何でもするからどうか目を開けて、と彼は私の死体に取り縋って泣いた
――この方です。
意志の強そうな青い瞳がまっすぐにキリアンを射抜いた。
まるで雪の妖精のような、あるいは雪の結晶のような、今にも儚く溶けてしまいそうな、それでいて揺るぎなく確かな存在が。
――この方が私の番です。
キリアンにとってこの世で最も美しい娘が、まっすぐにキリアンを射抜いた。
§
冬が到来すると、城では夜の静けさを笑い飛ばすかのごとく、かがり火を灯して舞踏会という名の酒宴に明け暮れる。
偉大なる族長ドゥーガルの息子にして、この春に成人の儀を終えたキリアンにも無論出席の権利と義務があり、彼は面白くもなさそうな顔を隠しもせず、隅の方で仲間たちとつるんでいた。
漆黒の髪と、滴るような蜂蜜色の瞳。まだ大人になりきっていない、線の細い体つき。
中身もまだ到底大人とは言いがたかったが、自他ともに認める剣の腕と、いささか強過ぎるきらいのある自我、そしてその下に見え隠れする、上に立つ者の度量から、周囲の少年たちは自然と彼に傅いていた。
「誰だ、あれ」
「エーニャだよ。見違えたな。小さい頃は繭みたいに不恰好だったのに」
ひそひそと囁きかわす仲間たちの視線の先に、同年代の娘がいる。
プラチナブロンドの艶やかな髪に、宝石のような青い瞳。折れそうに細い体を包むドレスもまた髪色に近い柔らかな白で、その立ち姿はまるで雪の妖精のようだった。
「エーニャ……ああ、あの病弱か」
父の腹心の娘だ。ほとんど喋ったこともないが、キリアンの記憶の中にいるエーニャは、いつも掛布にくるまれて、ぼんやりと日向ぼっこをしている青ざめた子供だった。
エーニャが彼らの視線に気づいたように、ふと顔を向けた。
「……こっちに来る」
「まずい。噂してるのがバレたか」
何気なさを装いつつ、仲間たちが小声で囁き合う。キリアンが不敵に笑った。
「それが何だ。俺が追い払ってやる」
迷いのない足取りで、まっすぐこちらに向かってくるエーニャは途中からほとんど駆け足になった。白いドレスがひるがえり、何事かと誰もがエーニャを見る。
エーニャは頬を上気させ、キリアンの前で立ち止まった。
「姫……」
「この方です」
それは泡を食って追いかけてきた従者に向けた言葉だったが、エーニャは一瞬たりともキリアンから目を逸らさなかった。
「この方が私の番です」
――何を、戯れ言を。
番とは互いに惹かれ合い、求め合ってやまぬという運命の相手である。人の儚い世においては出会うことも稀とされ、出会ったからには死すら二人を引き離せない。
広間にどよめきが走った。
あの気位の高いキリアンが跪き、エーニャの手を取って口づけたのである。
キリアンは呆然としていたが、彼の行動がすべてを物語っていた。
「よくやった! この世で最も幸運な男よ!」
上座から族長ドゥーガルの陽気な声が響いた。番同士がもうける子は皆、必ず強く美しい。跡取り息子が番を得たということは、これからの一族の繁栄が約束されたようなものだった。
「キリアン!」
キリアンは周囲の手を振り払い、逃げるように立ち去った。
「何という態度だ……」
「混乱しているのでしょう、今は……」
大人たちの声が遠くに聞こえる。キリアンは石造りの狭い階段を駆け上がり、城の露台に飛び出した。身を切るような風が吹きすさび、空には無数の星が瞬いている。
俺は今、何を……。
――この方が私の番です。
嘘だ!
