学園祭の夜
王立魔法学園が一年で最も華やぐ「学園祭」。
その最終日の夜、学園の大舞踏会は、無数の魔導灯が放つ淡い光と、色とりどりのドレスをまとった令嬢たちによって、まるで星屑を散りばめたかのような美しさに包まれていた。
「――完璧だわ。これなら、あの不器用な殿下の視線を釘付けにして、ついでに心臓を麻痺させるくらいは造作もないわね」
鏡の前で、クロエが満足そうに腕を組んで頷いた。
そこに映っていたのは、いつもの下町の町娘姿からは想像もつかないほど麗しくドレスアップした、レイアの姿だった。
蜂蜜色の豊かなウェーブヘアはハーフアップにまとめられ、細い首筋が白く際立っている。そして纏っているのは、クロエが「絶対にこれが似合うわ!」と強硬に主張して選んだ、鮮やかなベリー色のシルクドレスだった。新緑の瞳が緊張で小さく揺れ、ほんのりと色づいた頬が、ドレスの色と完璧に調和している。
「も、もう、クロエ……。なんでこんなに目立つ色のドレスにしたのよ。私は遠くからアルフレッド様を眺めて、一曲だけそっと踊れればそれで満足だったのに……」
「いいのよ、今日のあなたは『主役』なんだから。さあ、時間よ。白馬の騎士様がお待ち兼ねだわ」
クロエに背中を押され、レイアは緊張で胸をバクバクと鳴らしながら、熱気に満ちたダンスホールへと足を踏み入れた。
会場に入った瞬間、入り口付近で待機していたプラチナブロンドの美青年――アルフレッドが、すぐにレイアを見つけてこちらへと歩み寄ってきた。白銀の礼服をまとい、琥珀色の瞳を優しく細める姿は、まさに物語から抜け出してきた本物の騎士そのものだ。
「美しいお嬢さん。今夜の君は、まるで初夏の果実のように瑞々しくて、目を奪われてしまうよ」
「ア、アルフレッド様……! ありがとうございます。その、お誘いいただき、本当に光栄です……」
レイアは緊張のあまり、消え入りそうな声で答えた。
アルフレッドは品良く微笑むと、スマートに右手を差し出す。ちょうど、オーケストラが優美な宮廷ワルツの旋律を奏で始めたところだった。
「さあ、行こうか」
アルフレッドの大きな手に導かれ、レイアはダンスホールの中心へと進み出た。
学園のアイドルであるアルフレッドが、周囲から地味だと思われているシルフィード伯爵令嬢をリードして踊り始めたことで、周囲からは一斉に羨望と驚愕の視線が突き刺さる。
アルフレッドのダンスは完璧だった。無駄のない足取り、レイアを気遣う絶妙な距離感。
しかし、大好きなはずの憧れの騎士様と踊っているというのに、レイアの心は、どういうわけか奇妙なほど落ち着いていた。
胸が躍るような高鳴りよりも、どこか「これは借り物の時間だ」と告げるような、冷めた自分が心の片隅にいたのだ。
「――レイア嬢。そんなに硬くならなくていい」
アルフレッドが踊りながら、耳元でクスリと囁いた。
「ただ、少しだけ僕の肩越しに、あちらの『上級貴族用の観覧席』を見てごらん」
「え……?」
レイアが言われるがままに、ステップの旋回に合わせてチラリと視線を上げると――そこには、手すりを壊さんばかりの勢いで強く握りしめ、こちらを睨みつけている男がいた。
金色の豪奢な装飾がついた、漆黒の王族礼服。
リヒャルト王太子だった。
彼の真紅の瞳は、激しい怒りと、狂おしいほどの独占欲に燃え上がっており、その周囲の空気だけが物理的に歪んで見えるほどの凄まじい威圧感を放っていた。
(ひっ……!? り、リヒャルト様、もの凄く怒っていらっしゃるわ……!)
