18_無花果の果実
「失礼するでごじます」
乞食の声を耳にして、エリジャは上半身をもたげた。馬車の壁に背を預けているうちに、エリジャは自分自身も知らないうちに眠りこけていたらしい。
鼻歌を歌いながら、乞食はエリジャの側まで寄ってくる。乞食は、大きな包みを背負っていた。
「乞食、どうかしたの?」
はっきりと口にしたつもりだったが、エリジャの声は力なく、馬車のきしむ音に遮られ、消え入ってしまった。実際のところ、かれこれ一週間飲まず食わずであるため、エリジャは背筋を伸ばしているだけで精一杯だった。
「ご主人様にぜひ、お渡ししたいものがあるのでごじます」
「あらあら」
乞食の言葉に、エリジャはぎこちなく笑みをつくろう。そんなエリジャをよそにして、乞食は背負っていた包みを下ろすと、その結び目をほどきはじめた。
「乞食からものをもらうなんて――」
エリジャが言い終わらないうちに、包みが解かれる。現れた中身を見て、エリジャは言葉を失った。
「……お気に召しませなんだか?」
夜空のような紺色の衣に、茶色い革のベルト――剣術の稽古に際して着るための服装一式が、そこにはあった。
力を振りしぼると、エリジャは手を伸ばし、胴着の襟を確かめてみる。そこには、アースラの家の紋章が焼きつけられていた。
「これは……私の大事な友達のものよ」
胴衣の肌触りを確かめながら、エリジャは乞食に尋ねた。
「あなた、どうやってこれを手に入れたの?」
「これを渡しなすった人が、『是非とも馬車で東へ向かう方へ届けてくれ』と言ったのでごじます」
覆面の乞食は、窮屈そうにもみ手をしながら、エリジャにそう答えた。
「ささ、寒くならぬうちに、このおべべを着るのでごじます」
「――悪いけれど、乞食に裸を見られるほど落ちぶれたつもりはないわ」
胴衣を自分のところへ抱き寄せると、エリジャは乞食に冷たく言い放った。
「……少しのあいだ、下がっていてちょうだい」
「……はいはい、さようでごじますか」
よっ、と声を上げながら、乞食は馬車の外へと抜け出していく。その後ろ姿が見えなくなると、エリジャは声を押し殺し、涙を流した。アースラはあの手この手を尽くし、エリジャのことを気に掛けてくれていたのだ。
(ありがとう、アースラ……!)
遠くにいるはずのアースラに思いを馳せながら、エリジャは身につけていた着物を解き、アースラの衣装を着直しはじめた。
折りたたまれた胴衣を広げた瞬間、胴衣の懐に入っていた包みが、馬車の床に転がった。
「あっ――」
エリジャが包みを拾い上げてみると、そこには大きなイチジクの実が二つ入っていた。一つは赤く熟し、もう一つはやや黒ずんでいる。
(どうしてイチジクが……?)
「――着替えられたのでごじますか?」
後ろから聞こえてきた乞食の声に、エリジャは振り向いた。乞食は、なぜか言葉を失っているかのように見えたので、エリジャはわざとらしく肩をすくめてみせた。
「ええ、だいぶ身軽になれた気がするわ」
「そうでごじますか。……はて、イチジクはありませなんだか?」
「……これのこと?」
イチジクの実を両手に持つと、エリジャは乞食の前に示してみせた。
「それでごじます。それでごじます」
イチジクを指さすと、乞食は激しく頷いてみせる。
「おべべをお渡しなすった方が、『食べ物を是非届けておくれ』と言ったのでごじます」
(アースラが、か……)
イチジクを取るエリジャの手に、自然と力が入った。
「どうかなされたのでごじますか?」
「……食べられないわ、私。だって、ここで死ぬつもりですもの」
「どうして死ぬでごじますか?」
話をするか否かで、エリジャは一瞬迷った。国の主が乞食に打ち明け話をするなど、父王に知られたら勘当ものだろう。しかしこの乞食には、なぜか心を許すことができるように、エリジャには感じられた。
肺の中の息をすべて吐ききるようにして、エリジャは少しずつ語り出した。
「裏切られたのよ、私。このまま東へ向かっても、どうせ敵の手にかかって死ぬことになるんだわ。だったらいっそのこと、ここで死ぬつもりなの。自分の生き方ぐらい、自分で決めたいわ」
もう一度息を深く吸い込むと、エリジャは乞食の反応を待った。覆面の奥から覗く乞食の目は、さきほどからせわしなく瞬きをしていた。
「むーん……」
腕を組むと、乞食は首を傾げてみせる。
「……どうしたの?」
「あっしは難しい話はわからんでごじます。なれどこれを私なすった方は、ご主人に死んでほしくはないようでごじました」
「それは……」
答えに詰まり、エリジャは目を伏せる。そのとき、エリジャの視界に、イチジクの実を包んでいた薄い布が飛び込んできた。
(この布……そうだ)
この布は、オルタンスのお気に入りのストールだ。オルタンスの誕生日に、エリジャがプレゼントしたものだ。
銀色の髪を手でかき分けながら、エリジャのことをじっと見つめてくる……そんなオルタンスのイメージが、エリジャの脳裏に押し寄せた。
(オルタンス……!)
