14.晴れのち豪雨
『Charment』での一件以来、水谷は少なからずショックを引きずっているようだった。
店が繁忙期のときこそ表情も明るく、客に接しているが、客足が途切れたとたんロッキングチェアに身を沈め、憂鬱そうに床ばかり見つめた。
烈子だって店で二人きりでいると、会話が続かなくなり、気づまりすることもあった。ましてや今年の五月は雨が多く、そんな暗い時間は長く続いた。
毎月の売り上げは、ハロウィンやクリスマス商戦をのぞき、トントンか、やや黒字だった。とはいえ、尾道にはインテリアショップをふくめた他店の雑貨屋がひしめいていたので、枕を高くして寝られるほど安心していられなかった。この業界は現状維持していくだけでもたいへんなのだ。
店主の水谷にとっては、人生に潤いをもとめるべく道楽で経営しているようなものだった。
このまま元気を取り戻さなければ、いっそのこと店を畳もうと言い出すのではないか、烈子は気が気じゃなかった。
◆◆◆◆◆
そうこうするうちに、五月中旬のある日――。
閉店後、水谷に呼ばれ、苦しい胸の内を打ち明けられた。
自身が長年、トランスジェンダーで悩んできたこと。心は女であるのをひた隠してきた。烈子にはいずればれるにせよ、極力知られたくなかった。求める相手は若い男であり、性行為をするときにおいては、男役になったり、女役も演じることができたという。
烈子には、複雑な世界すぎて、頭がこんがらがりそうだった。
とにかく、気落ちした水谷が回復するには、まだ時間がかかりそうだった。
梅雨でもないのに、雨がよく降った。
『Charment』は長雨の特別企画として、コーヒーとラッピングの無料サービスを打ち出した。ふだんは有料のラッピングサービスは、ラッピングコーディネーターという資格をもった者が手がけるのだが、長雨が続いたときのみ、有資格者の烈子が丹念に包装した。
また、ハンドメイド作品の体験コーナーをもうけ、これも烈子が指導した。
リピーターの主婦たちが定期的につめかけてくれ、店は笑い声が絶えないほどにぎわった。烈子はフル回転の活躍を見せ、閑散期もはねのけた。
がんばりが認められ、水谷から臨時ボーナスが支給された。
「やった! ほんとうにいただいていいんですか?」
「れっちゃんのおかげです。店に活気があるからこそ、僕も立ち直れたのです。あなたが元気をくれた」
烈子は思わず宙に浮かんで、喜びを表現した。
◆◆◆◆◆
空が晴れわたった、『Charment』が休みの日。
母、みきは、これでもかというほど洗濯機をまわし、洗ったものを芝生の庭一面に干した。
そのあと烈子は誘われ、買い物に出かけた。山ほどの夏服を買った。
スーパーの駐車場の片隅で、烈子が愛車に乗って車両間隔の特訓をした。
助手席のみきはでたらめなアドバイスをおくり、烈子のハンドルさばきがうまくいくたびに褒めちぎった。
千光寺公園へ行こうと、みきが言い出した。
上まで行くのは久しぶりだった。長江口から千光寺山ロープウェイに乗りこみ、しだいに高みへあがっていくスリルを味わった。三分間の空中散歩だった。
ゴンドラのなかで、みきははしゃぎっぱなしだった。
千光寺そのものは、尾道市東土堂町の千光寺公園内にある真言宗系の寺院だ。本尊は千手観音が祀られ、中国三十三観音第十番札所、山陽花の寺二十四か寺第二十番札所である。
町を見おろした。
天寧寺の三重塔を中心に、民家を敷きつめたような景観が広がっていた。尾道が箱庭的都市と言われる所以だ。
数えきれないほどの桜の樹が植えられていた。春の満開の時期には、言葉にならないほどの見晴らしとなるだろう。いまはツツジと、藤の花が開花の時期。赤と紫の花が小高い山を彩っていた。
尾道水道にはいくつもの船が行き交っていた。遠くの島々の隆起が青く、かすんで見える。
すぐ手前には向島が見え、右隣りに岩子島がならび、かたわらに是孝の住む舞島が浮かんでいた。風の向きのせいか、まったく波の音がしなかった。
