3.是孝との出会い
「一九六〇年、つまり昭和三十五年でしたか。『裸の島』という白黒映画が公開されました。日本映画です。乙羽 信子主演でした。ロケ地は、この瀬戸内の海にある宿禰島――奇しくも、れっちゃんが気にかけている舞島と、ほんの三キロと離れちゃおりますまい。もしかしたらあなたの自宅からでも見えるのではないでしょうか――。この『裸の島』では、孤島を舞台に、自給自足の生活をする四人家族の生きざまを描いております。五〇〇万円の低予算で製作されたにもかかわらず、作品はモスクワ国際映画祭グランプリをはじめ、ベルリン映画祭セルズニックにおいて銀賞を受賞し、世界六〇ヶ国以上で上映されました。まさか、ご近所に映画のロケ地に選ばれた島があったなんて、ご存知ありませんでしたか?」
烈子はモップを持ったまま頭をふった。
「……いえ、ちっとも知らなかったです。失礼ですが、乙羽さんっていう女優さんも知らない」
「そんなものでしょうな。れっちゃんが生まれる三十七年前の映画です。話をふった僕が愚かすぎました」と、水谷は天井を仰いで、パイプをさし出した。「この『裸の島』なんですが、乙羽 信子扮する夫婦らが、島で苦難の暮らしを強いられています。作中では島守、というニュアンスとはちがうかもしれませんがね。サツマイモの苗を植え、水をやるために、わざわざ本土へ舟で渡り、桶で水をくんできて、天秤棒を担いで行き来する姿が描かれています。筋の大半は、こんな不便な生活を描いているわけです」
「それはそれは、ご苦労なことで」
「見ているだけで骨が折れそうな暮らしなのです。そこに夫婦を不幸のどん底に陥れる事件が起きるわけですが――まあ、映画の話はこれぐらいにしておきましょう。すっかり脇道にそれてしまいました」
「つまり、舞島に住んでる是孝さんも、たいへんってわけですね。――でも、なんでわざわざ、島守の役目なんか申し出たんでしょう?」
「れっちゃんが是孝なる青年にご執心なのはいやでもわかります。あなたは正直な娘さんだ。だからこそ、店員として雇ったのですが」水谷は言うと、やおら立ちあがり、腰に手をそえ、身体を反らした。七十前にしては、背筋がしゃんとし、丈の高い人だった。「いまどき島守の役を買って出るとは、なんらかの深い事情があると見えますね。島にあがってしまえば、完全に孤独です。あえて独りになることを選んだとなると、よほど人と関わりになりたくないほど、辛いできごとでも経験したのかもしれませんね」
「はじめて是孝さんを見たとき、思いつめた表情をしてました」
と、烈子はレジスターのまわりを雑巾でふきつつ、彼と出会ったときのことを思い出していた。
あれは忘れもしない。劇的な事件だった。
◆◆◆◆◆
まさか雨に祟られるとは思わなかった。
二週間前のことだった。母に頼まれ、烈子は一人でホームセンター『ユーポー尾道店』を訪れたのだ。
ガーデニング用の剪定バサミや左官の道具、家庭セメントなどの買い物をすませたあと、カートを押して店外へ出るなり、驚いた。
どしゃ降り。
降水確率は0パーセントだったはずだ。天気予報士に裏切られたと思った。
来たときはカラリと晴れあがった空だったのに、上空は曇天がたれこめ、視界をさえぎるほどの烈しい雨が降り注いでいた。駐車場のアスファルトは飛沫で白く煙っていた。
雨のなかを愛車まで走るべきかどうか迷った。
しかたない。
セメントは濡らさない方がいいだろうが、ビニール製の袋に真空密封されているので、急いで車のハッチバックに積めば問題なさそうだ。
小降りになるまで待ってもよかった。
それとも店に戻り、傘を買おうかとも考えた。
早く家に帰り、レンタルショップ『GEON』で借りたブルーレイディスクを観たかった。海外ドラマのシリーズもので、休日のあいだにどれだけ消化できるか、烈子のなかで流行になっていたのだ。
それに飽きれば、部屋の模様がえをしたいと思っていた。かなりの重労働となるだろう。後手にまわれば、夕飯の時間になっても片付いていないかもしれない。――時間が惜しかった。
やっぱり、待ってはいられない。
