4.「おれだけの楽園」
「ほんッとうに、ほんッとぉに、この黒い車の持ち主じゃないんですか?」
「しつこいな、君も。この貧しいナリを見ればわかるだろ。こんな高級車を乗りまわすような身分じゃない。この店へは、歩きで買い物に来ただけだ。たまたま駐車場を横切ろうとしたら、アタフタしてる君を見かけ、助け舟を出そうとした。それだけさ」
と、青年は両腕を広げて言った。たしかに車で乗りつけたなら、わざわざ兵士が背負うようなリュックサックは身につけまい。
「助けてくれるんですか」
「むしろ、助けて欲しいのか、欲しくないのか」
「だったら助けてください」と、烈子はふるえる声で言った。季節はずれの雨は冷たすぎて、骨の芯まで凍えるようだった。歯の根があわない。「だったら、車のキー、貸します」
青年は烈子がさし出したキーをひったくった。
「まかせな。たぶん大丈夫だ。きっとうまくいく」と言い、キーを使って運転席にもぐり込んだ。背が高すぎて天井に頭がつきそうなため、さぞかし窮屈なことだろう。すぐに助手席側のパワーウィンドウを開け、身をのり出してシートを叩いた。「ボサッと突っ立ってないで、こっちに乗ってなよ」
「でも、外で誘導した方が」
「君みたいな女の子の誘導なんか、あてにしてない」
「ひどい」
「そんなんじゃなく、いつまでも雨に打たれてたら寒いだろ。とりあえず屋根の下に避難しな。どうせ君の車なんだし」
烈子はそこまで言われて気分を害したが、寒いのは事実だった。とくに反論せず、彼の言うことにしたがった。彼なりの、不器用な気の利かせ方だと思うことにした。
助手席側のドアを開け、シートに座った。水びたしになってしまったものの、この際しかたない。
烈子がドアを閉めると、青年はものも言わず、車をスタートさせた。
いったん真ん前を阻む外車すれすれまで寄せたあと、ハンドルを切ってバックさせた。
青年は上半身を回転させ、後方を見ながら右手だけでハンドルをあやつった。
そのとき、左腕をのばし、助手席のシートのヘッドレストに大きな手をそえた。
烈子の顔のすぐそこに、青年の広い胸がせまる。
ほのかな体臭がした。悪くない甘い匂い。脇の汗のそれまでかすかにしたが、不快ではなかった。
烈子は思わず顔を伏せた。
青年は気にするそぶりも見せず、車を脱出させるため、ハンドルを切り返すことに集中している。
さっきは生気のない無表情だったが、いまは車を接触させないように真剣になっている。まばたきすら控えているようだった。眼が凛々しい。
細長いが、たのもしい男の腕。
ハンドルさばきも手慣れたものだった。女性の牽引さえ、うまくさばいてくれそうな心強さとしなやかさを兼ねそろえていた。
何度か切り返したあと、うまい具合にコンパクトカーが、左隣りの乗用車と外車のすき間に対して正面をとらえた。
そのあいだを、そろそろと、慎重に抜けていく。
両サイドに飛び出たミラーが接触するかと思いきや、いざすき間を抜けると、一〇センチはゆとりがあった。
「ほら、うまくいった」
青年は言い、大きくため息をついた。
窮地から愛車を救ってくれた瞬間、烈子は思わず拍手したほどだった。
「ありがとうございます! あなたのおかげで脱出できました」
と、鼻声で言った。
車を安全な場所まで退避させたあと、パーキングブレーキを踏みこんで停車させた。
いつの間にか、雨は小降りになっていた。
「落ちついてやれば、君にだってできたはずだ。わざわざ、おれがやるまでもない」
「私がやってたら、あの黒い車にぶつけてたかもしれない。そしたら、あの客とトラブルになってたかも」
「いまごろ、保険会社の世話になってたかもな」
「ほんッとに、ありがとうございます」
「車両間隔をマスターするなら、どこか広い場所でコーンを立てて練習するとか、いろんな方法がある。どれぐらいまで幅寄せやバックができるか、めんどうだが、いちいち降りて眼で確認した方がいい。一人前に乗りこなすには、それなり訓練して、身体で憶えることだ。女の子はどうも、実地で憶えようとするからいけない。そんなんじゃ、いつまで経っても上達しない」
