6.「恋?」
ホームセンターでの一件以来、自宅から双眼鏡を使って舞島をのぞく習慣がついた。
まさか三原市木原の高台から舞島がすぐ手の届くところにあったなんて、いままで気にもかけなかった。
子供のころから見てきた、なんの変哲もない小島に由緒があり、ましてや初恋の相手が半年前から住んでいたなんて、世間は狭いものである。
夜、二十一時すぎ。明日は五月四日のみどりの日。『Charment』は休みだった。
だだっ広い空。雲間から白い月が顔を出した。なんてシャイな満月だろう。
一面に星々がばらまかれていた。空のど真んなかを、天の川がアーチをかけている。流れ星が尾を引きながら夜空に斜線を描いた。空気が澄みきっていた。
二階の烈子の部屋から、こっそり監視する。昔、父がミリタリーショップで買った高性能の双眼鏡。はるか五〇〇メートル先までターゲットを捉えることができるのだ。三脚を据えて固定し、手ブレを少なくする。
レンズのなかの是孝は掘っ立て小屋に閉じこもっていた。
ちょうど真正面に窓が見えた。ランタンの灯りだけを頼りに、本を読んでいる顔が見える。見えるといっても、ぼんやりと、かろうじて是孝本人であるとわかるほどの不鮮明さだ。さすがに本のタイトルまでは判別できない。
テーブルに両脚を乗せ、椅子にそり返った姿勢で読書に没頭している。
いささか行儀が悪かった。いかにも彼らしい。
たっぷり時間をかけて熟読し、ページをめくる。紙と紙がふれあう、ひそやかな音まで聞こえそうだ。
是孝の夜はこうしてすぎていく。
たったひとりの島での時間は、さぞかしゆるやかに流れることだろう。
深夜十一時をまわったところで灯りは消える。これもパターン化していた。はたして彼は、すぐ眠りに入ることができるのか。
烈子はため息をついた。
彼はなにを思って舞島に引っ込んでしまったのか。究極の引きこもりライフを送るからには、いったい東京でどんなつらい体験をしてしまったのだろう?
――これではあきらかにストーカー行為だ。わかっていながら、どうしようもない。レンズごしに声をかけても、思いは届かない。彼と同じ時をすごしても、同じ空間を共有したことにはならない。
烈子は接眼レンズから眼を引きはがすと、身体をベッドに投げ出した。
是孝は太陽がのぼると、赤い屋根の、バラックみたいな掘っ立て小屋から姿を見せる。きっかり七時。
そして気のない準備体操をしたあと、一日の仕事がはじまる。
まずは散歩がてら、猫の額ほどの畑を見まわる。
どうやら昨日、水谷が余談にあげた映画、『裸の島』同様、畑にはサツマイモの苗を植えつけしたようだ。
サツマイモはやせた土地でも元気に育ち、栽培もかんたんだと父は言っていた。それに収穫したあと、うまく貯蔵すれば長期間保存が利く。
このところ定期的に雨も降っているので、水やりも楽なはずだ。
映画の舞台となった宿禰島では、夫婦は本州に渡り、水桶で水を汲んできて畑にわずかばかりの水をやるシーンがある。舞島ではどこかに雨水をたくわえる池でもあるらしく――双眼鏡で見るかぎり、池の場所は特定できない――、是孝はそこから水桶で汲んできてまいている。それに畑の広さもたかだか知れているので、いくら原始生活にひとしい環境とはいえ、激烈な肉体労働を強いられるわけでもあるまい。
是孝は畑の手入れがすむと、釣竿をかついで島の西側に向かい――つまり、烈子の眼から見て右側――、なだらかな斜面をおりていく。端は磯になっているのだ。
畑をほじくって取ったのだろう、なにかの虫を針に引っかけ、大海に向けて竿をさし出す。
なんとなく釣り糸をたらしておけば釣れるものではない。
魚との駆け引きをしないといけないのに、竿をななめに固定したまま、うららかな日を浴びながら、文庫本と取っ組む。釣りに不向きな性分のようだ。
いつしか寝そべり、本の方に気を取られる。釣りが完全におろそかになってしまう。そんなわけで、彼の食卓に魚がならぶことはめずらしいはずだ。
太陽が輝き出すと、熱で大気が揺らぐせいか、双眼鏡は安定して像を結べなくなる。それで烈子はあきらめ、一階におりることにした。