あんなのは俺じゃない。俺であるはずがない。
キリアンは石畳の上で崩れ落ちた。
俺じゃ……。
否――。
どんな否定の言葉を紡ごうと分かっていた。
キリアンの心臓は既にあの娘のものだった。
§
キリアンはありったけの矜持をかき集め、すぐに平静を取り戻した。
あの夜は慣れない酒に酔い、少し不覚を取っただけ。もう二度と得体の知れぬ何かに心を操られることはない。キリアンは自身にそう言い聞かせ、まるで何事もなかったように、以前と変わらず狩りや男同士の付き合いにいそしんだ。
「キリアン」
「何か用か」
「一緒に……」
「断る」
エーニャが会いにきたからといって、向かい合ってお茶を飲むこともない。優しく声をかけることもない。ましてや跪いて手を取るなど。
皆が眉をひそめるほどキリアンの態度は冷淡で、キリアンが眉をひそめるほどエーニャはキリアンにまとわりついた。
「キリアン」
「またお前か」
その声で俺の名を呼ぶな。どうか。
エーニャはキリアンのしかめ面を見ても、「会えて嬉しい」と幸せそうに笑う。キリアンが追い払わないのをいいことに、いつまでもキリアンの後ろをちょこちょことついてくる。
そのうちエーニャは城に部屋を与えられた。キリアンの居室のすぐそばである。いつでもどうぞという訳だ。冗談ではなかった。そんなことが仲間たちに知られたら何と言われるか。
「番とは、心が引き寄せられるものなんだろう?」
「俺たちに聞くなよ……」
「感じないんだ、そういうのを」
それは事実だった。エーニャに対して心惹かれるということがない。一緒にいて満たされるという実感もない。番ではないのではという疑念こそなかったが、キリアンにとって番とは、目に見えぬ煩わしい鎖のようなものだった。
キリアンの自由な魂を縛る、忌々しい透明な鎖。
「それより、エーニャとはもう……?」
「止めろ」
ほらこういうことになると思った、とキリアンは心の中で毒づいた。世間一般の基準から見ても、エーニャは並外れて美しい。キリアンはそんな彼女をいつでも閨に引き込んでいいと言われているも同然で、しかもそれを城中の者が知っているのだ。
だが、キリアンは番の本能に屈するのも、皆の思惑に乗せられるのも真っ平だった。
キリアンは細心の注意を払い、エーニャを避けるようになった。
部屋から出る時は、窓からロープを垂らして伝い下りるという徹底ぶりである。城の中を歩いていても、エーニャの気配を感じればすぐに進路を変えた。
そんな張り詰めた日々が続くうち、少し気が緩んでしまったのだろう。ある日、キリアンはエーニャの気配に気づかず、彼女のすぐそばを通ってしまった。
薄く開いた扉の奥でエーニャは泣いていた。
あまりにも激しく泣いていたから、エーニャが何と言っていたのかは分からない。キリアンに分かったのは、いつも笑っているエーニャが癇癪を起こした赤子のように泣いているということだけだった。エーニャの周りにいる女たちが彼女の背を撫で、ある種の諦念をにじませた声で慰めた。
「少しだけ待っておあげなさい。男の子の方が成長は遅いもの」
――言ってくれる。
それが誰を指しているのか分からないほど、キリアンは間抜けではなかった。そうとも。女たちの理屈では、男は常に獣か幼子だ。
キリアンに思うところがない訳ではなかったが、怒鳴り込むほどのことでもなかった。そもそも女たちに何が分かる。キリアンはただ心を強く持ち、得体の知れぬ何かに屈服することを頑として拒んでいるだけだ。男という生き物は常に己の意思で物事を決め、道を切り開いていくものである。
キリアンは部屋にいる女たちから見えないところで壁に背を預けて座った。
キリアンの心音とエーニャの心音が同調し、エーニャが次第に落ち着きを取り戻していく。
「ありがとう、何だか心が落ち着いたわ……」
エーニャがいつもの穏やかな声で、女たちに礼を言った。女たちが可哀相なエーニャに代わる代わる口づけを降り注いでいる気配。
エーニャが夢見るように呟いた。
「番がこんなに苦しいのなら、私はキリアンの番じゃなくなってしまいたいわ」
キリアンは無意識に手を伸ばし、自身を縛る透明な鎖を確かめるように撫でた。
そうなればどんなに素晴らしいかと心から思っている声で、エーニャは確かにそう言った。
§
キリアンの方で避けずとも、エーニャとは顔を合わさなくなった。
エーニャが自分の意思でキリアンを遠ざけている。
キリアンは正直ほっとしていた。少し距離を置くのは悪いことではない。エーニャのように夢見がちな年齢の娘がちゃんと理解しているか知らないが、番とは要するに番うことである。そんなのはもっと後でいい。正式に結婚し、エーニャの腰が出産に耐えられるほどしっかりと肉をつけてから。それまでは互いに干渉せず、それぞれの領分を守っていればいいのである。
