百人目の彼女と僕
文句のつけられないようなハッピーエンドを目指して書きました、よろしくお願いします。
闇に歓声が響く。
闇に沈んだ意識が少しずつ覚醒し、今おかれている状況を把握するものの空腹に縛られた体は瞼すら持ち上げようとはしてくれない。
僕は歓声を憎んだ。それがなければ、闇ので眠るように餓死する事が出来ただろうに。僕はこれからもう一度だけ、終わりのない空腹と戦いながら死に至る眠りにつかなければならないのか。
そんなことを考えていた。思考することは体を動かす必要がない。空腹で煌々と冴える頭に限界が訪れるまでの時間を、考えることで潰そうと思っていた。一方で空腹は思考の妨げでしかなかった。集中は容易く途切れ、ようとして続かない。
だから、その言葉の意味を全て理解できたのは奇跡にも近かった。
「ここで犬の野垂れ死ぬのか、俺の部下となって戦場で銃弾に当たって死ぬのか、選ばせてやる」
いつの間にか、僕の前に人の気配があった。そして、僕の顔の前に何かの食べ物がある事がわかった。
そして、僕は少年兵となった。
次に目を覚ましたとき、僕は一人ではなかった。それは僕を拾い上げた恩人がいたということでもあり、そして拾われたのは僕だけではなかったということだ。
衣服も新しいものに変えられていた。それは僕たちに与えられた軍服だった。
名前も新しいものに変えられていた。それは僕たちに与えられたコードネームだった。
そして僕たちに銃が与えられた。
見渡せば、そこには無数の『僕』がいた。
僕たちは生き延びた。そして生きていたいと願った。
生きるために戦い続けよう、それが許される限りいつまでだって。
僕たちの前で、上司であると言った男が言い放った。
「俺たちに仇なすものは全て敵だ。これは独立戦争だ、だが戦争の勝敗なんて俺たちには関係ない」
その言葉の意味を、僕たちの全員が理解していた。
僕たちは一心同体、あるいは運命共同体であった。どこからか拾われ、命を救われ、今ここにいる。僕たちが仲間意識を持つにはそれで十分すぎた。
訓練が始まった。銃とナイフを与えられ、どのように使うのかを意識せずに使えるようになった。
訓練が始まった。装備を纏い、重くなった体でもひたすら走り続け、障害を越えられるようになった。
訓練が始まった。仲間と協力し、ハンドサインで戦場での意思疎通が図れるようになった。
来る日も来る日も訓練は続いた。僕たちは明日の訓練に備え、よく食べ、よく眠りについた。
訓練は確かに厳しかったが、いつかのように飢えで意識を失うようなことはなかった。痛みで意識を失うことはあったが。
厳しい訓練が終わった。脱落者がいたようだが、彼らの処遇がどうなったかまでは分からなかった。悲しくないわけではない。だけど、僕は自分がそうでないことに安堵した。
僕たちはついに戦場へと向かう。
一人、二人、三人、……、十人。敵を倒した。
ナイフで腕を、心臓を、喉を、落とし、突き刺し、切り裂き続けた。ナイフを握っていた手が、少し痛んだ。血の暖かいことを知った。
二、三のドックタグを拾った。部隊の人数は僕が倒したのと同じぐらい減っていた。
僕たちの上司は、悲しげにそれを受け取った。
十一人、十二人、十三人、……、二十人。敵を倒した。
手榴弾を建物に、塹壕に、物陰に、投げ込み続けた。遠投した肩が、少し痛んだ。爆薬の爆ぜる音を知った。
二、三のドックタグを拾った。部隊の人数は僕が倒したのと同じくらい減っていた。
軍の用意したキャンプの中で、神に彼らの無事を祈った。
二十一人、二十二人、二十三人、……、三十人。敵を倒した。
銃で狙撃を、十字砲火を、撃ち、撃ち、撃ち続けた。銃撃で体の芯が、少し痛んだ。血の鮮やかな赤さを知った。
二、三のドックタグを拾った。部隊の人数は僕が倒したのと同じくらい減っていた。
いくつかの褒賞と勲章を貰った。肩が少し重くなった。
三十一人、三十二人、三十三人、……、四十人。倒した。
戦場をただ走り続けた。両足を懸命に動かし続けた。そうしなければ生きていけないことを知っていたから。立ち止まるものに明日は来ない。走り続けた者だけが明日へ行ける。生きていける。
敵を倒せば倒すほど、肩は重くなった。
新たな戦場へ向かうたび、部隊の人数は減っていった。
使いなれた銃とナイフが手に馴染み、体の一部であるかのように錯覚する。
四十一人、四十二人、四十三人、……、五十人。倒した。
いつだって僕に退路はなく、血路の中に活路を見出してきた。うず高く積み上げられた死体の山を背に残し、足を取られることのないように、振り向くことを己に許さなかった。死体すらも蹴り付けて尚、僕はただ足を動かし続けた。背に感じる、闇に呑まれてしまわないように。
僕を呼ぶ声も少しずつ減っていった。
少しずつ体が痛むことも少なくなってきた。
上司は、僕に休息を取ることを命じた。
僕は少しだけ体を休ませ、また戦火へと身を投じた。
五十一人、……、九十八人、九十九人。敵を倒した。
僕に与えられた勲章が数えきれなくなった頃。
僕と上司以外に誰もいなくなった頃。