店が休みなので、烈子はリビングでくつろいでいた。さっき食べたセロリサラダの、ツンとした香りが残っていた。
父も朝のニュースを観ながら羽をのばしていた。
外は気持ちいいぐらい晴れ渡っていた。さわやかな風がレースのカーテンを揺らしていた。遠くで潮騒のささやきが聞こえた。
「せっかくだからさ、外でお茶、しない?」
と、ソファベッドでスマートフォンを触っていた烈子は、誰にともなく提案した。
対面キッチンの向こうで洗い物をしていた母が顔をあげた。
「それもそうね。こんな天気なんだから、もったいない。だったらハーブティー、作ろっか。いっそのこと、コリアンダーティー」
「いいね。だけど、僕はビールをいただきたい。苦言を呈するようだが、お母さんの作るハーブティーだけはこりごりだ」と、熊みたいな体格の父が、髭のなかにかくれそうな口を開いた。「コリアンダーティー――あれはカメムシのにおいと、おなじ成分なんだぞ。知ってた?」
母は壁時計を見て、
「午前九時にビールだなんて、けっこうなご身分ですこと」と、腰に手をあてて、あきれた口調で言った。「失礼な人ね――パクチーの香り成分には、ゲラニオール、リナロール、ボルネオールという成分が含まれているのです。これら三つに共通する効能には、胃腸の働きを助ける作用があるのです。またゲラニオールには女性ホルモンであるエストロゲンの働きを高める作用もあって、ホルモンバランスを正常化する効能と、更年期障害の予防効果も期待できるのです」
「お母さん、カンペ貼ってあるじゃん、冷蔵庫に」
「バレましたか」
「キンキンに冷えたビールも、たまにはいいじゃないか。せっかくのゴールデンウイークなんだし。そんな気分なんだ。――そら、みんなで庭に出ようぜ。芝生に行こう」
と、父は言って、新聞を折りたたみ、立ちあがった。バミューダパンツ姿。すね毛の生えたたくましい脚が見えた。
「連休の真っただ中だっていうのに、家族サービスもできないくせに」
母は唇を尖らせて文句を言いながら、冷蔵庫を開け瓶ビールを取り出した。職場の同僚たちと、二晩連続で麻雀していたのを責めているのだ。
「次の土日で埋め合わせするから。誓うよ」と、父はサッシ窓を開け、ふり返りながら言った。「ほら、烈子、来い」
烈子はうつろな表情で、「恋?」と返答したあと、「……なんで、お父さんまでわかんの?」と、言って眼を白黒させた。
「はン?」
と、父はまじまじと一人娘を見返した。
「なに言ってんの、れっちゃん」
母はキッチンでふしぎそうな顔をした。
外に出れば、ウッドデッキが大きく張り出し、アカシア材のチェアとテーブルが置かれていた。オープンテラスを模していた。
ウッドデッキの下は、芝生を敷きつめた庭が広がっていた。緑がまぶしく、短く切りそろえられていた。
レンガを積んで手作りされた花壇。色とりどりの季節の花。
その頭上をライラックの木々が取り巻いている。さらにその外側を白い柵でぐるりと囲ってあった。
光が差し、なにもかもがきらきらしていた。まさに楽園を切り取ったような空間だった。
高台なので瀬戸内の海が一望できた。眼のさめるような紺碧が、光を照り返していた。
はるか遠くの沖合からは、波のうねりが襞のように、幾重にも押し寄せていた。
単調な潮騒の調べ。
風には潮の匂いがこめられ、ライラックの香気と重なり、陶然となりそうなそれへと変化する。
この庭は烈子にとって、もっとも安らげる場所だった。
親子三人は、ウッドデッキからチェアとテーブルを芝生の上におろした。庭の端まで運んだ。
左手に岩子島が見渡せた。やや右に細島が、文字どおり細長い身を横たえている。そのうしろには因島の灰色の島影が見えた。そして細島より本土側に、舞島が浮かんでいた。
愛しの舞島。
ここから見おろせば、驚くほどちっぽけだった。島のいちばん高いところに、赤い屋根の小屋と、畑が見えた。是孝の姿は肉眼では確認しかねた。そもそも死角に入ってしまったか。
行儀が悪い。チェアに馬乗りになった烈子が舞島を指さして、こう言った。
「お父さん、あそこの島について教えてよ」