ややもすれば耳の痛い説教に、烈子は鼻白んだ。
とはいえ、言うとおりだった。車を買ってから、自宅の近所で三度も脱輪させるなんて、学習能力がなさすぎる。それを告白すると、話がややこしくなるので伏せることにした。
「すみません。二度とこんなことにならないよう、頑張ります」
「今回の件は、あんな場所に停めた外車の奴が悪いんだがね。あんなのはレアケースだ。君の車が小さいんで、見くびったのかもしれない。店からドライバーが出てきたら、思いっきりどやしつけてやりなよ。それぐらいの権利はある」と、青年は背後の外車を親指で示した。「……それより、運転かわるよ。そろそろ行かないと」
「せっかくだから、なにかお礼させてください。それにずぶ濡れになってるし」
「礼ならいいって。ずぶ濡れなのは、尾道港から歩いてきたからしかたないとして、どうせこれから買い出ししなくちゃいけないんだ。店は嫌がるかもしれないが。……まさか、服、乾かせてくれるとか?」
「お時間かかりますが、クリーニング代ぐらい払います」
「よせよ、柄じゃない。このままでいい。たまのゲリラ豪雨に打たれるのも悪かないさ。ひとっ風呂浴びたようなもんだ」と、青年は言って鼻をすすった。「ほかにも用事があるんだ。待ってられない。いろいろと忙しい身でね」
烈子はティッシュ数枚を抜いた。渡しながら、
「港に車、停めてきたんですか? せっかくだから、ここまで乗ってきたらよかったのに」
「そうじゃない」青年はためらいもせず、鼻をかんだ。ティッシュをまるめると、烈子が受け取ろうとしたが断り、ブルゾンの胸ポケットにねじ込んだ。「……そもそも、おれ、地元の人間じゃないんだ。東京にいたときは免許持ってたけど、車も買えないペーパーだった。渡船でやってきたんだ。便に乗り遅れたらいけない」
「東京から越してきたんですか。渡船? 向島か、佐木島か、どこかの島に住んでいらっしゃるんですか?」
「おいおい、誘導尋問か。せっかく助けてやったのに、なんで住所まで言わなきゃいけない」
と、青年は暗い眼をしてつぶやいた。
烈子は越えてはいけない部分に触れてしまったのかと思い、気持ちを制した。たしかに窮地を救ってくれた恩人とはいえ、気安く住所まで聞くべきではない。
東京から尾道にやってきたのは、訳ありのような気がした。
なにかやましい過去を背負っているのではないか。
暗い顔つきに似合わず、口数こそ多いものの、一瞬たりとも笑みを浮かべなかったし、生きていることの充足感が欠けるような気がした。若々しさを放棄したような自虐性を漂わせていた。
「島は当たりだ」と、青年はフロントガラスの方を向いたまま言った。横顔には孤独を好む者の翳りがさしていた。それにしても大きな耳だった。まさしく車のミラーのように真横に張り出し、ファンタジー小説に出てくるエルフみたいに尖っていた。「舞島って無人島だ。無人島ってったって、おれが住むことによって、有人島になったわけだが」
「舞島? そんな島、あったっけ?」と、烈子は言った直後、思いなおし、うつむいた。「……舞島、どこかで聞いたような気もする」
「岩子島のすぐ隣りにある。渡船でいちど因島まで渡り、乗り換える必要がある。そこから地元漁師の船に乗っけてもらい舞島に行く。ちっぽけな島さ。おれだけの楽園。おれはそこで島の管理人になったんだ。尾道市役所の観光課が募集しててね。おれが、いの一番に飛びついたってわけ」
「尾道市役所観光課? ……ウソ。私のお父さんがそこで係長、してるんです」
「なんたる奇遇。ふしぎな縁を感じるなあ」と、青年は眼を大きくして言ったあと、ドアを開けた。「なんにせよ、そろそろ行くよ。買い出ししなきゃ。君も気をつけてな。……シート、濡らしちゃったのはカンベンな」
青年は車から降りると、そそくさと立ち去った。たしかな足取りで、ホームセンターの方に歩いていく。ふり返りもしなかった。
烈子も車外に出て、彼を見送った。なす術もなかった。結局、名前も聞き出せなかった。
そのころには雨もやんでいた。それどころか、雲間からせっかちな陽光がさし、虹まで現れていた。
これが是孝との出会いだった。