レイアは恐怖で背筋を凍らせた。やはり、自分がアルフレッドのような優秀な騎士と踊っているのが、王太子の気に食わないのだろうか。
「ふふ、面白いね」
アルフレッドは楽しそうにステップを刻みながら続ける。
「僕の親友は、今にも剣を抜いて僕を八つ裂きにしそうな顔をしている。……レイア嬢、そろそろ音楽の第2小節が終わる。ここからは、少し『強引な展開』になるけれど、驚かないでね?」
「え? 何のこと――」
レイアが問いかけるよりも早く、オーケストラの旋律が一段と激しく、ドラマチックな調子へと変化した。宮廷ワルツ特有の、パートナーが激しく入れ替わるパートだ。
その瞬間、アルフレッドがレイアをホールの中心で、ふわりと大きくスピンさせた。
視界が激しく回転し、蜂蜜色の髪が宙に舞う。
そして、スピンが終わり、アルフレッドの手のひらに再び自分の手を戻そうとした、その時――。
ガシッ、と。
アルフレッドの手よりも遥かに固く、力強い、あの「大きな手」が、レイアの右手を強引に掴み取った。
「なっ……!?」
驚きに目を見開いたレイアの身体が、凄まじい力で引き寄せられる。
ドン、と硬い胸板にぶつかる直前でステップが制御され、気がつけばレイアの腰には、あの下町の夜に自分を人混みから守ってくれた、強固な左腕が深く深く回されていた。
「――その手を離せと言ったはずだ、アルフレッド。彼女は私の査定対象だ」
低く、ホール全体の音楽を支配するかのような、圧倒的な存在感を持つ声。
見上げれば、息を呑むほど端正な、しかし余裕を完全に失ったリヒャルトの顔が、すぐ目の前にあった。彼の真紅の瞳が、至近距離でレイアを射抜く。
「おっと、これは失礼いたしました、殿下。……では、バトンタッチだ」
アルフレッドはニヤリと確信犯的な笑みを浮かべると、レイアにウィンクをして、流れるように人混みへと消えていった。
「あ、アルフレッド様……!? ちょ、ちょっと、リヒャルト様! 何をなさるのですか!?」
レイアはパニックになりながら、自分を抱きすくめるようにして踊り始めたリヒャルトを見上げた。
周囲の令嬢たちからは、地鳴りのような悲鳴とどよめきが上がっている。王太子殿下が、ダンスの途中で他の男から令嬢を「強奪」したのだ。前代未聞のスキャンダルである。
しかし、リヒャルトは周囲の雑音など一切耳に入っていない様子で、レイアの腰をさらに強く引き寄せ、猛烈な速度と正確さでワルツを踊り始めた。彼のリードは強引だったが、驚くほど情熱的で、レイアはステップを合わせるだけで精一杯になる。
「何をする、だと? 決まっているだろう。お前が、あのような軟派な男とだらしなく接触するのを阻止しただけだ」
「軟派な男って、アルフレッド様は高潔な騎士ですわ! それに、私たちが誰と踊ろうと、リヒャルト様には関係ないでしょう!?」
レイアも負けじと言い返す。
その瞬間、リヒャルトのステップがピタリと止まった。
ホールの中心。激しい音楽の最中で、二人の時間だけが止まったかのように、リヒャルトはレイアを腕の中に閉じ込めたまま、じっと見つめてきた。
彼の真紅の瞳が、かすかに、切なそうに揺れる。
「……関係、ないだと?」
リヒャルトの声が、押し殺したように低く響いた。
「お前は本当に……どこまで鈍感なんだ、レイア」
「え……?」
「そのドレスはなんだ。誰のためにそんな……ハニーベリーのような、愛らしい格好をしてきた。アルフレッドのためか? あいつに、そんな顔を見せるために着てきたのか……!」
リヒャルトの手が、微かに震えていた。その表情には、いつもの傲慢な王太子の面影はなく、まるで大切な宝物を他人に奪われそうになって焦燥する、一人の男の剥き出しの感情があった。
「私は……お前が他の男を見つめるたびに、胸が張り裂けそうになる。お前が私に牙を剥くのは構わん。だが、他の男にその笑顔を向けるのだけは、絶対に許さん」
「り、リヒャルト様……?」
レイアは、あまりの衝撃に言葉を失った。
彼の言葉は、嫌味でも小言でもない。それは、紛れもない――隠しきれない「独占欲」と「恋慕」の証明だった。
(嘘……。リヒャルト様、私のことが……好きなの……!?)
その瞬間、レイアの頭の中で、これまでの彼の不可解な行動のすべてが、一本の線で繋がった。
学園で見かけるたびに小言を言ってきたのも、下町の路地裏でわざわざハンカチで頬を拭いてくれたのも、人混みで絶対に手を離さなかったのも。
すべては、不器用すぎる彼なりの「特別扱い」だったのだ。
ドクン、ドクン、と。
レイアの胸の奥で、これまでにないほど激しい、そして熱い鐘の音が鳴り響いた。
アルフレッドへの憧れが、淡い星の光だとしたら、今、目の前で自分を焦がさんばかりに見つめるリヒャルトの瞳は、すべてを焼き尽くす烈日の炎のようだった。
「……私の、負けだ、レイア」
リヒャルトは自嘲気味に呟くと、彼女の手をさらに強く握りしめた。
「もう、お前を逃がさん。覚悟しておけ」
音楽がグランドフィナーレを迎え、盛大な拍手がホールを包み込む。
その中心で、レイアは真っ赤になった顔を隠すように、リヒャルトの漆黒の胸の中に、そっとおでこを押し付けることしかできなかった。
二人の歪な恋の歯車が、ついに噛み合い、爆発的な音を立てて回り始めた瞬間だった。




