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忘却のかなた

作者: satuki

「君にはすべてがまがい物に見えているんだろう?」

誰かが僕の耳元で囁く。混沌とした暗闇の中で、誰かの息が吹きかかるくらい近くで。

「他人の表情変化も、感情も、対人関係も。」

耳を塞いでも、その声は僕の鼓膜を震わせた。

「まわりの全てが、誰かの意図でデザインされた作り物だと思っているんだろう?」

言うまでもなく、図星の答えが聞こえてくる。そんなことは遥か昔から分かっていたことだった。

「それは間違いじゃない。僕らの生活に本当なんてどこにもない。すべての物が誰かの意図で、何かのためにデザインされている。」

その誰かって誰なんだ。こんなまがい物ばかりが横行する世界を、誰が望んだんだ。

「君の不安や疑問はそこじゃない。

 君は自分の周りに本当がないことが不安なんだ。どこかにあるはずだと、まだ期待しているんだよ。」

期待や願望を持つことが、まるで悪いことだと言われているような錯覚のする声が、僕をたまらなく不安にさせる。しかし、その声は止まることなく言葉を続けた。

「安心していい。

 君も誰かの意図によって造り出された物だ。そして、何かのために存在している。

 その何かを見付けるために生きていくのも一興だとは思わないか?

 どこから来て、どこに行くのかなんて難しいことじゃない。自分は何のために、何を目指して、どうなりたいのか考えるんだ。

 本当なんかがないのなら、いっそこの虚構の世界で踊って朽ちていけばいい。」

僕にそんな絶望的なことを言わないでくれ。誰にも何も求めず、自分だけの幸せを求めるなんて、あまりにも残酷じゃないか。それなら、いっそのこと僕は…。

「もちろん抜け出す手段はあるよ。

 だけど、目に見えない誰かの策略なのか、生き意地汚い生命力のせいか、簡単にはいかない。」

きっとこれは黒い悪魔の声だ。世界に希望も幸せも、願いすらも、純粋なものではないとうそぶいているのだ。

「ひとつだけ本当のことを教えてあげる。」

もう鼓膜を破って死んでしまいたいくらいの焦燥にかられる。

ねぇ、君は僕に何を求めているんだ。僕が絶望する姿が見たいのか?

「我々は助からない。我々は決して許されない。

 死んで出直してこいと、誰かが言ってるのさ。」

誰だ、そんなことをこいつに吹き込んだのは。

「これは事実だ。でなければ、この煉獄の中に、これだけの人間が敷き詰められる理由がない。

 辛い思いをして、苦しんで、何も見つけられなければ、またここに巻き戻されるに違いない。」

真っ暗だった混沌は、その言葉の後に初めて景色が開けた。それは単に僕が目を開けただけかもしれないが、僕の意思で世界を見ようと思ったわけじゃない。この世界の汚さを、以前から知っていたように思うから、だから僕は…。


**


僕が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。片足が中途半端な位置で吊るされていて、とても重く、何かで固定されていた。左腕には点滴、頭には包帯。

目玉だけを左に向けると、誰かいた。誰だったかは分からない。記憶がない。頭の中で、今まであって来た人の顔の大半が、霞みがかっている。その誰かは何かを語りかけてくる。どうやら心配してくれているようだ。だけど、この人に心配してもらえるような人間関係を作ったという経験がない。

消毒液の匂いが、部屋の中に満ちている。案外嫌な匂いではない。まるで僕の汚い心を除菌してくれている錯覚に陥る。

スライド式の白いドアが開き、そちらに目を向けると、白衣を着た人物が入って来た。

「調子はどうだい?」

白衣を着ているのは医者らしい。左でしきりに心配して声をかけてくれている女性が、そう説明してくれた。

「僕は誰ですか?」

目が覚めてから声に出した言葉は、とてもチープなものだった。でも、そこから始めないと、僕には話を先に進めることが出来そうになかった。僕という存在がここにあるのは分かるが、その僕自身が誰なのか、全く分からないのだ。

