魔法使いの鳥5
「美味い」
「ありがとうございます、魔法使いさま」
一か月たったある日の夕食、リノは初めて魔法使いに食事を褒められた。
食えるとか、まあまあだなとか、悪くないとか、そういう言葉を掛けてもらったことはあったが、美味いと褒められたことは初めてだった。
リノは手のひらをぱちんと合わせて喜んだ。
「書庫の整理をしていたら、植物について書かれた本を見つけたのです。台所の棚にある瓶の中身と照らし合わせて、少しずつ味や効能を覚えました。そして一昨日とうとう料理について書かれた本を見つけたのです。知らない単語も多くて、読むのに少し時間がかかってしまったのですが、今日の鶏肉のシチューはその本に書かれていたレシピを参考にしました。明日の朝は……、あっ、ごめんなさい。私、嬉しくてつい……」
魔法使いはシチューを食べていたスプーンを、カチャンと皿のふちに置いた。
リノは喋り過ぎたことを後悔した。
怒らせた、と思った。
書庫を整理するように言われたが、鳥に読み聞かせる以外の本を自由に読んでよいと許可を得たわけではないと思い出したのだ。
魔法使いはシチューにむけていた訝しげな視線をリノにうつし、不機嫌そうな声音で言った。
「お前、まさか私の鳥小屋の鳥を使ったのではないよな?」
「まさか!ちゃんと言われた通り、あなたが森の中に仕掛けていた罠に捕まった鳥を使ったわ」
「ならいい。私の鳥を食ったら、分かってるな」
「ええ、そんなこと絶対にしないわ」
魔法使いは僅かに表情を緩め、またシチューを食べ始めた。
料理が美味くても、不味くても、魔法使いはリノの料理を残したことはない。
交わす言葉は少なくとも、リノは魔法使いに心を許し始めていた。
(悪い人じゃないわ。彼は、悪い魔法使いじゃない)
確信と、けれど少しの緊張とともに、リノは魔法使いに尋ねた。
「私、やっと気づいたの。あなたが私に書庫の整理をするよう言いつけたのは、私のためね?」
少しの間を置き、魔法使いは答えた。
「自惚れるな」
らしくなくシチューをガツガツと口に掻き込む魔法使いの頬が赤く染まっていた。
リノの胸にも、小さな小さな火が灯る。
「ありがとうございます、魔法使いさま」
「リューンだ」
「えっ」
「私の名だ」
「リュ、……リューンさま」
「そうだ」
魔法使いは大きく一つ頷いた。
そうして皿に残ったシチューをパンで器用にすくって、ぽいっと口に放り込むと、もごもごと咀嚼しながら、逃げるように研究室に早足で消えていった。
カウチでパンを齧っていた蛙が、ケケケと愉快そうに鳴いていた。
✳︎
次の日、魔法使いはリノに新しい仕事を与えた。
「リノ、今日からここの鳥の世話も頼む」
第二の鳥小屋だ。
畑の奥にある硝子張りの鳥小屋ではなく、魔法使いの研究室の地下室にある鳥小屋。
一定間隔に置かれた蝋燭が足元を照らす、レンガの螺旋階段を下った先に、その部屋はあった。
20m四方の広い部屋の床はなぜか草原で、壁に這う蔓草にまるで森のなかのような錯覚を覚えた。
太陽の光の代わりに天井には大小様々の星がぶら下がり、青い羽の蝶々がひらひらと舞っていた。
その部屋の主というのが……、
「まあ、七面鳥ね。美味しそう」
「絶対に食べるなよ」
「ごめんなさい」
魔法使いの冷めた視線に、リノは首をすくめた。
七匹の七面鳥がカウカウ、カウカウと鳴いている。
「こいつにも、本を読んでやってくれ。鳥籠の鳥には詩集を読んでると言っていたな」
「ええ」
「なら、こいつには新聞を読んでやれ」
「新聞…ですか……?」
「ああ、ポストを三回ノックして開けると王都の新聞が入ってるから、それを使え」
鳥に本を読み聞かせる意味。
ポストに掛けられた魔法。
食べてはいけない鳥たち。
消えた先代の王様と魔法使いの家に住み着いている蛙。
それに、魔法使いが寝食を忘れて取り組んでいる研究。
聞きたいことは山ほどあった。
その全ての疑問を飲み込んで、リノは返事をする。
「分かりました」
雇い主と、使用人。
一週間で銀貨20枚。
普通に働けば、その半分の賃金をもらえるかどうか。
踏み入らないからこそ、この平穏が保たれていることをリノは知っていた。
踏み入らない分別を、リノはとっくに身につけていた。
研究が終わればリノは魔法使いの元を去るのだ。
「リノ」
思いのほか優しい魔法使いの声に、リノははっと俯いていた顔を上げる。
魔法使いは少し首を傾げて、リノに尋ねた。
「なあお前、どの鳥が欲しい?」
にやり、と笑う。
魔法使いの森色の三つ編みが、はらりと肩を流れ落ちた。
「あの、仰ってる意味が……」
「美味そうだといったじゃないか。研究が終わったら、一匹やる」
「私はもう金貨30枚を受け取っています」
「餞別だ。研究が完成した祝いに、腹いっぱい食わせてやるよ。肉ほ好きだろう?」
しめつけるような胸の痛みに、リノは気付いてしまった。
「研究は、進んでいるのですか」
「上々だ。私は天才だからな」
「ふふ」
「笑うな」
魔法使いはリノの心に気づかない。
「リノ、一番大きいのを選べよ」
「えっと、じゃあ、あの鳥」
魔法使いはリノが指さした七面鳥の足首に、目印となるリボンを巻いた。
魔法使いの髪と同じ、森の色のリボンだ。
「なあリノ、もし研究が終わったら……」
「終わったら?」
魔法使いは、言葉を選ぶように唇を開いては閉じ、最初に浮かんだ言葉とは別の言葉を吐き出した。
「腹いっぱい食わせてやるから楽しみにしていろ」
「楽しみです」
魔法使いは笑う。
リノも笑う。
魔法使いはリノの心に気づかない。
リノは魔法使いの心に気づかない。
よく見れば七面鳥は色とりどりの瞳をしていた。
それらは星の光を反射して七色に光る。
きらり、きらりと。
まるで宝石みたいだとリノは思った。