04_賢者ヲンリ
(ヲンリ様……?!)
その名前を聞いて、オルタンスはぎょっとした。
王家に関わる人間の中で、ヲンリの名前を知らない人間はいない。ヲンリとは、この世界を創り出したとされる双子の賢者のうち、姉にあたる存在である。
しかし、本当にそんなことがありえるだろうか? ――オルタンスは自問した。ひょっとして、まだ自分は寝ぼけているのではないか? あるいは周囲の騒ぎが大きいあまり、聞こえないはずの声が聞こえるように感じるだけなのではないか……?
(オルタンス、怖れるのはやめなさい。ただ私を信じなさい)
オルタンスの心を見透かしているかのように、ヲンリの声が中空から響く。
(私は今、北東の塔の最上階にいる。そこにひとりでやってきなさい)
(ひ、ひとり、で?)
(さよう。ひとりで来ることで、この私に勇気をみせなさい)
賢者ヲンリの言葉は、最後にはほとんど空気に溶けていくかのようだった。
「――オルタンス様!」
なおも耳を澄ませているオルタンスに、別の声が届いてきた。振り向いてみれば、真珠色の髪を一房に束ね、赤い衣を身にまとった、魔法使い見習いの少女がオルタンスのところまで駆けつけてきた。姉・エリジャの従者をしている、アースラという少女である。
「アースラ! よかった!」
オルタンスの心ははずんだ。たったいま起きた超常的なことについて、オルタンスは誰かに相談したかったのだ。
「アースラ、あなたに相談したいことがあるの」
「オルタンス様、いかがなさいましたか?」
いま起こったことを説明しようとして、オルタンスは言葉に詰まった。
「ひとりになって寂しくなるから、おねえさまにそばに居てほしいの」
なんて、甘えたことを言いたくはなかった。だから自分の本心について、オルタンスは隠して説明しなければならない。
「ねぇ、アースラ。北東の塔って、いったいどうすれば入ることができるかしら?」
”北東の塔”という単語を聞いた瞬間、アースラの表情が曇った。
「オルタンス様、北東の塔がいったいどうしたのです?」
「えっと……その……」
アースラが身構えていることは、オルタンスにもよく分かった。平静を装うのが得意な姉のエリジャに対し、この従者は比較的分かりやすい。
オルタンスは、嘘をつくことにした。
「おねえさまが気にしていたのよ」
「エリジャ様が?」
「そう。『あそこに何があるのだろう』って、ずっと気にかけていたわ」
「そう、ですか……」
頭を掻きだしたアースラを見て、オルタンスは内心しめしめと思った。エリジャの名前を出すと、アースラはとたんに弱くなる。
「おそらく、エリジャ様が知っている以上のことは私も知らないのですが……」
「いいわ。アースラ、聞かせて」
「この世界をお造りになった、双子の賢者はご存じですか?」
「ええ。ヲンリって人と……」
「そう、ヲンリとヂョゼ」
アースラは、話を続ける。
「この国の初代国王であるアディス様は、国土を平定した後に、今の王宮が建っている場所を王都として選びました。ですが、すでにこの土地にはヲンリ様が住まわれていたのです」
「それで?」
「交渉の結果、アディス様はここに王宮を建てることをヲンリ様から認められたのですが、その代わり、王宮の北東部に塔を作り、そこがヲンリ様の住まいになるよう約束されたわけです」
「では、いまもヲンリ様は、塔の中に住んでおられるのね」
「ええ、ただ……」
アースラは目を伏せた。
「ただですね、建国以来、北東の塔へ足を踏み入れたものはいないのです」
「そうなの?」
「伝承にもあるとおり、ヲンリ様は非常に気むずかしく、きびしいお方であるというので……」
オルタンスは首を傾げたくなった。ほんの二言三言会話をしただけだが、ヲンリはそこまで恐ろしい存在には、オルタンスには思えなかった。
「とにかく、そのような次第でございます。アディス王が崩御なされてからすでに200年が経ちましたが、未だに入り口をくぐったものはおりません。入り口は開け放たれておりますが、番兵さえいない始末です」
「では、入ろうと思えば誰でも入れるのね?」
「ええ。……えっ?」
ここまで来て、オルタンスもはっとした。あまりにも自分に都合のよい話であったために、ついつい口を滑らせてしまった。
「いや、その、えっと……」
「もしかして――」
アースラが鼻をふくらませる。憤慨しているのは、オルタンスの目からも明らかだった。
「もしかして、エリジャ様は『中に入りたい』とおっしゃっていたのですか?」
「え……?」
「まったく……!」
アースラは腕を組んだ。
「エリジャ様のことだから、きっとそうなのだろう。わざわざオルタンス様をそそのかして聞こうとするなんて――」
どうやらアースラは、エリジャがオルタンスをそそのかして、自分にさぐりをいれてきた、と思い込んでいるらしい。
オルタンスにとってはもっけの幸いだったが、それでもオルタンスの心はちょっと傷ついた。要するにアースラは「エリジャには北東の塔へ忍び込むだけの勇気がある」と思っている一方、オルタンスの勇気についてはみじんも目を向けていないのだ。
しかしぐっと我慢して、オルタンスはアースラに一芝居打つことにした。
「お、おねがい、アースラ!」
わざとらしく慌てた様子を取りつくろうと、オルタンスはアースラの赤い衣を引っ張った。
「ど、どうしました?」
「わたし、北東の塔がそんなに不気味なところだって、知らなかったわ。もしおねえさまが『中に入りたい』なんて言い出したらどうしましょう……」
「ああ、そのことですか。ご安心ください」
そう言うと、アースラはオルタンスにほほ笑んだ。
「これでも私はエリジャ姫――じゃなくて、陛下のしもべです……」
ここまで言ったとたん、アースラは真顔に戻ったのだが、オルタンスはそのことに気づかなかった。
「――エリジャ様が変な気を起こさないように、私がエリジャ様に注意を払っておきましょう」
「おねがいよ、アースラ!」
オルタンスは、アースラの手を握りしめた。