35_宙に浮いた王宮
「見えた……!」
眼下に広がるバンドリカの王都を眺め、エリジャはそう口にした。馬の手綱を握りしめるエリジャの指に、思わず力がこもる。
「ここが最後の山です、エリジャ様」
エリジャの隣から、アースラが言った。
「あとは王都に向かって進むだけ。エリジャ様、市民は皆、エリジャ様のご帰還を待っているはずです」
アースラの言葉を聞くに及んで、エリジャは少しうつむいた。
「エリジャ様?」
「だといいけれど……」
エリジャには一つ、気がかりなことがあった。本来の作戦では、王都で暗躍しているヨルムの協力をあおぎ、無駄な戦闘を介さないまま、王都に無血入城する作戦となっていた。
ところが、ヨルムと接触を試みるため、一足先に王都へ向かっていたはずのロオジエが、いっこうに帰ってくる気配がない。
「ねぇ、アースラ。ヨルムが寝返ったということはないかしら?」
「まさか!」
エリジャの発言に対し、アースラは唇を引き結び、あからさまに不機嫌な顔をした。
「仮に裏切るとしたら、ヨルム殿よりロオジエの方でしょう」
「アースラ、あなた本当にロオジエが嫌いなのね」
「……エリジャ様、今は余計な心配をするときではありません」
そこまで言うと、アースラはわざとらしく、エリジャに対して胸を張ってみせた。
「仮に裏切りがあったとしても、そのような輩はすべて、このアースラがなぎ倒してみせます」
(……アースラ、あなたにそんなことはさせないわ)
アースラの言葉に対し、エリジャは心の中でそう呟いた。
三年の間に、アースラが見違えるように強くなったことは、エリジャにも分かっている。しかし、その強さの裏に冷たい影が潜んでいることにも、エリジャは気づいていた。エリジャが放っておけば、アースラは闇雲に、死へ向かって突っ走ってしまいかねない。
エリジャがそう考えていた矢先、
「おーい!」
と、遠くから声がした。
「あれは……」
「ロオジエよ!」
一人の青年が馬を駆って、エリジャたちの方へ近づいてくる。前右大臣の息子にして海賊の頭領・ロオジエである。
「エリジャ。悪いニュースと、もっと悪いニュースがある」
近くで馬を止めるやいなや、ロオジエは息せききってエリジャに言った。
「ロオジエ殿、そういう士気が下がることは――」
「いいのよ、アースラ」
不満げなアースラを手で制すと、エリジャはロオジエに向き直った。
「ロオジエ、聞かせてちょうだい。まずは――悪いニュースから」
「ヨルムが死んだ」
エリジャは思わず、アースラと互いに顔を見合わせた。
「本当なの?」
「オレが聞いたかぎりだと、どうもそうらしい。オレが王都へたどり着く前日の夕べに、サウルに殺されたそうだ。サウルの従者がその有様を見て怯え、脱走してオレに伝えてくれたんだ。くそっ!」
そう言いながら、ロオジエは鼻を鳴らしてみせる。動揺しているというよりも、ロオジエは腹が立っている様子だった。
「……しかし、ぜんぜんピンとこねぇ。アイツのことだから……だとしたら最低の……」
「……ロオジエ殿、ヨルム殿が亡くなってしまったら……その、作戦は……」
「そうだ、それで、もっと悪い知らせがあるんだ」
アースラの質問に対し、ロオジエは吐きすてるように言った。
「……聞かせてちょうだい」
「サウルの野郎がオルタンスと結婚する」
しばしの間、エリジャもアースラも、一言も発することができなかった。
「まさか……」
「その『まさか』だ、エリジャ。だからもう、ヨルムなんてどうでもいいんだ。都の貴族どもは、ヨルムが殺されちまったことにすっかり震えあがって、サウルの言うことに唯々諾々とつき従っているらしい」
ロオジエは頭を掻いた。
「あとは分かるよな、エリジャ? サウルも一応王族のはしくれだ。オルタンスと結婚して、王位を正式に引き継ぐつもりらしい。そうなったらもう、こっちは終わりだ」
「止めないと……! 何としてでも……!」
「血を見ることになるぞ」
エリジャは奥歯を食いしばって、ロオジエに頷いた。誰ひとり余計な犠牲者を出さずに、円満に解決したい。――それがエリジャの願いだった。しかし今、その願いはエリジャの中で急速にしぼみつつあった。
「仕方がないわ。できるかぎりのことは……」
エリジャがそこまで言った矢先、不意に馬たちがわななきだした。
「どうしたの?!」
「エリジャ様、見てください……!」
ほとんど悲鳴のような調子で叫ぶと、アースラが王都を指さした。手綱を操ることに必死だったエリジャも、王都の方角を見て目が釘付けになる。
「あれは……!」
王都全体から、砂ぼこりが吹きあがっていた。そして中心にある王宮が、まるで掘り出された球根のように、王都から宙に浮き始めたのだ。王都と繋がっている大城壁ははがれ、古びた漆喰のようになって王都へ散乱している。王宮の尖塔が一本傾き、上下あべこべになって落下し、地面に突き刺さった。
王都から遊離し、中空に浮いた王宮は、なおも空高く昇っていこうとする。
「あれは……」
アースラの声は震えていた。
「あれは……だれがあんなことを……」
「サウルに決まってるだろ」
ロオジエが盛大に舌打ちをする。
「どうするんだ、エリジャ? 誰も邪魔が入らないところで、盛大に挙式をするつもりだぞ、サウルは?」
「大丈夫よ、ロオジエ……」
宙に浮いた王宮を見据え、エリジャは言った。
「ロオジエは兵を率いて、街の人を救ってあげて」
「だけどエリジャ、お前は……」
「私は大丈夫。心配しないで。……ねぇ、アースラ」
鼻白んでいるロオジエを尻目に、エリジャはアースラに言った。
「私を王宮まで連れていって……。私、サウルを止めてみせる。それに、オルタンスを救ってあげないと」
エリジャの瞳は、なおも王宮に、そして、そこにいるであろうオルタンスに、注がれていた。