「君の名前は松田栞くんだ。隣にいる女性の名前は覚えているかい?」

首を左右に振る。その女性は少なからずショックを受けているようだ。

彼の説明によると、彼女は僕の母親らしい。鏡がないので、僕自身の顔を確認できないから、この女性の顔と、僕の顔が似ているかどうかを確かめる手段がない。絵空事のように相槌を打っておいた。

「僕はどうしてここにいるんですか?」

その質問をした時、僕の母親だという人は、言葉を詰まらせた。医者の方も、言葉にしにくそうにしていた。

「この中で、覚えている人の顔と名前はあるかい?」

僕のさっきの質問には答えてもらえず、彼は次の質問を僕に語りかけてきた。

彼が持っているのは、アルバムのようなもので、分厚い。表紙には『○○学校卒業アルバム』と書かれていた。きっと僕が何も思い出せなくなる前に撮った写真や名前が載っているのだろう。僕はそれを膝の上に置き、パラパラと捲っていった。

見たことのある顔は、二~三人だけだった。アルバムには、その年に卒業した人間が、沢山載っていて、ぎこちない笑顔を向けて写っていたが、僕にはそれを流し見るだけで、「ああ、この人たちが僕と同年代の人たちなんだな…」と上の空だった。

「僕は何をしたんですか?」

同じ質問を繰り返す。

「非常に言いにくいが、君は自殺しようとしたんだ。覚えていないだろうが、君にそういうことをさせたくなるきっかけがあったんだろう。学校の方では、警察の人が関係者に事情を聞いていると思う」

そうか、僕は自殺しようとしたのか…。なんか現実感がないな。そりゃそうか、記憶がないんだもんな。自分の年齢さえ覚えていない。頭の中がスカスカになっているような気分だ。何かを考えようとしても、何も思い浮かばないし、思い出せないから、考えることが何もない。ただ、枕に頭を預けて、ベッドで寝転んでいるしか出来ない。

「君が自殺未遂の動機を覚えていてくれていれば、話は早く進むんだが…。今はとりあえず体を休めた方がいい。あまり動き回れるような状態ではないし、ここに運ばれてから、君はもう半月ほど眠ったままだったんだ。それだけ体がダメージを受けたということだろう」

それだけいうと、医者はベッドから離れ、入って来たドアから出て行った。

首と眼玉を動かして、部屋の様子を確認する。壁や天井は一面白色で、僕以外、他の患者はいない。蛍光灯が灯っていることからも、今、外は暗いんだろう。分かるのはそれくらいしかなかった。

「栞、何か欲しいものある?お腹すいてない?」

この女性の名前も、年齢も、誕生日も思い出せない。後々、僕の父親だと名乗る人も来るのかもしれない。しかし、僕に判別できるのは、看護師と医者と、この女性だけだ。

そういえば、さっきから僕は一人称で『僕』と言っていたが、はたして僕は男なのか、女なのかすら判別が

付かない。名前も、なんだか中性的な感じだし、男でも女でも通りそうだ。

「僕は男ですか?女ですか?」

自分のことすらスッポリと記憶が抜け落ちていて、今の質問も、ひどく間の抜けたものに感じた。名前の分からない母親は、「あなたは女の子よ」と教えてくれた。

「年齢は?」

「今年で二十歳になるわ」

「どこかの学校に通っていたんですか?」

「電車で少し行ったところの大学に通っているわ。でも、これからはどうしようかしらね…。あなたが飛び降りるようなことをしてきた生徒のいる学校に、これからも通わせ続けるのは。母さんは、正直、気が進まないわ」

「僕はいじめられていたの?」

「みたい…。そう証言してくれた生徒、青葉さんって言うんだけど、その人の証言で、今は警察が学校を調べてくれているって」

「その青葉さんは、さっきのアルバムに載ってる人なの?」

「いいえ。大学に入ってから、仲良くなったお友達だったはずよ」

「わかった。ありがとう」

それだけ言うと、僕は瞼を閉じた。まだ夢で聞こえた声の名残が残っている。

『この世界に本当なんかない』確かにその悪魔は言った。何故かその言葉だけが、頭の中でリフレインしていた。

このまま眠れば、またあの悪魔に会うことになるのだろうか…。なんだか、恐怖というよりも、面倒くさいという感じが強く、もし、その時が来たら、僕は彼に何を言うんだろう。自分のことなのに、なんだか他人事のように思えた。