ゴンドラが山頂駅に着くなり、みきは駆け足になった。うしろの烈子をふり返った。
「ほら、早く、れっちゃん。せっかくここまで来たんだから、展望台に登ろ。みかん&バニラMIXソフトクリーム、ごちそうしちゃる!」
と、青いエナメルのパンプス姿もまぶしいみきが手招きした。
「ここはあえて、レモン&バニラにしたいの!」
烈子は息を切らして言った。母の細い身体のどこに、そんな体力があるのかふしぎだった。
千光寺公園展望台は、円筒形をした鉄筋の二階建てで、小さな土台にUFOが乗っかったような造形だ。
「れっちゃん、展望台にゴーよ。遅れをとるでない!」
みきのはじけっぷりは、いまだかつてないほどだった。これはただごとではないと思った。だてに二十一年間、いっしょに暮らしていないのだ。
◆◆◆◆◆
やはり――だった。
展望台の二階で、二人してベンチに腰かけ、外の景色を見渡しながらソフトクリームを味わっていたとき――。
みきの涙がこぼれ、白と黄色のクリームに落ちた。
食べるのをやめると、右手がさがった。コーンが逆さになり、クリームがまるごと地面に落ちた。
烈子は見かねて、
「どしたの、お母さん? なにか、あった?」
と、みきの顔をのぞき込んだ。
母は手の甲でまぶたを拭いながら、
「なにかあったかって、れっちゃん、やっぱり、わかる?」
「テンションがあがってることは、つまりお母さんの場合、そのあと急降下するパターンだから」
「晴れのち豪雨ってやつか……。さすがつき合い長い。お母さん、単純すぎるね」と、みきは泣きながらベンチの背もたれに背中をあずけ、空を見あげた。盛大なため息をついた。「じつはね、パパの件なの。昨日、あまりにもショッキングなことがあって」
「ショッキングなこと?」
「まだ確定はできない。でもここ最近、怪しいそぶりを見せてたから、まさかって思ってたけど」
「なにが怪しいの? 私、ちっとも感じなかったけど」
「夫婦なら気づくの。夫のちょっとした変化に」と、みきはうつむいて声を落とした。そして眼をつぶり、「……パパ、どうも家に女をつれこんだ形跡がある」
「ウソ」
「だから、まだ確定はしちゃいけないんだろうけど。決めつけはダメ」
「なにか、証拠でもあるの?」
「昨日の昼すぎ、パパの部屋を掃除してた。クリーニングかけたスーツをクローゼットにしまってたらね。偶然見つけたわけ」
「なにを」
「クローゼットの奥に大きな紙袋があって――ピンときた。気になって、開けてみたの。そしたら、いやらしいものがたくさん出てきて」
「いやらしいって」と、烈子は絶句した。あの熊みたいな大柄の陽気な父に、淫猥なイメージは結びつかない。いつも豪快で、みきとキスするのも、あけすけだったからだ。ほかの女性を家につれこみ、不貞をはたらいていたなんて信じられない。「いったい、なに見つけたの?」
みきは暗い眼をして、烈子と真っ向から見つめあった。すがるような眼つき。
「ボンデージっていうのかな? 黒い革でできた、ぴっちりした短い衣装があったの。ほかにも網タイツやらガーターベルトやら、挙句の果てには、きわどい切れこみの入った下着まで出てきた」
「どゆこと?」と、烈子は両眼を見開いて言った。ソフトクリームを食べるのも忘れ、クリームが溶けて指を濡らしている。「仮にもだよ。仮に、ほかの女の人を家につれこみ、いやらしいことをしてたとしても、どうして下着まで紙袋にしまってるわけ?」
「だってほら、下着はストックっていう意味じゃないかな。もしものための。認めたくないけど、一般人をよそおって家に入り、ボンデージの衣装に着がえるのは、その手の『プレイ』っていうやつじゃないかしら。だとしたら、相手はそのいう商売をしてるプロかも――」
みきはそこまで言うと、涙腺が崩壊したらしく、顔をくしゃくしゃにして泣いた。
口をおさえ、烈しい嗚咽が洩れるのをふせぐ。幸い、展望台にはほかの客がいなかった。
見かねて、烈子は母の背中をさすった。




