魔法使いの鳥6
魔法使いの鳥は書き切りますが、全体として完結しない恐れがあります。ごめんなさい。
ポストを三回ノックし、王都の新聞を取り出したリノは、空を見上げた。
小さな白い塊がひとつ、また、ひとつと降ってきた。
「まあ、雪だわ。どうりで寒いはずね」
魔法使いの森にも冬が来たのだ。
リノの鞄の銀貨は昨日でちょうど300枚になった。
別れが近づいていることを知らせるずっしりと重い鞄。
それでも金貨に換算するとたった3枚。
「もっとしっかり働かなきゃ」
せめてリノに金貨30枚を払ったことを、魔法使いに後悔してほしくないと願う。
その日からリノはいつもよりもっと多くの仕事をすることに決めた。
掃除、洗濯、料理、鳥の世話に加え、森を歩いて魔法の掛かった暖石を道なりに撒き、魔法使いの衣類の綿を増やし、冬用のブーツを補修し、時間の許す限り保存食を作る。
やがて庭に雪が積もるようになった。
軒につららが垂れ下がり、暖炉にはいつも赤々とした炎が燃えはぜる。
リノがカウチに寝そべる蛙をテーブルの籠に移動し、新しく繕った冬用のカウチカバーを掛けていると、魔法使いがあくびをしながら研究室から出てきた。
「リューンさま、今日も遅いお目覚めですね」
「ん、おはよう」
魔法使いはよりいっそう研究にのめり込むようになった。
研究が進むことは喜ばしいことであるのに、リノはまだうまく喜べないでいた。
「そうだ。手紙が届いてました」
「どこ?」
リノは汚れないように棚にあげていた手紙を、魔法使いに差し出す。
魔法使いは宛名を確認すると乱雑にそれを開けた。
「ふん、くだらないな」
手紙を蛙の籠の横に投げるように置いて、魔法使いは椅子に座って頬杖をついた。
蛙はゲコと一鳴きして、手紙の上にぼとりと落ちた。
「あ、蛙さん駄目よ」
「放っておけ」
「でも、」
「いいんだ。そいつには読む義務がある」
「え?」
失言だとばかりに魔法使いは舌打ちをした。
リノは、蛙と手紙と魔法使いを順番に見て、短く息を吐き出すと、何もなかったかのようにカウチカバーを整える仕事に戻った。
そんなリノの背中をじっと見つめ、魔法使いはくしゃりと髪を指で乱した。
リノが尋ねないのならば、と、魔法使いは話題を変える。
「今日は何匹動かなくなっていた?」
死んだ鳥の話だろうと、リノはすぐに察した。
「今日は12匹見つけました」
「多いな。どこにある」
「暖炉の上の籠に」
リノはそう答え、ハンカチに包んだそれを籠ごと魔法使いに渡した。
魔法使いはハンカチを少しずらして指先で膨れた鳥の腹を撫でた。
「七面鳥はどうだ」
「元気です。王様の名前がでると耳を澄ませるような仕草をするんですよ」
「そうか、だいぶ賢くなったな」
魔法使いは愉快そうな顔をした。
「王都は華やかですね。まるで別の国の話のようだわ」
雪が降ったからだろうか。
捨てた故郷の貧しさを思い出し、リノは胸を痛めた。
暖かな部屋と柔らかなベッド、空腹に悲しむことのない今の生活こそ、おとぎ話のようではないか。
「全部、夢なのかしら」
「現実だ」
短く答え、魔法使いは深い溜息を吐いた。
「私には人間の考えていることはよく分からない。だが、お前と暮らしてみてひとつだけ分かったことがある」
いつになく真剣な声音にリノは驚いた。
魔法使いは振り向いたリノの瞳をじっと見つめ、言った。
「腹が減るのは、とても悲しいことだ」
リノはごくりと唾を飲み込んだ。
「そう、ね。その通りだわ。本当にそう。お腹が空くのはとてもとても悲しいの」
優しい魔法使いと出会い平穏な毎日を過ごすうちに、リノは忘れていた、いいや、忘れるように努めていたあの悲しい日々が鮮烈に蘇ってきた。
華やかな王都は現実で、飢えに苦しみ娘を人買いに売る日常も現実なのだ。
リノの大きな瞳から涙がぽろぽろと溢れ出した。
しゃくりあげながらリノは誰に言うでもなく、言葉を吐き出す。
「私、毎日、毎日、食べ物を探していたわ。考えることは、お腹が空いたなあってそれだけ。食べ物がなくて、食べられるものはなんだって食べてたの。風邪をひいても薬がないの。だってお金がないんだもの。売るものがないからよ。友達が売られたわ。最初は女の子。女の子がいなくなったら男の子を売るの。売る子供がいなくなったらどうなるの。雪が、雪が降ってきたの。冬がきたのよ」
だらりと寝そべるばかりだった蛙が身を起こす。
リノはエプロンで涙を拭った。
窓辺に寄って、空を見上げる。
「ねえ、リューンさま。馬鹿だったわ、私たちみんな食べてしまったのよ。芽吹くものがなくとも、春は来てくれるのでしょうか」
「来る。誰も望まなくとも春は来る」
「それは本当に春なのでしょうか」
「人間の言うことは難しいな」
やはり人間の考えることは分からない。
そう呟いて、魔法使いは動かぬ鳥たちを籠ごと暖炉にくべた。