このままではいけない、王都へ戻らなければならない、王都へ戻って、妹とアースラとにあわなければならない――そんな気持ちが、エリジャの中で急速に膨らんできた。すると突然、「断食して死のう」というさっきまでの決意が、妙なプライドのせいでうまれた、ばかばかしい思いつきのような気がしてならなくなった。
エリジャのおなかが鳴る。生きたいと思った瞬間、すごくおなかが空いてきた。
「どうしたのでごじますか?」
ややあってから、エリジャは答えた。
「乞食、あなたの言うとおりかもしれない」
「おお、そうでごじますか。これでわしも、少し賢くなったでごじます」
「このイチジクを食べることにするわ、私。でも、一人で食べるつもりはない。あなたと分かち合うつもり」
赤いイチジクをエリジャは乞食に突き出した。乞食はその場にひざまずくと、わざとらしく頭を垂れてみせた。
「ははっ。せっかくの施し、喜んでいただくでごじます」
「フフフ……」
おどけた乞食の様子に忍び笑いを漏らしながら、エリジャは黒いイチジクを口にした。何日ぶりの食べ物だろうか。甘酸っぱいイチジクの風味が、エリジャの口の中に広がってゆく。
(そういえば……)
エリジャは昔のことを思い出す。
(子どものときはアースラと一緒に、イチジクを食べてたな……)
子どもから大人へと駆け上がってゆく中で、エリジャもアースラも、もうそんなことはしなくなっていた。
しかし、王都に戻ったのならば、周囲から子供じみていると思われてもかまわないから、もう一度イチジクの実をアースラと分かち合いたい、と、エリジャはそう考えた。
イチジクの果肉を呑み込み、何気なく視線を移したエリジャの目に、衛兵たちが差し出した食事の容器が映り込んだ。
器用にイチジクの実を食べている乞食の肩を、エリジャは叩いた。
「そうだ。あなたにはあれもあげるわ。本当は私が食べる予定だったものよ」
「……あれはダメでごじます」
真剣な乞食の言葉に、エリジャは眉をひそめる。
「どうして?」
「毒が入ってるでごじます」
「毒ですって……!」
「しーっ!」
乞食の合図に、エリジャは思わず姿勢を低くした。乞食も肩をすぼめると、声を小さくしてエリジャに耳打ちする。
「まわりの兵隊たちは、ご主人に死んでほしがってるでごじます」
「そんな……。でも、さっき、隊長は『私が餓死したら自分の首が飛ぶ』って……」
「内大臣殿にとっては、隊長の一人や二人、代わりはおるのでごじます」
やせ細り、咳ばかりしている男性の影が、エリジャの脳裏をよぎった。
「サウル……!」
吐き捨てるようにして、エリジャは内大臣の名を口にした。かれを倒さなければ、エリジャはオルタンスにも、アースラにも会うことができなくなる。
「乞食、私はかならず王宮へ戻るわ。私に仕えてくれるんでしょう? だったら力を貸して」
「ははっ。せっかくのお言葉、喜んでいただくでごじます」
腰を折り曲げると、乞食は深々と礼をした。
悲劇は、真夜中に起きた。