30_放蕩息子の帰還
「……そういうことだ、エリジャ。お前はサウルを倒せ。オレはカシムのじいさんを始末する」
いったん言葉を切ると、エリジャの目の前に座る青年はジョッキをあおって、中に入っている蒸留酒を一気に飲み干した。
エリジャの傍らでは、さきほどからずっと、アースラが不満げに鼻を鳴らしていた。エリジャはそこまで気にしていないのだが、青年がエリジャを呼び捨てにしていること、昼間から酒を飲み、王族を前にしておきながら脚を組んで対面していることなどが、アースラには気にくわないらしい。
この不遜な青年こそ、右大臣・カルフィヌスの息子、ロオジエである。「海賊を組織している」という噂を聞いてからというもの、エリジャはロオジエのことを一筋縄ではいかない人物だと考えていたが、実際に会ってみれば想像以上だった。
しかし、エリジャを何よりも驚かせたのは、今しがたロオジエが口にした”作戦”だった。
「ま、始末されるのはじいさんじゃなくてオレかもしれないがな。ハッハッハ!」
「――お待ちください、ロオジエ様」
エリジャに代わり、アースラが口を開いた。「左大臣・カシムを殺す」などという穏やかならぬ話しに、アースラは内心で焦っているのだろう。
「私たちは、カシム様にさんざんお世話になっているではないですか……! その恩を仇で返すなんて、位ある人のすることではありません!」
「あんなの”恩”じゃねぇ、”投資”だ」
アースラの言葉をにべもなく一蹴すると、ロオジエはあくびをかみ殺しながら、盆に載っていたマスカットの実を食べ始めた。
「あのじいさんは、自分にとって得になるかどうかだけで動いてるのさ。ここだけの話、外国の王族ともコネがあるらしいからな。場合によっちゃあ、この国ごと滅ぼしちまって、自分は甘い汁を吸おうとしてるんだよ。しっかし、たまんねぇよなぁ! ポックリ逝っときゃいいものを……」
「――でも、ロオジエ。あなたはカシムから目を掛けられているんじゃないの?」
ロオジエの視線が、エリジャに注がれる。エリジャもまた、ロオジエの青い瞳を見つめ返した。瞳の奥から伝わってくるロオジエの感情は、ロオジエの振る舞いよりもはるかに冷静なように、エリジャには思えた。
「噂で聞いたわ。カシムは息子のヨルムとうまくいっていないから、あなたに目を掛けているんだ、って」
「じいさんとヨルムがうまくいってないことは事実さ。あいつら、隙あらば互いを殺そうとしてやがる」
ナイフをたぐり寄せると、ロオジエはリンゴの皮ををむいて食べ始めた。大柄な見た目とは裏腹に、ロオジエのリンゴの皮のむき方は、とても器用で、神経質なように見えた。
「だからといって、オレがじいさんの後継者になるかどうかは、また別の話だな」
「あなたが拒む、ということ?」
「さぁな。拒まれる側かもな。だとしたら癪だよな? 要するに、いつ死ぬのかも分からねぇじいさんに、オレもヨルムも競わされてるわけなんだから」
射すくめるようにして、ロオジエがエリジャを見やった。ここに来て、エリジャが内心で抱き続けていたある疑念もまた、確信に変わる。
ロオジエはサウルと敵対している。カシムとも敵対している。そしてヨルムとも敵対している。……そして、潜在的には、エリジャとも、だ。エリジャの見る限り、ロオジエはたとえ独力でもカシムたちと対峙するだろう。そのくらいの覚悟はある人物なのだ。そうでなければ、カシムの所領の生命線に当たるシブストの砦を襲うはずもない。エリジャの存在は、ロオジエにとっては勝利に影響する要素の一つにすぎないのだ。
もしエリジャが自分の目的にかなわないと分かったら、ロオジエはエリジャから離れるだろう。――要するにロオジエは、今この場でエリジャを試しているのだ。
(でも、どうしようか?)