だが、それでいいと思っていたのはキリアンだけだった。
その日、キリアンは仲間たちと森を訪れていた。冬枯れの木々の下、仕掛けておいた罠を見て回る。お目当ては猪だった。この時期の猪はたっぷりと脂が乗っている。いい肉を食わしてやらなくてはと丁度思っていたところだった。
――いた。
一際大きく、獰猛そうなのが罠にかかっている。猪は罠に足を挟まれ、身動きできない状態だったが、迂闊に近づけばあの大きな牙でザクリとやられてしまう。キリアンが慎重に近づき、止めを刺そうとした時だった。
「――キリアン!」
キリアンは急に体をごっそり切り取られたかのように、地面に膝をついた。仲間の一人がキリアンの体をつかみ、今にもキリアンに襲いかかろうとする猪から引き離す。別の仲間が猪の喉を掻っ切った。
「キリアン、大丈夫か」
キリアンは頷くが、一人では立っていられなかった。仲間は手早く獲物の血抜きを済ませ、獲物とキリアンを橇に乗せる。
「キリアン、しっかり」
「何ともない……急げ、城へ」
キリアンは朦朧としながらも、うわ言のように「城へ、早く」と言い続けた。こうしている間にも、キリアンに絡みついていた透明な鎖が煩わしい重さを失っていく。理由なんて考えたくもなかった。間に合ってくれ。どうか。
橇が城の前に到着するや否やキリアンは飛び降りた。重く積もった雪に足を取られながら中へ急ぐ。
泣いているのは誰だ。
城を覆うこの悲痛な空気は何だ。
「エーニャ!」
荒々しく開いた扉の先には、変わり果てた姿のエーニャがいた。
エーニャは出掛けていたらしく、冬外套をまとっていた。髪も体もずぶ濡れで、まぶたは固く閉じられている。
「エーニャ、なぜ……」
「それが……」
こちらもまた濡れ鼠となっていたエーニャの従者が、真っ青な唇を開いた。
ぶ厚く凍った湖の上を通っている時、まるで水の魔物に魅入られたかのように、エーニャの足元にだけそれは美しい亀裂が走ったという。亀裂はすぐそばを歩いていた侍女と従者には目もくれず、エーニャだけを冷たい水の中に呑み込んだ。従者は近くの集落に助けを求めに走り、エーニャはほどなくして引き上げられたが、彼女の心臓はとっくに動きを止めた後だった。
「エーニャ……? 目を、開けて……」
キリアンはエーニャのそばに呆然と座り込んだ。肺が一気に年老いたように、喋ることも息をすることもままならない。キリアンはエーニャの体の下に腕を入れ、水を吸って重くなった外套と、その中にいる軽くて瘦せっぽちのエーニャを抱き上げた。
「エーニャ、笑って……」
いつものように。肩をくすぐる雪のひとひらのように。「キリアン」と囁いて、いつも惜しみなく見せてくれるあの笑みを。
「エー……ニャ……」
やっと知った。
その名を唇に乗せるだけで至福。
今なら分かる。
この人が私の番であり唯一。
どうして、今なのだろう――。
キリアンはエーニャに取り縋って泣いた。
「エーニャ、エーニャ! 何でもするからどうか目を開けて!」
キリアンの番。キリアンの唯一。だが、どれほど叫ぼうと、エーニャにはもうキリアンの声は届かない。生からも番からも解放されたエーニャは、それは安らかな顔をしていた。
「……エーニャを綺麗にして、棺に入れてやれ」
族長ドゥーガルの指示で、キリアンはエーニャから引きはがされた。
エーニャは女たちの手で清められ、死に装束として美しいドレスを着せられた。あの舞踏会でまとっていた、雪の妖精のようなドレスだった。棺は広間に安置され、埋葬は明日と決まった。冬の日が暮れるのは早く、外はもう暗かったから。
キリアンは貴人の棺を守る竜のように、エーニャのそばを離れなかった。
ずっと一緒にいるのは当然だった。キリアンはエーニャの番なのだから。生きていても死んでいても、最後の最後までそばにいる。
棺の中でぴくりとも動かず横たわるエーニャの、まるで眠っているような稚さは、掛布にくるまって日向ぼっこを強いられていた幼い頃のエーニャを思い出させた。
みんなと同じように走れなくてつまらない、と思っているのがありありと分かる表情で、エーニャは大人しく掛布にくるまっていた。透けてしまいそうな薄さとは裏腹に、なかなかどうして気概のあるやつだと思ったのだ。
エーニャは意外と感情が顔に出る。
それから多分、本当はまあまあ気が強い。
――この方が私の番です。
あの時は、番を見つけてすっかり興奮してしまったんだろう。
「ごめん、エーニャ。ごめん……」
その声は夜のしじまに溶け、決してエーニャに届くことはない。たくさんの後悔と、数少ないエーニャとの思い出がキリアンの胸にだけ降り積もる。冬の夜は死のように長い。