戦いの終わりも見えてきた頃。
その日は、戦場となり巻き込まれたとある村での祝賀会が開かれていた。村人は総出で軍を迎え、口々にお礼を言っていた。
僕はその戦果を讃えられ、様々な呼び名がつけられていた。軍神、百人斬り、無敵などなど。僕はそれを誇らしく思っていた。
僕の生まれ故郷よりはるか遠く、僕はもうここがどこだかを知らないけれど、祝賀会の喧騒に不思議と郷愁を感じていた。思い出なんて何もない、だからこの感傷はただの錯覚に違いなかった。
お酒に酔い僕を褒め称える人たちの輪から抜け出し、村を歩いてみることにした。いろんな人が居た、勝利を喜ぶ人も、失われた者を悲しむ人も。けれど、皆訪れた束の間の平穏に心安らいでいることだけは確かだった。
やがて、村を一周し、まだ騒いでいる人たちを遠巻きに眺めていた。
愉快そうに口を開き、声高に聞き取れない何かを叫び、踊り歌い笑う。
すると僕の元へ小さな女の子が駆け寄ってきた。
僕の胸下までしかないような少女だった。笑顔の可愛い女の子だったように思う。
彼女は口を開き、
「×××」
僕は腰のホルスターから拳銃を引き抜き、過たず少女の小さな額に狙いを定め、躊躇いなく引き金を引いた。長い戦いで研ぎ澄まされた僕の感覚は少女の放った言葉を理解するよりも先に少女を黙らせることを許した。
銃声が響き渡り、喧騒が止んだ。少女が倒れる小さな音がよく聞こえた。百人目だ、と僕は思った。
遅れて、少女の放った言葉の意味を僕は理解する。僕は少女に一言も喋らせるべきではなかったのだ。だがどうしてそれが少女が言葉を発するより前にわかるだろうか?
僕はその場から動けなくなっていた。少女の今際の際に放ったただ一言が、悪意もない、害意もない、無邪気なはずの一言が僕の両足を完全に止めてしまった。
村人にあっという間に取り押さえられて、殴り飛ばされ、僕は意識を手放した。
明け方、僕は目を覚ました。察するにここは牢獄なのだろう。じめじめとした湿気を払うように、格子窓から陽光が差し込む。
差し込んだ光の先に、上司が立っていた。無言でこちらを見続けていた。
僕が目を覚ましたことに気づいたのか、上司が僕に声をかけた。
「お前が殺した子供はさ、村長の娘だったんだと」
「そうでしたか」
「軍もお前を庇いきれなかった」
「だから僕はここへ?」
「太陽が真上に来る頃にはお前は処刑される。その時までさよなら、だ。それだけを伝えにきたんだ」
そういって上司は消えた。上司はやりきれないような表情だった。僕はそれを申し訳なく思った。
これから死ぬということは不思議と怖くなかった。もともと覚悟はあった。こんな結末だとは思いもよらなかったが。
淡々と、今までのことを思い返していた。当然全てを覚えているわけではない。多くの戦場が綯交ぜになり、多くの生死がそこに折り重なり、澱んでいく様を思い浮かべた。一つの戦いで多くの仲間が死んだ。一つの戦いを生き抜いた仲間も、次の戦いでは生きていなかった。もはや、部隊の皆の顔も声も霞み、どうであったかを思い出せない。僕が倒した敵がどうであったかなんて尚のこと。ふと、僕は今何も武器を持っていないことに気づいた。普段よりも身軽になった体で、しかしどこへ行くことも許されない。いまの僕は無防備だ。
だが、それでも僕はもう殺されることに怯えなくていい。すぐそこに迫る死に怯えるだけでいい。全く昔に戻っただけなのだから。
思い返せば、戦場を駆け抜けた日々だった。駆け抜けた先こそがこの結末。この終着。この監獄。随分と遠くまできてしまったように思う。僕は最後の最後に過ちを犯した。それに僕は殺される。僕の弱さ故に殺されるのだ。
等しく皆闇に呑まれたように。すぐそこにそれは迫っているのだ。
格子窓から覗く外の世界が一際明るくなった頃、上司は現れた。
「俺の集めた少年兵も、お前が最後になっちまったよ」
「僕たちを拾ってくれてありがとうございました」
それはまぎれもない本心だった。あなたのおかげで、僕たちは、僕はここまで生きることができたのだから。
「時間です。処刑台へ連行してください」
「……皮肉なものだな、俺が初めて看取る部下の死は部隊最後の生き残りで、しかもそれを俺がこれから殺すものだなんて」
村人の希望で、銃殺刑ではなく断頭台での斬首刑となった。そしてそれを執行するのは上司となった。
一歩一歩、死へと近づいていく。今はなき部隊の面々を幻視し、幻聴し、幻覚する。
声高に村人が裏切られたと叫んでいる。割れんばかりの怒号が空気を揺らす。鋭利な視線が容赦なく僕を貫いて行く。
首を差し出す。頭上に感じる死の気配が重くのしかかる。
執行人が罪状を読み上げ、その時が迫る。
視界が傾いていき、目眩がする。
取り残された胴体の首の断面から飛び散る血を見て、僕に流れる血も赤かったのだな、と他人事な感想を抱いた。
不思議と痛みはなかった。涙を堪える上司の腰に大量のドックタグを見つけほおが緩んだ。微笑みを浮かべることができた自信はなかったけれど。
暗転する意識に最後。
闇に歓声が響く。