そして、蛍光灯によって、瞼の上からも眩しかった白色は消え、母親と名乗る女性もドアから出て行ったのを聞いた。普通なら、ここで非常に寂しくなるところなのだろうけれど、僕は深くため息をついて、肩の力を抜くことが出来た。

世界が暗転する心地よさを、二十歳の頃に知ってしまっていることに対しては、特に疑問を持たなかった。どうやら僕は、明るく活気のある場所よりも、暗く静けさに包まれた場所の方が、肌に合っているようだ。


**


時間は絶え間なく浪費されていく。

僕が目を覚ましてから、各種検査を受け、リハビリに時間を使うような生活が、一か月ほど続いた。その間に、青葉という女性も見舞いに来た。僕とは対照的に、明るく、眩しい人に見えた。髪はショートで、なんだかファンキーなファッションをしていた。

僕も学校に通っていた時は、彼女の影響を受けていたのだろうか?

なんだか自己主張の強い色や模様が、今の僕には近づきたくない感じがした。

彼女と何を話したのか、殆ど覚えていない。ただ、目の前にいる女性が、僕の友達なんだと受け入れるだけで、それ以外のことは何も考えていなかった。

僕の頭は悪くなってしまったようだ。僕が死のうとした時は、もっと色んな事を考えて、色んな事に悩んで、色んな事を感じていたはずなのに、今は、自分を死に追いやろうとしたきっかけをつくった人物のことさえどうでもよくなっていた。ただ、僕が覚えていた二~三人の男性が、僕と同じ大学に通っていて、その印象も、青葉さんから聞く限り、あまり良いものではなかった。

夢のような現実がしばらく続き、そのぼんやりとした心地のいい感覚のまま、僕は退院することになった。思った以上に回復が早く、自宅に着いて、自室だった部屋の机には、キャスターと書かれたタバコが置いてあった。きっと、どこぞの建物から落ちようと決心した時に、僕はこれを一服したに違いない。

その一本を抜き出して、置いてあったライターで火を付けた。文字通り、焼けた植物の煙が、僕の肺に入り、大きくむせた。これがおいしいと感じていた時期もあったのかと思うと、その頃の自分は、くさくさした気分で、毎日を送っていたのかもしれない。

僕の家は一般的な一軒家だった。特別大きくもなく、特徴も個性もない、ただの家。自分や家族を囲う箱だ。家族仲については、評価のしようがない。だって、他の家族、周辺に住んでいる人たちの家族事情も、スッポリ抜け落ちていたのだから。


**


青葉さんは、僕に頻繁に会いに来た。それこそ、大学の帰りにフラっと寄ってみました、みたいな感覚で来ることも、たまにあった。

彼女の口調は落ち着いているが、ドキッとするような言葉づかいをすることもあった。最近の若者(例外なく僕もそうなのだが)は、こういう攻撃的な会話をするものなのだろうかと、不安になった。

僕は出来ることならば、大学に復帰したいと考えていたから、そういう人間関係や、言葉の節々に現れる強い言葉に、耐えられるのか不安になった。

イマドキの言葉というのは、本人が考えている以上に、痛烈で、残酷な意味を持つことを知っていてほしいと思う。自分に対して言われていなくても、自分に向かって言われているような、そんな根拠のない不安にかられる言葉使いを、彼らはしている。具体的にどんな言葉なのか、例をあげること自体、僕にとってはしんどい。

青葉さんが帰った後、僕は大きくため息をつく。記憶をなくした人間に、親身になって語りかけてくれる人がいることは、素直に嬉しいのだが、なんだかエネルギーを猛烈に消耗してしまうのだ。まるで、仕事帰りに、自宅で一杯することが、習慣になってしまった男性のように、僕は彼女がいなくなった部屋で、キャスターを一本吸う。

