった。
絶対に成功させる。
成功させて、お金持ちで魔術が上手でイケメンな、優しくてユーモアのセンスもあってついでに料理上手な彼氏をゲットする――そんな決意を新たに、エルネスタは呪文を唱えはじめた。
「金の星よ 赤き炎に揺れる精霊の思いよ 野を駆ける風の香と運命を結ぶ糸を導け」
この呪文すら、エルネスタが考えたものだ。
運命の相手を占うことはあっても、どこにいるかわからない望みの相手を引き寄せることなど、これまで誰も思いつかなかったことだから。
ないなら作ればいいと編み出された呪文に応え、魔術陣が光り始めた。
「……来た、来た来た!」
運命の相手が近づいてきているのか、寮の部屋全体が揺れていた。
ゴゴゴゴゴ……とすごい音がしている。
そのうちに、魔術陣だけではなく部屋自体も光り出した。
その激しい振動に、眩い光に、エルネスタは期待した。いつ相手と対峙してもいいように、慌てて髪を整える。
だが、揺れと光が収まったあとに目の前に現れたのは、人ではなく部屋だった。
「……は?」
ベッドや棚を配置していたはずの壁がなくなった向こうには、見知らぬ部屋が広がっていた。