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誰がためにサポは叫ぶ──心理学と哲学で見る熱狂的サッカーファンの精神構造

作者: 風野千佳
掲載日:2025/11/14

本投稿は、noteに投稿したものを改題、一部改稿したものです。

noteの方では図も入れていますので、もしよろしければそちらもご覧ください。

https://note.com/c_kazano/n/n37817ed7fa27

0.はじめに


サッカースタジアムで起こる光景は、外から見ると不思議に映るかもしれない。

人々は自分の人生に直接関係のない試合の勝敗に一喜一憂し、ゴールが決まれば拳を突き上げ、喉が枯れるまで声を張り上げる。

なぜそれほどまでに熱狂するのか。


このエッセイでは、主にJリーグにおける熱狂的なサポーターの行動を、心理学と哲学の両面から分析する。

彼らの熱狂は単なる娯楽や偶発的な興奮ではなく、現代社会における自己認識の手段であり、共同体との関わりを通じた自己実現のプロセスである。

チームや選手の勝利を祈る姿の背後には、代理的達成、帰属意識、非日常体験としてのカタルシス、そして他者の欲望への同化といった複雑な心理構造が存在する。


サポーターは何を求め、どのように自己を確認し、どのように共同体と関わっているのか。

このエッセイでは、こうした問いに向き合い、サッカー観戦という現象の深層に迫っていく。




1.夢を託すという病──代理的経験と自己実現の幻


スタジアムでゴールが決まると、ゴール裏で声を枯らして応援していた人々は同時に沸き立ち、叫び、抱き合う。

その光景は、理性の介入を許さないほど純粋な感情の爆発である。

だが冷静に考えれば、彼らはボールを蹴ったわけでも、試合を動かしたわけでもない。

にもかかわらず、その勝利を自らのものとして受け取り、敗北をまるで自分の失敗のように痛感する。

この奇妙な感情移入の構造こそ、サポーターという存在を理解する鍵である。


心理学的に見れば、そこには「代理的経験」という概念が働いている。

人は他者の成功や栄光を、自分の成功と重ね合わせることで、現実では得られない達成感を擬似的に体験する。

サポーターは、自らピッチに立てない代わりに、選手という「代理者」を通じて自己実現を果たしているのである。


この構造が現代社会において強く機能するのは、自己実現がもはや誰にとっても困難な課題となっているからだ。

SNSの発達によって他者の成功が可視化され、どれほど努力しても「上には上がいる」という現実を突きつけられる。

現代人はもはや、個人としての達成に希望を見出しにくくなっている。

その中で、サッカーという「舞台」は、自己実現の幻想を他者に託すための装置として機能している。

選手が戦い、倒れ、勝ち取るたびに、観客は自らの無力さを一時的に赦される。

彼らは「自分の代わりに戦ってくれる誰か」を必要としているのだ。


複数のチームで聞かれる「俺たちの夢をのせて戦え」というチャントは、この心理構造を驚くほど端的に言い表している。


「夢をのせる」とは、言い換えれば「夢を手放す」ことでもある。

自己実現を他者に委ね、その成果を共有することによって、人はかろうじて生きている実感を取り戻す。



では、チームに夢を託すとき、私たちはなぜサポーターという共同体に帰属するという形をとるのか。次はその構造について見ていきたい。




2.「俺たち」という呪い──帰属と自己肯定の構造


スタジアムで耳にするチャントの多くは、「俺たち」という主語で歌われる。

「俺たちの誇り」「俺たちの街」「俺たちのチーム」。

そこには、個人の存在が完全に溶け、集団としての「俺たち」が前面に立つ。

サポーターという存在は、個人としての意識を一時的に捨て去り、「俺たち」という仮構の共同体に身を委ねることで成り立っている。


マズローが示した欲求階層説によれば、人間は生理的欲求や安全欲求の次に「所属と愛の欲求」を求める。

他者と繋がり集団の一部であると感じることは、人間にとって生存と同じくらい根源的な欲求である。

都市化が進み、地域共同体や家族関係が希薄になった現代社会において、スタジアムは「帰属」を取り戻すための数少ない場所のひとつとなっている。


Jリーグが「地域密着」を掲げて発展してきたのは偶然ではない。

サポーターはクラブを通じて自らの「地元」と再接続し、同時にその地域アイデンティティを再構築している。

ユニフォームを身にまとい、同じ歌を歌い、同じ敵に怒る。

そこでは「地域」が「感情の共同体」へと変換されていく。


