13.「いいかげん、うんざりしてたんだ!」
夕方帰ってくるはずの水谷は、はからずも早めに引き返してきたのだった。
扉の向こうで一部始終を耳にしていたらしい。さしもの紳士風の佇まいも、玉手箱を開けたかのように年相応に老け込み、やつれていた。
「出ていくだって? とにかく会えてうれしいよ、水谷さん。どんな釈明をしてくれるか楽しみだね」と、ニット帽の男が足早に玄関に向かった。自虐の口調のなかに、ひたむきな熱っぽさが残されていた。「どうやら、あなたがゲイだってことをカミングアウトしてなかったらしいね。おたがいさまだけど」
水谷はしずかに傘をとじて傘立てにおさめると、グレーの上着をぬいだ。
「やれやれ……男の子のジェラシーは見苦しいものです。遅かれ早かれ、れっちゃんの耳に入ることは予測しておりました。いまさら逃げも隠れも致しません。ですが、君は少々やりすぎた。私の店で野蛮なものをふりかざすのはおやめなさい。――ここは私の城です!」
「これかい。なら、ひとまずしまっとくよ」と言って、ナイフを折りたたみ、尻ポケットにおさめた。水谷に指弾を浴びせた。「仲を解消だって? このあいだの男とくっつくってわけか? だったら僕はどうなる? 使い捨てカイロみたいにポイとゴミ箱行きか。え?」
「君とは三年半つきあったとはいえ、その程度の仲だったのです。君の方こそ先に裏切ったのではありませんか。おお、汚らわしい……。君は僕とも愛を交わしながら、同時に女性とも寝ていたではありませんか。自分のことを棚にあげて、正当化するのはよしなさい。あれもこれもと欲深なのです。あまりにも純粋さに欠けている」
「バイは認めてやる。こちとらオケ専じゃないのに、いいかげん、うんざりしてたんだ! さいしょに言い寄ってきたのは、あんたじゃないか!」
ゲイ用語であるオケ専とは、高齢者を好む性的嗜好をさす。オケは、棺桶に近い年齢の意だ。
そう言われ、水谷の顔色が死人のようなそれになった。
「でしたら、なぜ僕にこだわるのです。放っておいてください。君はこの店に来るべきではなかった。私だって人並みの幸せを追い求める権利があります」と、水谷は額に手をやって、うつむいた。顔をゆがめ、うめいた。
そのうち嗚咽が洩れた。
いつもは毅然とした店主の威厳も見る影がなかった。
あまりにも残酷な仕打ちだった。
烈子はカウンターを飛び出した。ここは、なんとしても水谷をかばってやらないといけない。どんな性癖をもっているにせよ、尊敬すべき上司だった。
ニット帽の青年までもが苦しげな顔をしていた。
身体をゼリーみたいにふるわせ、両手を見た。――取り返しのつかないことをしてしまった、と見開いた眼は語っていた。
「なんて僕は子供っぽいことをしでかしたんだ……。水谷さんを泣かせてしまうなんて」
青年の性は自由奔放すぎた。
そのくせ、恋人は束縛したがった。裏切り行為に対し、裏切られたのに、さらに斬りつけ、その刃物は自身をも傷つけていたことに、ようやく気づいたのだ。
ふたたびナイフを出した。刃をおこす。
刃渡りは七センチはある。頸動脈を切りつけるには充分だった。
それを首にあてがった。青年は両眼を強くつぶった。
烈子がカウンターをまわり込み、うずくまる水谷のそばに寄りそった。背中に手をかけた。
「よしなよ、あんた。痴話げんかのすえ、自殺ってのは、いちばんカッコ悪いぞ」
と、是孝が歩み寄りながら言った。
「結局、なにがしたかったのか、わからない。水谷さんを困らせてやろうと思っただけだ。歯止めが利かなくなった」と、青年は眼をつぶったままうめいた。「僕はいけないことをしてしまった。罰をうけなけなきゃいけない……」
またしても一触即発の事態。
是孝はすばやくリュックをはずした。
力いっぱいふりかぶると、青年めがけて投げつけた。
ボン!と音をたてて、顔面に命中した。
その拍子にナイフが手から落ちた。首に切り傷ができて、たちまち血が流れたが、微々たる量だった。