真夜中を少し過ぎた頃、広間に灯されていた明かりが揺れた。扉が大きく開き、外の冷気が吹き込んでくる。棺にもたれてまどろんでいたキリアンが身を起こし、不寝番を務めていた騎士たちも身構えた。
開いた扉から白銀の狼が引く豪奢な橇が滑り込んでくる。キリアンは目を疑った。あり得ない。誇り高き狼たちが橇を引くことも、偉大なる族長ドゥーガルの居城に、見知らぬ橇が我が物顔で入り込むことも。
エーニャの棺が独りでに浮き、狼たちが引く橇にぴったりと納まった。
「待て……」
広間にいる者はその場から一歩も動くことができず、キリアン以外は声も出せない。開け放たれた扉から橇は悠々と出立し、広間には魔法のように深い眠りが訪れた。
一夜明け、昨夜の顛末は族長ドゥーガルの知るところとなった。
「何が起きた」
ドゥーガルに問われ、長老の一人が重々しく口を開いた。
「エーニャは冬の女王に見出されたかと」
「まことか」
他の長老たちも頷いて同意を示す。同席していたキリアンが息を吹き返したように尋ねた。
「では、エーニャは」
「生と死のはざまで眠っている。遥か遠い北の果て、冬の女王が治める白一色の国で」
雪と氷を司る、荘厳なる冬の女王――。
かの女王は美しいものを、とりわけ冷たく美しいものと、悲しく美しいものを好む。
女王に見出された美しいものは、女王の城を囲む塔のひとつに納められ、白一色の国をいつまでも彩る宝石となるのだった。
キリアンがゆらりと立ち上がった。
「では、塔を暴いてエーニャを起こせば、エーニャは俺のものだ」
「キリアン、馬鹿は止せ!」
吹雪のように攫った宝物が別の吹雪に攫われたとて、それは自然の摂理である。女王が躍起になって奪い返しにくることはないが、かといって奪還は決して簡単なことではない。女王の住まう国の前には恐ろしい魔物の森が広がっていた。運よく生きたまま森を抜けることができたとしても、今度は女王の城を守る氷の衛兵たちが立ちはだかる。
「並みの人間には無理だとて、このキリアンにできぬとでも?」
キリアンが傲然と言い放ち、ドゥーガルが天を仰いだ。
「好きにさせろ」
族長がそう吐き捨てた時にはもう、キリアンはとっくに部屋を飛び出していた。
キリアンは逸る気持ちを抑え、入念に支度を行なった。携行食、短剣と弓矢。橇は今日一番調子の良い犬たちに引かせる。魔物の森の近くまで行ったら、そばの集落に橇を預けて森の手前まで送ってもらおう。キリアンは宝飾品を手に取り、彼らへの返礼は何がよいかと思案した。これがいい。この琥珀を嵌めた銀の腕輪ならきっと喜ばれる。
出立の準備を整え、橇に向かっていると、キリアンはどこかで見たことのある娘に呼び止められた。
「エーニャ様のことでお話が……」
そう言われ、キリアンはようやく思い出した。確かエーニャの侍女だった娘だ。随分思い詰めた表情をしている。
「何だ」
侍女が周囲を気にする素振りを見せ、キリアンを物陰へと誘導した。寄り道をしている時間はないが、エーニャに関することならばとキリアンは大人しくついていく。周囲に人影がなくなると、侍女は目を潤ませて口を開いた。
「エーニャ様はあの日、大鴉の魔女のもとを訪れていました」
そういえば、エーニャがどこに行っていたのかという疑問は、すっかり頭から抜け落ちていた。
ドゥーガルの領地に住む魔女のうち、大鴉の魔女は最も強い魔力を持っていた。それ故に、悩み迷える者たちが魔女を縋り、その門を叩くことは稀ではない。
「……何の為に」
「番を感知する器官を封じてもらう為です」
成程――。
キリアンの耳元で、いつかのエーニャの声がこだました。
――番がこんなに苦しいのなら、私はキリアンの番じゃなくなってしまいたいわ。
あらゆる秘術に通じるあの魔女ならば、番を番と認識できなくさせる術も知っているに違いない。
そうか、お前は。
俺の番であることを止めたのか――。
「キリアン様、もしエーニャ様を取り戻すことができたとしても、エーニャ様はもうあなたを番と認識できません」
そうだな。そういうことになる……。
呆然と頷くキリアンに侍女が突然抱きついた。
「どうか行かないでください……!」
キリアンは反射的に侍女を振り払った。
「キリアン様……!」
背後で侍女が泣き叫ぶ。
それが何だ。
たとえエーニャがキリアンを番だと認識できずとも、それがエーニャを諦める理由にはならなかった。
キリアンは橇へと走りながら、たった一つのことだけを祈った。
どうか雪原よ、晴れ空よ。
あの人へと続く道を指し示してくれ――。
§
キリアン、どうか泣かないで……。
あなたが抱いているのは私の死体?