この煙が僕の体を蝕んでいると知った上で吸っている。ひょっとして僕はバカなんじゃないだろうか。ストレス発散なんて、体を動かすだけでも得られるのに、あえて、一人きりの部屋に閉じこもって、タバコをふかすなんて、あまり良い傾向とは言えないだろう。記憶を失う前の自分に、段々と戻り始めているような気がする。

「結局、僕は何も変われないのかもしれない」

自殺をしようとして記憶を失っても、恋人に好かれていても、家族が支えていてくれても、僕は全然前に進んでいない。以前の状態に戻っていって、また同じことを繰り返すような、そんな嫌な予感が、僕の体の周りにまとわりついて離れない。

いずれ僕は、同じことを何度も繰り返して、その内、近い内に、死んでしまうのではないか、そんな、身も蓋もない、予感がする。


**


僕は大学に復帰した。リハビリを終えて、しばらく自宅で過ごした後、どうしても勉強がしたいと両親に言った。母親は、なんだかもの言いたげだったが、僕の父親だと名乗る男性に、「お前がそうしたいのなら、そうしなさい」と言われた。勉強なんて、進んでしたい人間なんかいない。僕の認識ではそうなっている。勉強をして、自分の優位性を高めたい人以外、そんな地道な努力はしないだろう。それに、頭が良いというだけのアドバンテージでは、結局のところ、街でバカ騒ぎしているようなアウトローにはかなわないのだ。それでも、自分に自信や存在意義を見つけるために、努力を惜しまない人のことは、あまり嫌いではない。自分のように、死のうとして死に切れなかったような人間よりかは、何倍もマシだ。僕は逃げたんだ。当たり前の日常に飽き飽きしていて、その上、学校でも自分の居場所なんかなかったのだろう。そんな現実を変えようともしなかった自分自身が、今は大嫌いだ。

あの悪魔の声は、ひょっとしたら、僕自身に住み着いている、前を向こうとしていた自分だったのではないか?なぜ、現実に向き合わなかったんだ、どうして、戦おうとしなかったのだと、自分が自分を責めていたのではないか。

自宅のチャイムが鳴った。軽い、どこの家にでも取り付けられているような、安物の音が、僕の部屋にまで聞こえてきた。

一階に降りて、玄関の覗き窓の中を見た。そこには、あのアルバムで見たことのある、男性が立っていた。僕は少し身構えて、軽い深呼吸をして、玄関のチェーンをかけてから、ドアを開けた。

「なんですか?」

誰にでも話す口調で言えたと思う。男性は、あまり元気や覇気のない顔つきで、僕の顔を見ていた。

「あの…、具合はどうかなって思って…」

「あなたですか?」

「…え?」

僕は単刀直入に彼に聞いた。彼自身、何を聞かれているのか、まるで分かっていない様子だった。

「僕を自殺に追い込んだのは、あなたなのか聞いているのです。警察の方から事情聴取があったはずです」

苦い顔をして、彼はなんとか作り笑顔を装った。まるで不出来な人形を見ているような、不快な感情を想起させるような、表情だった。

「松田さん、記憶がないって聞いていたんだけど」

「質問に答えてください」

彼の言葉も、言い逃れの為の虚構にしか感じなかった。身の危険を感じるのは、当然のことだろう。

「そのことは、警察に話した。僕たちの行動が、君の自殺未遂の原因なんじゃないか、その可能性はないかって、聞かれたよ」

「どうなんですか?あなたは僕をいじめていましたか?」

彼は、少しだけ顔を奇妙に歪め、答えづらそうにしていた。何かある、僕にしか言えない何かを、彼は知っていると暗示させるような間が空いた。

「ここでは答えられない。部屋にあげてもらえないかな?」

「僕があなたを家にいれると思いますか?ここで答えてください。でないと、家には入れられません」

「分かった。答えるよ」そう言って、彼は心底嫌そうな顔をした。苦虫を噛み潰しているような、食えないものを喉に通そうとしているような、そんな一種不気味な表情のまま、答えた。

「可能性はある。警察にはそう答えた。だから会いに来たんだ」

つまり、警察には話していない、話せないような内容を、彼はまだ持っているということだろうか?