床でカラカラと回転するナイフを、是孝はあさっての方向に蹴り飛ばした。
青年はそれを拾いに行こうと身をかがめた。
是孝が負けじと、相手の背中に馬乗りになった。片方の腕を背中にねじった。ソプラノの悲鳴があがった。
「こうまでしないと、聞きわけよくならないのか。めんどうすぎる男だな、あんたは!」
「ちくしょう、どうせネコだよ!」
「どうだ、この人をあきらめるか? きれいさっぱり別れてやれ。二度とこの人に近づかないって誓え!」と、さらに青年の腕をねじあげ、息を荒げた。馬乗りになったまま、反撃されないよう、長い両脚で相手の胴体をはさみ込んだ。「彼を泣かせたの、申し訳ないって思ってんなら、とっとと出てけ。そのかわり、命を捨てるなんて無茶はよすんだ。あんただって若い。いくらでもやりなおしが利く!」
ニット帽の青年があごを床につけて、なんどもうなずいた。涙がこぼれていた。
「店から消えろ!」
と、是孝は相手の腕を離し、身体をどけた。
青年はすぐさま立ちあがり、痛めつけられた腕をかばいながら店外へ出ていった。
カウベルが夢のように鳴った。
うずくまったまま、烈子に介抱されている水谷をふり返りもしなかった。
烈子は立ち尽くす是孝を見て、勢いよく拍手した。
テクノカットした横顔がりりしい。
「すごいです、是孝さん。助けてくれてありがとうございます!」
と、言った。さらに惚れなおしそうだった。
そのかたわらで、なぜか水谷までもが是孝を見あげ、うっとりした様子で眼をうるませていた。
頬を赤らめ、熱い吐息を洩らした。
「どうして島守の是孝クンがここにいるのか存じませんが、いずれにせよ助けられました。あなたがいなかったら、いまごろどうなっていたことか」と、水谷は烈子に支えられながら立ちあがった。是孝に近寄る。「なるほど、れっちゃんが好きになってしまうのも無理はありません。さすがサバイバル生活を送るだけのことはあります。……たくましい」
是孝は面食らった顔を見せていたが、すぐに、
「そろそろおれ、行くよ。あの子も仕返しに戻ってくるようには見えない。たぶん大丈夫だろ。問題は当てつけで自殺しないかってことだが、そこまでは責任もてない」
「それはないはずです。いつも我が身をかわいいと思っている子でしたから。さっき、首にナイフを当てたときも、私を困らせるためのポーズにすぎなかったのだと思います」
「だといいが――。ごめんな、君」と、烈子に向かって言った。床に転がったリュックサックを拾いあげ、背負った。スーパーで買ったビニール袋も回収する。「君のだいじな職場を荒らしてしまった。いっしょに片づけてやるべきなんだろうが、ほかに大事な用事があるんだ。行かないと」
「ここはいいんです。どうぞ、行ってください」烈子は声をはずませた。「でも、ほんとにまたの来店、お待ちしております。きっと来てください。そのときは、なにかお礼させてください!」
「だったら、こんどこそご好意に甘えるよ。憶えとく。――それじゃ」と、是孝は腰のところで手をひろげると、玄関のドアを押して出ていった。
しばらく烈子と水谷のあいだに沈黙が落ちた。二人とも是孝の残像を追っていた。
ややあって、水谷が口を開けた。
「恋の駆け引きはディフェンスではなく、オフェンスですよ、れっちゃん。モタモタしてると、この僕が先を越しちゃいますから」
「え?」
と、烈子は眼をまるくした。
水谷は玄関のドアを開けた。
すでに是孝の姿はどこにもない。
まさか『Charment』で、あわやの事件があったことなど知らぬ数台の車が、眠そうな排気音をたてて行き交っていた。
ちょっとした奇蹟だった。
雨がやんでいたのだ。
ホームセンターでのできごとと同じく、雲の切れ間から陽の光が斜めにさしているところだった。
虹までかかっていた。是孝がきっと魔法をかけたのだろう。
ここからは一望できないが、尾道の坂の上から見おろせば、海は無数の光を踊らせていたにちがいない。




