22_天の正気
陛下とは、エリジャの妹・オルタンスのことだ。
もっとも、オルタンスのことを丁重に扱っている貴族は、サウルくらいのものだった。
北東の塔へと向かう道すがら、サウルはいつも以上に周囲が静まりかえっていることに気づいた。エリジャが追放されてからというもの、オルタンスは北東の塔に住むようになっている。正式な王位にある者を放っておくわけにもいかず、サウルはそれなりの護衛を塔の周囲に配備していた。
その衛兵たちが、何やら塔の入り口に集まって、互いに見つめ合っていた。サウルがやってくるのを認めても、だれも敬礼しようとはせず、みな青い顔をして、逡巡するばかりだった。
(くそったれが……!)
サウルは舌打ちした。オルタンスが”また”、何かをしでかしたらしい。ふと足下に目をやれば、塔の入り口から点々と、血の斑紋がついている。
「おい、衛兵!」
そら恐ろしくなって、サウルは誰彼構わず呼びかける。
「この血はいったい――」
サウルがすべてを言い終わらないうちに、塔の内部から、血も凍らせるような女性の悲鳴が聞こえてきた。続いて、女中の一人が外に飛び出してきたかと思うと、周囲の凍り付いた雰囲気もはばからず、大声で泣きはじめた。
「ああ――おそろしい――このようなことが――このようなことが――!」
「ええい、どうしたというのだ?!」
「サウル様、もうわたくしはここにおられません!」
女中は激しく首を振っていた。まるで、今見た光景を、頭の中から追い払おうとしているかのようだった。
「オルタンス様が……オルタンス様があの調子でございますもの! ああ! かわいそうなオルタンス様! こころが清らかすぎるから、だからあのように魔性に魅入られてしまったのです……」
「ざ、戯れ言をぬかすのはよさんか!」
張り詰めていた塔の周囲の空気を、サウルの怒声が切り裂いた。サウルの心の内は屈辱に充ち満ちていた。右大臣ともあろう自分が、まさか女中を引き留めるために手を焼くことになろうとは!
「ああ、ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ――」
「また始まった――」
塔の内側から聞こえてくる甲高い笑い声に、居並ぶ衛兵の間からそんな声が漏れてきた。サウルがそちらを睨みつけても、衛兵たちは目配せしあうだけで、サウルを塔の中へ案内しようなどという、気概のある人物はいなかった。
(どいつもこいつも……!)
心の内で吐き捨てると、サウルはひとり、塔の中へと入っていく。
「陛下、オルタンス様……うっ?!」
塔の扉をくぐるやいなや、サウルは猛烈な血なまぐささに腸をつかれ、その場で吐いてしまった。サウルの吐いたものが、床に転げ落ちた肉塊に当たる。――カモの死骸だった。
「サウル、」
固く目をつぶってえずいているサウルの耳に、少女の声が響いてきた。少女の声は、この世の物とは思えないほど凍てついており、サウルは思わず身震いせずにはいられなかった。
サウルはおそるおそる、声のする方角へ振り向いた。サウルの正面には、オルタンスが立っている。王家の血筋に特有の、透きとおった銀色の髪に、赤い瞳。そしてオルタンスの着る羅紗の衣には、べっとりと血糊がついていた。
「サウル、どうしたのです? そんなに怖い顔をするなんて」
オルタンスは右手に、カモ握りしめていた。カモはすでに、首を絞められて息絶えている。
「へ、陛下、これはいったい――」
「ご覧なさい、サウル。どれほど芸術家が天才であろうとも、その芸術家がどれほど技巧を凝らそうとも、自然に勝る芸術はこの世に存在しないと、そうは思いませんか?」
オルタンスの指に込められた力が抜け、カモの死骸が床に落ちる。
「さ……左様でございますか、いや、左様でございましょうな」
全身から汗が噴き出していることを感じながら、サウルは慎重に言葉を選ぶ。しかしオルタンスは、サウルの言葉などまるで聞いていないかのようだった。オルタンスは左腕を、自分の肩の高さまで上げた。すると床でひしゃげていたカモの死体たちが、いっせいに宙に浮いた。オルタンスが左腕を水平に払うと、カモの死骸は一斉にブリキの缶の中へと殺到した。首のねじ曲がったカモたちが動いている有様は、サウルになおさら吐き気を催させた。
「うぐっ……?!」
「サウル、自然は才能を浪費します」
オルタンスが指を鳴らした。ブリキの缶に山積みになったカモの死骸から、煙が噴き上がり、たちどころに火の手が上がった。細かな火の粉と黒い煙が、渦を巻いて塔の上層へと吸い込まれてゆく。
「さぁ、サウル、笑いましょう」
だれに言うともなく呟くと、オルタンスは脇にかけられていた鳥かごをとった。鳥かごの中にいる鳩が、異変に気づいて金切り声を上げる。
「人の狂気とは天の正気です。だから笑いましょう――」
そのまま鳥かごを振りかざすと、オルタンスはそれを燃えさかる火の中へと投じた。サウルが聞いたこともないような鳩の叫びが一瞬だけ聞こえ、すぐに炎の音へとかき消されていった。
(狂ってやがる……)
口の中にたまっていたつばを吐き捨てると、サウルは心の中でそう毒づいた。
エリジャが辺境へと追放されてからというもの、オルタンスは狂ってしまっていた。北東の塔に引き籠もっている彼女は、商人から珍しい鳥を大量に購入しては、それを殺戮して遊ぶという奇行を繰り返していた。
だが、サウルにとって本当に恐ろしいのは、オルタンスの奇行ではなかった。幸い、オルタンスは北東の塔から一歩も出ないため、国民にこの有様が知れ渡ることはない。「オルタンス陛下は病気に伏せっておられる――」と言いくるめることだってできた。
今サウルは、オルタンスにひそむ恐るべき事実の前に立ちすくんでいた。炎に照らされ、長くたなびくオルタンスの影は、ヲンリと同じ姿形をしているのだ。
オルタンスの奇行が激しさを増してからというもの、サウルは極秘に刺客を雇っては、オルタンスを殺させようとした。少女一人を殺すことなど、造作もないこと――そのようなサウルの考えは、すぐに打ち砕かれることとなった(刺客の首を抱えながら、オルタンスはサウルに言う、「サウル、私の箱庭に死人を投げるのはやめてください」と)。
それどころか、サウルはオルタンスの魔力が日増しに強くなっていることに気づき、次第にオルタンスのことを怖れるようになった。オルタンスの魔力がかすめただけでも、サウルは必殺されるだろう。それどころか、この王国でさえ地図の上から消し飛んでしまうかもしれない。オルタンスの抱えている魔力は、それほどまでに重かった。そしてその魔力を、オルタンスはどうやらヲンリから借り受けているようなのだ。
「サウル様――! 一大事でございます!」
一人の衛兵が、カモの死体をものともせず、サウルの下へとやって来た。
「何だ、騒がしい――」
「それが、実は……」
衛兵はサウルに耳打ちする。
「なに、海賊が……東海岸に……?」
報告を聞くにつれ、サウルは自分の足が震えるのを感じとっていた。
「まさか……あそこには、たしかエリジャが……」
サウルが「エリジャ」と発音したとき、オルタンスの指がぴくりと動いたのだが、そのことにはだれも気づかなかった。