ロオジエが熱心にリンゴの皮を剥いている間、エリジャは悩んでいた。ロオジエの試し方は、エリジャのことを斬ってくるかのような鋭さがあった。「お前のことを試している」という言外のメッセージがはっきりと伝わってくる反面、生半可な切り返しでは容赦しないだろうという空気を帯びている。
「――ロオジエ殿、エリジャ様を試すのは楽しいですか?」
「……え?」
アースラの追及に不意をつかれ、思わずそう口走ったのは、ロオジエではなくてエリジャの方だった。
膝の上にのせられたアースラの手は、力の込めすぎで関節が白く浮き出ている。アースラの顔は真っ青で、鬼気迫るものがあった。
返答いかんによっては、この場でロオジエを亡き者にする――そんな空気を、エリジャは感じとった。
(アースラ……?)
このアースラの態度は、ロオジエの態度よりもエリジャにはショックだった。離ればなれになった三年間の内に、アースラはエリジャの知っているアースラではなくなってしまったかのようだった。
皮を剥いたリンゴを皿の上に載せると、エリジャの動揺とは裏腹に、ロオジエは薄く笑ってみせた。
「アースラ、そんな怖い顔すんなよ? これは遊びだ。笑えよ」
(そう、これは遊び)
そう自分に言い聞かせると、エリジャは口を開いた。
「……ねぇ、ロオジエ。欲張りな話をするのはやめにしましょうよ?」
「欲張り?」
皮を剥くために用いたナイフを構えると、ロオジエはそれをフォークの代わりに、リンゴを食べ始める。
「そうよ。一方ではサウルを相手にして、一方ではカシムを相手にする……そんな離れ業、うまくやろうとしたってなかなかできるものじゃないわ」
「かもな。お前がサウルに抱かれ、心変わりするかもしれんからな」
ほとんど飛びかからんばかりになったアースラの服の裾を掴むと、エリジャは彼女を椅子に引き戻した。
「そうかもしれないわ。……現にこうして裏切っているのだから」
終始椅子の背もたれにふんぞり返っていたロオジエは、この時初めてエリジャの方へと身を乗り出した。
「どう? そのリンゴ、おいしかった?」
「……どういう意味だ?」
「分かるでしょ、毒が入っているの」
これはエリジャの嘘だった。ロオジエが自分たちを試すのならば、そして、その試練が巧妙なものであるのならば、ただその試練を克服するだけではダメなのだ。試練には試練で対抗する――。
「バカ言え。どうやって毒を盛ったって――」
「アースラがやってくれたのよ。特別な魔法でね」
そう言うと、エリジャはアースラに向かって目配せした。
「ええ、そう。そうです」
事情を察したのか、アースラも二つ返事で、エリジャに話を合わせる。
「解毒剤は――」
「解毒剤は――」
アースラの言葉を遮って、エリジャが身を乗り出した。
「解毒剤は、私の生き血よ」
ロオジエが鼻を鳴らした。
「私の言うことを聞いて、サウルを倒してくれるんだったら、私の生き血をあげるわ」
「何だよ。お前を抱けってのか?」
「そうよ。私の身体をあげる」
エリジャの隣で、アースラが息を呑んでいるのが分かった。
あきれかえったかのような口調で、ロオジエが言う。
「……はったりも大概にしろよ」
「そうかもしれない。でもいいでしょう? これは遊びなんだから。笑ってよ」
右手で頭を掻くと、ロオジエはうんざりしたような顔つきで、眉間にしわを寄せた。だが、ロオジエの口元からこぼれている笑みを、エリジャは見逃さなかった。ロオジエはエリジャの嘘を嘘と見抜いているだろう。だが、エリジャが嘘をついているのか、嘘をついていないのかなどということは、ロオジエにとっては些末な問題にすぎないのだ。
「あんたと寝るのも悪くないかもな」
「でしょう?」
腕を伸ばすと、エリジャはリンゴの載っている銀の盆をたぐり寄せた。そして、片目を閉じているロオジエの目の前で、リンゴの一切れをかじってみせた。
「よろしくね、ロオジエ……」