社会心理学者タジフェルの「社会的アイデンティティ理論」は、この現象を理解する上で重要な視点を与えてくれる。

人は自らが属する集団を通じて自己認識を形成し、その集団の評価を自己評価に重ね合わせる。

「自分は〇〇というクラブのサポーターである」という意識は、単なる嗜好や趣味の表明ではなく、自己概念の一部となる。

ゆえに、チームの勝利は自己の肯定へと転化し、敗北は自己の否定として響く。

サポーターが「俺たちは負けた」と言うとき、それは比喩でも誇張でもない。

彼らの心の中では、本当に「自分が負けた」のである。

チームの順位、サポーター集団の評価、応援文化の強度──それらすべてが、自己の価値を測る指標となっている。


サポーター達が「俺たちの応援が日本一だ」と言い合う光景もまた、この構造の延長にある。

応援の力強さを誇ることで、集団の価値を確認し、同時に自己肯定感を補強している。

声の大きさ、旗の数、動員数──それらは単なる表現手段ではなく、「自分たちはここにいる」という存在証明でもある。


「俺たち」という言葉は、連帯を生むと同時に、同調を強いる。

そこに安らぎと誇りがある一方で、異質なものを排除する力も内包している。

サポーターという共同体は、現代社会における宗教的装置のように、人々のアイデンティティを支えると同時に、縛りつけてもいる。

それがこの章のタイトルにある「呪い」である。



さて、サポーターという共同体が宗教的装置としても働くことに少し触れたが、スタジアムという空間での行為がどのような意味を持つのか、次章で見ていく。




3.世界の意味を再確認する──スタジアムという聖域


人間の営みのほとんどは、日常という平坦な時間の中で繰り返される。

朝起きて、通勤・通学し、仕事や勉強をこなし、家に帰る──その繰り返しの中で、世界は徐々に意味を失っていく。

日々の出来事は個別には重要に思えても、全体としての意味は希薄である。


しかし、スタジアムに足を踏み入れた瞬間、時間の質は変わる。

そこには日常では得られない非日常が広がっている。

ユニフォームを着ることで、個人としての属性は脇に置かれ、サポーターという存在としての役割が立ち上がる。

観客席のどこかで知らない誰かと肩をぶつけ、同じチャントを歌い、ゴールが決まれば声を揃えて喜ぶ。

これらの行為は、単なる娯楽ではない。

人々は共同体として、時間を意味あるものに変換している。


宗教学者ミルチャ・エリアーデは、宗教儀式の時間を「聖なる時間」と呼んだ。

それは、ただ宗教が神聖さを重んじるからそう呼んだのではない。

日常から切り離され、象徴的な行為を通して世界の秩序や意味を再確認する時間、それが聖なる時間である。

スタジアムで起きることも、実質的には同じ構造を持つ。

応援というリズム、チャントという言語、旗やユニフォームという象徴──これらはすべて、サポーターたちを日常から切り離し、意味と目的を集中させる装置として機能する。


ここで重要なのは、サポーターの「主体性」である。

個々人はピッチに立つわけでも、戦術を決めるわけでもない。

しかし、自らの声や体を通して、観戦体験を積極的に構成することで、非日常の意味を実感することができる。

ゴールの瞬間の歓喜は、単に勝利への反応ではない。

それは共同体的カタルシス──集団としての欲望と期待が解放される瞬間である。

このカタルシスを得るために、サポーターは日常の多くの時間を投じる。

遠征バスに揺られ、時には雨に打たれ、声が枯れるまで歌う。

その過程で生まれる熱狂は、勝利や敗北を超えた「意味の実感」そのものであり、サポーターにとっての現実の一部となる。


スタジアムは、現代における一種の宗教的空間であり、人々はそこに来ることで「意味のある時間」を確認する。

選手たちの動きは象徴となり、チャントや拍手は儀式となる。

この空間で起きることは、日常の延長ではなく、集団としての自己を確認するための、特別な時間なのだ。



こうしてスタジアムという聖域で得られるカタルシスや意味の実感は、単に集団としての興奮にとどまらない。

その熱狂の背後には、観客一人ひとりが選手や他のサポーターの『欲望』を媒介にして、自らの心理的充足を構築しているという構造が隠れている。

次章では、この他者の欲望がどのように連鎖し、勝利への渇望を形成するのかを考察する。




4.本当に渇望しているのは──他者の欲望の連鎖


サポーターはゴールに歓喜し、勝利に一喜一憂する。

しかし、よく考えてみると、彼らが欲しているのは本当に「勝利」そのものだろうか?