店の入り口で深呼吸した。
烈子の眼は大きかった。二十一にしては、幼い顔立ちをしていた。身長も一五三センチしかない。
いささか前髪が切りすぎて、おでこが全開だった。このパッツンした前髪が烈子のトレードマークだった。
「ええい、行っちゃえ!」
烈子は言うと、雨のなかを飛び出した。名は体を表すではないが、思いきりがよかった。それゆえに失敗も多かったが――。
駐車場のなかほどまでカートを押してダッシュしたはいいが、途中で異変に気づいた。
思わず悲鳴をあげた。
広い駐車場の真んなかに愛車を停めていた。なのに、たいへんなことになっていた。
両隣りにも客の車で埋まっており、それだけならまだしも、あとから店を訪れた誰かが停めたのだろう、烈子の車を封鎖する形で、真ん前にも黒い外車が横付けされていたのだ。
車高は低く、ガラスにはスモークが貼られ、内部はほとんど見えない。
まるで獰猛なドーベルマンがうずくまっているようにも見えた。
今日はセールの日だったので、駐車場は満車の状態。
白線を引いたエリアの内側に停車させるべきなのに、堂々と人の車の前に停めるなんて、どうかしている……。
バックさせようにも縁石があった。仮にそれをかわしたとしても、後方も車でふさがっていた。
烈子の車は閉じ込められたも同然だった。
――が、よく見れば、真ん前をさえぎる外車の左には、わずかにすき間があった。
どうにかハンドルを切り返せば脱出できなくもない。
曲がるときは、よほど気をつけないと、左の車のバンパーにぶつけてしまうか、さもなくば、件の外車の尻に接触してしまう恐れがあった。
烈子の運転技術では、難易度Sクラスの難しさに思えた。いくら女の子向けのコンパクトカーとはいえ、車幅感覚がおぼつかない。
いますぐ店にとって返そうか?
外車のナンバーを店員に告げ、店内放送でドライバーを呼び出し、どけてもらうべきではないか。
烈子はすっかりずぶ濡れになっていた。前髪が額に貼りつき、メイクも台無し。下着のなかにも冷たい水が染み込んでいくのがわかる。
いまさら店に入るのもためらわれた。
薄手の白のブラウスをつけていたので、インナーが透けて見えるのが恥ずかしいし、濡れ鼠となって店員に泣きつくのも、それはそれでぞっとした。
藪から棒に、空が紫色に光った。爆音が響きわたった。
「わッ!」
季節はずれの雷に、思わずしゃがみ込んだ。
と、そのときだった。烈子の背後で、
「どした」と、低い男の声がした。
とっさにふり向いた。
トーテムポールそこのけに背の高い青年が、傘もささず佇んでいた。
深くえぐれたVネックのシャツの上に、丈の長い野暮ったいミリタリーブルゾンを羽織っていた。
どこか思いつめた顔をしているのが印象的だった。彼はリュックサックを背負っていたが、見えざる重い十字架まで背にしているようにも見えた。それほど深刻な顔つきをしていた。
目もとが一重で、いささか生気に欠けた。ありふれた往来ですれちがえば、とっさにふり返るようなイケメン男子ではない。しかし誠実で、知性のきらめきを感じさせた。
だまされてはいけない。――烈子は、もしやと思った。
「ひょっとして、この車の持ち主ですか?」
烈子は硬い声で、黒い車を指さした。もしそうなら、ありったけの敵意をぶつけてやる。
「まさか。おれは歩きだよ」と、ずぶ濡れの青年は言った。とっさに嘘をついたとも思えない。烈子に睨まれ、思わず眼をそむけた。そむけた拍子に側頭部が丸見えになった。もみあげから下を、剃りあげたテクノカット。また烈子を見おろした。身長差は四〇センチはありそうだ。異世界からやってきた人種のようだ。「それ、君の車か? 見たところ、この黒いのが邪魔になって、出るに出られないってわけらしいな。どこにでもマナーの悪い人間がいるもんだ。……よかったら、おれが出してやろうか? 切り返しに失敗すれば、この外車にぶつけちゃって、あとでエラい目にあうかもしれない」
「あなたなら、できるって言うんですか?」
「少なくとも、君よりかはマシだと思う。この幅なら、なんとかなりそうだ」