そう、私は死んだのね。一瞬のことだったから、あまり実感がなくて。
それよりも、今あなたに抱かれていることが嬉しい。今の私はその温もりを感じることができないけれど。
キリアン、私はずっとあなたに恋をしていた。
憶えている? あなたがたった一度だけ、私に話しかけてくれた時のことを。
温かい日差しの下に連れ出され、おばあさんのように日向ぼっこをしていた私のそばに、いつの間にかあなたが立っていた。
あなたのことは少しだけ知っていた。
族長ドゥーガルの自慢の息子で、男の子たちのリーダー。蜂蜜色の目をした、ツンと澄ました黒猫のような男の子。
男の子なんて幼稚で低俗で、皆ろくなものではない。私は気づかぬふりをしてやり過ごそうとした。
でもね、キリアン。
――お前も大変だな。
あなたはそう言って、私の額をよしよしと不器用に撫でたのよ。
あなたにとっては取るに足らないことだったでしょう。でも私にとって、それは永遠の宝物になった。
気づけば私はあなたのことを目で追うようになっていた。
あなたの弾むような身のこなしを。太陽のような蜂蜜色の目を。私にはない眩しさのすべてを。
あの舞踏会で、あなたが番だと「分かった」時は天にも昇る気持ちだった。
私は高揚を抑え切れず、あなたが最も嫌がるやり方で、あなたと私が番だと明かしてしまった。
あの夜の私は愚かにも、あなたが私と同じ思いだと信じて疑わなかった。
私たちの悲劇の始まりね。
私が進んで囚われた甘美な檻に、あなたは全身全霊で抗った。まだ抗えるだけの余裕があった。
一般に、女性よりも男性の方が、番に強く惹かれるようになる時期は遅いそうよ。でもその分、番を求めるようになると、その渇望は男性の方が格段に強いのだとか。
だから、少しだけ待っておあげなさい、なんて――。
いつまで待てばいいの?
そんな日は本当に来るの?
私は追いつめられ、少しずつ正気を失っていった。
あなたからはただの一度も、気まぐれの優しささえ与えられなかったから。
大鴉の魔女のところへ行ったのは賭けだった。たとえあなたを番だと認識できなくなったとしても、あなたへの愛は変わらない。私が番を降りたことをあなたに伝えるよう、侍女のケイラに命じたのも私。それを聞いても、あなたがほんの少しも心を乱す様子がなければ、喉を突いて死のうと思っていた。
まさかケイラがあなたを誘惑する為に、その話を持ち出すなんて。
でも、あなたはケイラを振り払って出立してくれた。
あなたは私があなたのものにならないと分かっていても、私の為に命を懸けてくれた。
一面の雪野原を進む、燃えるようなあなたの目が好き。雪原に堕ちる直前の、最後のきらめきを放つ太陽よりも美しい。私が冬の女王なら、迷わずあなたを塔に入れるのに。
何日もの孤独な旅を経て、橇と犬たちの預け先として立ち寄った集落で、あなたは大歓迎を受けたわね。驚くようなことではないわ。族長ドゥーガルの見目麗しい跡取りが来たというだけでも大騒ぎなのに、その跡取りがここに来た理由というのが、冬の女王の国へ単身乗り込み、番を取り戻す為だというのだから。
あなたが彼らへの贈り物として持ってきた銀の腕輪は、とてつもなく高価なもの。
こういう金銭感覚のズレは、いかにも族長様のご長男様だわ。
でもこの大盤振る舞いのおかげで、あなたは常にあなたの先を進み、行く手を照らしてくれる不思議な松明を借り受けることができた。あなたの矢じりに布が巻かれ、松脂がたっぷり染み込ませられた。
氷の衛兵が最も嫌がる武器を、あなたは手に入れた。
たっぷりと眠った翌朝、魔物の森に乗り込んだ後もあなたは無敵だった。
あなたとともに進む白銀の狼はこの森の主よ。少し大きめの狼だとあなたは思っているようだけど。
あなたは森に入って早々、魔物に食われそうになっていた人間の子供を助けたでしょう?
