表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エリジャ姫  作者: 囘囘靑
20/43

20_賢者ヂョゼ

 アースラがはじめに知覚したのは、深い静寂だった。全身がきしむせいで、起き上がることはできない。それどころか、まぶたにはおもりがついているようで、目を開けることさえままならなかった。周囲からは、血なまぐさいにおいが立ちこめてくる。やがてアースラは、それが自分の身体から流れ出た血であると、ふと気づいた。


 自分は乞食になりすまし、エリジャ姫の下へ向かった。同行を認められるも、すぐにサウルの追っ手がやって来て、戦うはめになった。敵は逃げ去り、エリジャ姫は命拾いして、自分は――。


 自分は?


(そうか、)


 アースラは、ここで漠然と思い知った。


(わたしは、死んだはずなんだ――)


 無意識的に動かされたアースラの左手の指が、血を吸った砂利を掻く。



――……



 永遠とも思える長い一瞬が過ぎ去った後、ふとアースラの耳に


――ザッ、ザッ。


 という音が聞こえてきた。何者かが砂利を踏みしめながら、こちらへと近づいてくるようだった。


 なけなしの力を振りしぼって、アースラは目を開けた。もしエリジャ姫ならば、せめて最期にその姿を見たい、もし敵ならば、そいつの瞳を射すくめるようなまなざしを送り、一矢報いたい――アースラはそんな気持ちだった。


――ザッ、ザッ。


 アースラの手前で、足音が止まる。今やアースラの眼前にも、足音の主の姿は明らかだった。


 ひとりの少女が、アースラを見下ろしている。エリジャ姫でもなければ、アースラが憎むべき敵でもなかった。白髪をなびかせ、白磁のように凍てついた肌の色をした少女が、太陽のような金色の瞳をもって、アースラを見つめていた。彼女の姿が闇に溶けて見えなかったのは、彼女が喪服を着ていたためだ。


 喪服以外にも、少女には異様な特徴があった。喪服のあちこちから風車が飛び出しており、それらは風もないのに、反時計回りに回転していた。服に風車がついている、というより、大小の風車が、少女の身体を縦横無尽に刺し貫いているようだった。


「喜ぼう」


 首をかしげてアースラを見下ろしていた少女が、とうとう口を開いた。その声は、齢をかさねた男性のような声だった。


「わたしはなんと結構なすなどりをしたことだろう。人間を得ることなく、ひとつの死体を手に入れたのだから。だから月よ、人臭さを恐れるおまえの天体よ、どうかわたしを言祝ことほいでおくれ。わたしに認められることがなかったのならば、おまえもわたしも、どうして寂しくないことがあるだろう?」

(やはり、自分は死んだのか――)


 滔々と語る少女の言葉を耳にしながら、アースラはそう考えた。少女は死者の言葉を語れる存在、死に神なのだろう。いま、死に神がアースラの下へやって来て、アースラを死の世界へと連れ去ろうとしているのだ。


 そのときふと、アースラの脳裡に、エリジャの姿が浮かんだ。遠い昔、まだほんの子どもだった頃の記憶が、アースラの中によみがえってくる。そのとき、エリジャとアースラは、なぜかイチジクの実を互いに取っては、相手に食べさせる遊びをしていた。


 口に入りかけた亜麻色の髪を邪険にし、エリジャ姫はアースラの口にイチジクを運ぶ。イチジクの甘酸っぱさと、口元に触れたエリジャの親指の暖かさ。


(エリジャ様……)


 アースラの瞳から、涙がこぼれ落ちた。


いし、この世に未練があるな?」


 アースラの涙をじっと見つめていた少女が、唐突にアースラに尋ねた。アースラはもちろん、答えることができないでいた。しかし少女はそんなことを意に介していないのか、目を閉じ、何かを考えているようだった。


 やがて目を開けると、少女は言った。


いしのその怒り、いしのそのかなしみ……。エリジャが心配か?」


 アースラは目をみはった。アースラの気持ちを、少女はことごとく見抜いているようだった。


(この人は……)

「わたしはヂョゼ、と人に呼ばれている」


 アースラの思念を見抜き、少女――ヂョゼは、先回りして答えた。ヂョゼ――その名前を知らない魔法使いなど、この王国にひとりもいないだろう。この世界を創り出した双子の賢者の、妹にあたる方である。


(ヂョゼ様……!)


 心の中で、アースラはヂョゼに訴えた。


(エリジャ様に、どうかエリジャ様に、力をお貸しください!)

「世界を創り出すほどたやすくは、わたしは人を救えない」


 ヂョゼは言った。


「しかし、もしいしが望むのならば、わたしの力をいしに授けよう。ただしその力のために、いしは大いに苦しむこととなるだろう。いし、かなしみが尽きることをかなしむ覚悟はあるか?」

(力をお与えください!)


 心の中で、アースラは叫んだ。


(そのために、この魂が消え去ってしまうのならば、望むところです!)

「結構。ならばアースラよ、おまえはわたしの力を着て、もう一度この世に羽ばたくと良い」


 ヂョゼはここに来て、初めてアースラを「いし」ではなく、幾分かましな「おまえ」と呼んだ。しかしそのことに、アースラは気づかなかった。いや、気づく間もなかった、と言った方が正しいだろう。ジョゼがすべての言葉を言い終わらないうちに、アースラの身体は内側からエネルギーに満たされていったためだ。


「ヂョゼ様、感謝いたします!」


 ヂョゼの姿を確かめることさえせず、アースラは駆けだしていた。全身にみなぎっている力と比べ、アースラは自らの歩みがあまりにも遅いような気がしてならなかった。エリジャが去って行っただろう方角を見極めると、アースラは月夜の闇の中に走り去っていった。


――……



「アースラよ、おまえのその喜びは嘘だ」


 アースラの姿が完全に見えなくなってから、ヂョゼはひとり呟いた。


「アースラよ、おまえがエリジャに与えていた愛を、せめてその一部だけでも、自分に与えていればよかったのに」


 ヂョゼはそう言い捨てると、もと来た道を引き返していった。


 月のまぶしい夜だった。砂漠の砂がつくり出す影は、いつにもまして濃かった。誰もいない砂漠を風が通り、ただ風車だけが乾いた音を立てた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