僕はドアのチェーンを外し、彼を家の中に入れた。

「初めに言っておきますが、今、家には両親がいます。僕が抵抗しないといけないような状況になったら、人を呼びます」

ここで初めて彼は笑った。「まるで別人だね」能天気な答えをよこした後、絶対に酷いことはしないと言った。

リビングの前を通り過ぎた時、玄関の開閉の音を聞いた父親が、彼の顔を見ていた。その表情は、決して友達を連れて来た時のような、柔らかさはなく、五感の神経を家中に張り巡らせているような、そんな張りつめた空気がした。

彼は、「おじゃまします」と一言だけ、僕の父親に言って、二階への階段を上がっていった。僕はまだ警戒心を解くことが出来ず、彼を先に階段にあげた。自分の後ろを誰かが、それも、僕を自殺に追い込んでいたかもしれない人間に歩かれるのには、抵抗があった。

「そこに座ってください」

言葉こそ丁寧だが、いつでも自分が逃げ出せるように、自室の扉を薄く開け、そのすぐ横に陣取った。彼は僕の部屋の一番奥にある椅子に座らせた。

「それで、何を話してくれるんですか?」

彼は軽く咳払いをしていた。緊張とストレスで、喉が渇いているのだろう。彼が話しだすまで、しばらくその音だけが、僕の部屋にあった。

「警察に話していないことがある。そして、僕が一人で来たのは、君に伝えておかないといけないことがあったからだ。つまり、僕の友達、正確には、君をいじめていたかもしれない残りの二人に聞かれるとまずいことなんだ」

「もったいぶらずに話して下さい。僕はその二人や、あなたの顔をぼんやり覚えているだけで、名前も、学校でいじめられていたことも忘れています」

彼は椅子に座っていて、僕はすぐにドアから逃げられるように、その隣に立っていた。必然的に、彼よりも目線が高くなり、座っている彼から見たら、僕が彼を見下ろす形になる。

「それは…」

重い口を開いた言葉からは、「ハッ」と鼻で笑いたくなるような、それこそ僕が目覚めてから、自分は誰なのか聞いたくらいにチープなものだった。

話している最中、彼はずっと俯いていた。そんな彼を見ていて、僕はこの男性がそんな下らないことを話しに来たのか気になった。だってそうだろう。こんなことを個人的にすると、仲間はどう思うかなんて、誰にでも分かることだ。それを承知で来てまで話すような内容ではなかったし、あるいは、この男性の話していること自体が、何かの罠なのかもしれない。

そんな下らないことを思考しながら、すっかり元気のなくなった彼の頭頂部を、僕は黙って見下ろしていた。


**


ベタベタな展開になると分かっていて、その黒幕(という程の組織力はないが)を自宅に招いた。あの名前も思い出せない彼は、目を覚ました僕の記憶がないことを知っていたならば、何も話さず大学生活を謳歌するべきだったのだ。僕は特別犯人を突き止めて、縛り上げたいなんて思っていないのだから。しかし、彼にとって、その沈黙を守っていられるほど、肝っ玉が大きくなかったのだろう。そういう意味では、今、目の前にいる人物は、堂々としている。まるで自分は何もしていません、それはあんたの弱さの責任だと、傲慢に押し付けてきそうなほど、しっかりとした眼差しで、僕を見ていた。

「どうしたの?話したいことがあるって聞いて来たけど、なんか様子が変よ?」

とぼけているのだろう。しかし、彼女は内心、僕に聞かれることを予期している感じが、ひしひしとある。

「僕が聞きたいことは、そんなに多くないよ。君が僕をいじめさせるきっかけを作った人物だろうが、どんだけ性格がひねくれていようが、そんな些末なことは、もう気にしていない。というか、思い出せないんだ。でも、その時の僕はそのことに真剣に向き合うために、毎日に耐えていた。色んな事に悩んだし、色んな意味で辛かったはずだ」