あれはこの狼の子よ。人間の子に化けていたの。
誰かを騙そうという魂胆はなく、純粋にどこまで上手くできるか試していたみたい。あの子はきっと後で母狼にカブカブ叱られたことでしょうね。
あなたはあの子を思わず助け、あの子がさっさと逃げた後、「あっ。あいつ、もしかして魔物だったか……?」とぼやいていた。
可笑しいったらないわ、キリアン。その通り、魔物の森に人間の子供がいるはずがない。
でも、そのおかげで森の主というこれ以上ない同行者を得たのだから、あなたはやっぱり強運の星の下に生まれたのでしょう。
森の主は最後までとことんあなたに付き合ってくれるそうよ。彼らの深い家族愛に感謝しなくては。
さあ、私がいる塔はこっち。
「蛍……?」
馬鹿ね、真冬にそんな訳がないでしょう。これは私よ。
私が道案内をしなければ、どの塔に私がいるか、あなたには分からないでしょう?
あら、森の主が乗れと言っているわ。ぐずぐずしていないで乗って。
ああ、美しいわね、キリアン――。
どこまでも白一色の、道なき道を松明が照らす。
ほら、女王の国が見えてきた。
あなたは松明の火を矢に移し、氷の衛兵たちを次々に倒していく。衛兵たちはあかあかと輝く炎と太陽のような熱い瞳に貫かれ、為す術もなく溶けてゆくばかり。
あなたが塔に到達する。あなたを乗せた森の主が塔の側面を駆け上がり、窓を割って中に飛び込んでくる。
「エーニャ!」
四柱式寝台で眠る私の頬は薔薇色に輝いている。
あなたが私の愛を得られぬと分かっていながら、私の為に戦い、私を取り戻しにきたことへの高揚で。
ところで、キリアン? 仮にも乙女が眠っている寝室に、何の躊躇もなくずかずかと入ってくるのはいかがなものかしら。そういうところが朴念仁だというのだわ。
ああ、でもお行儀の良い少年のように、破れてぼろぼろの手袋は脱いでくれるのね。
小さな傷と火ぶくれだらけの手で、あなたは私の肩を揺らす。
「エーニャ」
温かい手に誘われて、私はゆっくりとまぶたを開く。
滴るような蜂蜜色の瞳がすぐ目の前にある。
何よりも眩しいその色が、焦がれるように私を見つめている。あなたの綺麗な顔も、よく見れば傷だらけ。本当にここまで大変だったのね。私はうっとりとあなたを見つめ、あなたに助けられて身を起こす。私があなたに見惚れているとも知らず、あなたは私が起き抜けでぼんやりしているだけだと思っている。
「エーニャ、迎えに、きた……」
そう言って、あなたは突き飛ばされるかもしれないと子供のように怯えながら、私の体をそうっと抱きしめる。傷だらけのあなたが私を抱きしめる。
私は番ではない男の抱擁に応えない。
でも私はあなたと違い、番を感じないからといって冷たく振り払ったりもしない。挨拶程度の軽い抱擁くらいなら返してもいい。
私はあなたの背に腕を回し、あなたを優しく抱きしめる。
「エーニャ、エーニャ……!」
あなたは私の腕の中で泣く。
私の唯一。私の番。
ああ、キリアン。私たち幸せね。私たちの思いは今、ぴったりと同じ。でもあの憎たらしいケイラは許せない。あの女を殺してと言えば、あなたは殺してくれるでしょう。そこまでしなくていいけれど、二度と顔は見たくない。城からは追放して。
私は軽く首を傾げ、張り巡らした柔らかな蜘蛛の糸で包むようにあなたを抱く。あなたはもう二度と離すものかと言わんばかりに私をきつく抱きしめる。
「エーニャ、エーニャ……」
ここにいるわ。愛おしい私の唯一。
互いの心音が重なる。触れ合ったところから愛が満ちてゆく。
私たちはそうやって、いつまでも抱き合っていた。
(完)