ピッチ上の選手にとっての勝利は、自己実現であり、生活の安定であり、プロとしての誇りの象徴である。

だが、観客席から眺める私たちにとって、勝利は直接の生存や生活の条件ではない。


ここでフランスの精神分析家ジャック・ラカンの言葉を引用したい。

「人間は他者の欲望を欲望する」──つまり、人は自らの欲望だけでなく、他者が欲しているものをも求める。


サッカーに置き換えれば、選手たちが勝利を渇望するその姿を、サポーターもまた欲しているのだ。

勝利そのものではなく、勝利を渇望する他者の存在が、観客の興奮の源泉である。

選手が全力で戦う姿、諦めずにゴールを目指す姿、そして勝利の瞬間に抱き合う姿──サポーターはそれを見たいのであって、勝敗の数字自体が問題なのではない。

だからこそ、敗戦後のSNSでは「戦っていない」「もっと本気で勝ちにいけ」といった投稿で溢れかえる。

それは単なる批判ではなく、他者の欲望が自分の中で満たされていないことへの不満なのだ。


この連鎖は、勝利の意味を複雑にする。

選手は自らのために勝利を目指す。

サポーターは選手の欲望を通じて、擬似的な自己実現を果たす。

このとき、勝利は手段であり、目的は他者の欲望に自分の欲望を重ねることにある。

さらに言えば、サポーターは互いにこの欲望の連鎖を確認し合う。

チャントを歌い、旗を振り、拍手を重ねる行為は、単なる応援ではなく、「私たちは同じ欲望を抱いている」という確認儀式でもある。

勝利への渇望は、個人の欲望ではなく、集団としての欲望として表象される。

こうしてサポーターは、勝利を媒介として自らの存在を確認し、集団に帰属するのだ。


結論として、サポーターが求める「勝利」は、純粋な結果ではない。

それは他者の渇望を自分の渇望として体験することで得られる心理的充足であり、同時に共同体的アイデンティティを強化する装置である。

勝利の歓喜は、現実の勝利そのものではなく、他者の欲望の反映であり、サポーター自身の存在確認の鏡なのだ。




5.誰がために応援するのか


ここまで四つの側面からサポーターの心理構造を見てきた。

代理的達成による自己実現の代行、共同体への帰属による自己肯定、スタジアムという聖域でのカタルシス、そして他者の欲望を欲するという連鎖──


それらはすべて、「応援」という行為が究極的には自己のために行われていることを示している。

サポーターは選手のために戦うのではなく、チームの勝利のために存在するのでもない。

自らの存在を確認し、意味を感じるために応援する。

勝利や敗北に揺さぶられる感情は、外的事象への反応であると同時に、自己の内面を映し出す鏡である。

したがって、応援とは「他者を通じて自己を構築する行為」であり、サポーターという存在は、現代社会における自己実現の代替装置として機能している。

その構造を理解することで、我々はサッカー観戦という現象の根底にある人間的欲望──「他者を介してしか自分を感じられない」という根源的な構造──に行き着くのである。




6.おわりに


ここまでの分析を読んで、「それではサポーターとは欺瞞的な存在にすぎないのか」と感じた人もいるだろう。

確かに、応援は自己完結的な行為である。

「チームのために」と言いながら、実際には自らのために声を上げている。


だが重要なのは、その自己完結性を自覚した上でなお熱狂することだ。

自分の欲望を他者に投影し、共同体に身を委ねることの中にこそ、人間の複雑な誠実さがある。

欺瞞を知りながら、それでも歌う。

他者を通してしか触れられない「自分」というものを、あえてその場に差し出す。

その矛盾の中でこそ、応援は盲目的な熱狂ではなく、意識的な祝祭へと変わる。


だからスタジアムで歌え。叫べ。

その声が誰のためでもなく、自らの存在を確かめるためのものだと知ったうえで。

その自覚こそが、サポーターという行為に、自由と真実の熱を宿すのだ。

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