「…だから?」

初めて彼女の声色が変わった。冷徹で非常な人間の出す、人を小馬鹿にしたような、そいつがどうなろうが知ったこっちゃないという感じがする声だ。

彼女は僕の部屋を物色するように、呑気に部屋の様子を見ていた。

「僕は別に君に反省してほしいわけではないし、ここで謝られても、曖昧な返事しか返せないと思う」

「分かった。なら、もう話は終わりよね?帰っていいかしら?」

「君のことを告白したのは、あの三人の内の一人だ。名前は言えない。覚えていない。顔をぼんやりと覚えているだけの、ただの大学生だ。さっきも言った通り、君のように、何事もなかったような対応を続けていれば、君たちは警察の事情聴取を数回受けるだけで、いつもの生活が戻ってくるはずだった」

話している最中、彼女は段々と苛立っているのが分かるような表情をしていた。しかし、非常に落ち着いた足取りで、僕のベッドにどすんと座ると、「結局、何が言いたいの」と、悪びれる様子もなく返事をした。ベッドのスプリングのせいで、彼女の体は一度、小さく跳ね、短い髪がフワッと持ちあがった。

「青葉さん、人をいじめる動機って、なんだったの?それともう一つは、それで君の生活や気持ちに、何か変化があったかい?」

白けた表情で、「そんなこと聞いて、どうすんのよ」と、鼻で笑って答えた。僕が黙って彼女を見つめていると、ハーッと大きなため息を付いて、話し始めた。

「人をいじめたのは、今回が初めてじゃなかったわ。私はね、『自分はか弱いです。だから、誰もいじめないで』って顔してる図太い女が大嫌いなんだ。そういう意味では、私はすぐあんたを攻撃することを決めたわ」

なるほど、記憶のあった時の僕は、そんな性格の女だったのか。

「二つ目の質問は、『いい暇つぶしになった』くらいにしか思わなかったわね。想像していた通り、あんたってすぐにへこんで、相談するような相手もいなかったインドア派の女だったからね。普通に考えたら、標的にされるのは当たり前じゃない。私じゃなくても、いずれは私みたいな人間に攻撃されるのよ。早いか遅いか、それだけのことじゃない」

ここまですらすらと話した後、一拍置いて、彼女はさらに続けた。

「まぁ、あんたが屋上から飛び降りれるだけの覚悟があったとは、思わなかったけどね。あれは心底驚いた」

「けれど、僕の記憶がなくなっていることを知って、安心した。でも、君はそれじゃ落ち着かなかったんだね。だから、こうして仲の良かったふりをして、足しげく家に通ってたわけだ」

キャスターを一本ひき抜くと、ライターで先端に火を付けて、煙を肺の中に入れた。深呼吸するように、発がん性物質を体に染み込ませると、不思議と、今までの話に決着がついたような、一種割り切れたような気分になった。

怒りも、恨みも、悲しみも、負の感情は一切わいてこなかった。

「説明してくれて、ありがとう。もう話すことはないよ」

自分でも不思議なくらい、彼女の痛烈な言葉は、僕の穴の空いたような脳みそを通過して終わった。そして、納得した僕は煙を吐き出して、壁掛け時計の秒針の音に、耳を傾けていた。

空は血のように真っ赤な黄昏時で、季節はもうすぐ冬の寒空になる。部屋の中に充満している空気が冷やされて、ボンヤリしていた僕の頭を覚醒させてくれた。

僕が落ちた場所は、今はどうなっているのだろう。立ち入り禁止になっているだろうか?それとも、花でも植えて、誤魔化しているのだろうか?どちらにしろ、あの屋上には、転落防止用の柵が張られ、あの場所以外にも、人が落ちるような所は、同じ処置が施されるだろう。


**


人間は計算式のように美しくない。どこかのドラマで、そんなセリフがあった。事実、彼女は大きな理由もなく、暇つぶしに僕をいじめていたらしい。その行為にどんな価値があったのか、今の僕には理解出来なかった。

ただ、僕の忘れてしまった記憶は、今もどこかで悲鳴を上げ続けているだろう。死にたくなる衝動を、きっと頭のどこかの引き出しにしまわれているのだと思う。

願わくば、その引き出しごと壊れてしまうまで、僕が生きていられますように…。

(おわり)

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