第二章 ⑥
「何があっても、僕達は友達だ。いや友達以上だ」
と守親は言った。
「要するに俺達は友達以上の仲間って事」
宗太郎が言う。
「仲間かぁ」
宗太郎に続き真弘が口にした。
「仲間、ねぇ」
いつ集まっても、退屈そうな顔をしている康太が言った。
悠人と蓮は無言のまま膝を抱え雑草をむしっている。
学校が終わってから集合する場所は決まってここだった。
皆、一旦、家に帰り、自転車に乗ってやって来る。
1番遅くなるのは決まって悠人だった。
学校から家までも、家からここからまでも、他の奴等より1番遠く離れた場所に住んでいるからだ。
それでも悠人は面倒くさがる事も嫌な顔も見せず、集合となれば必ず姿を見せた。
そしていつものように先に来た奴等と同じく土手縁に自転車を横倒しにしたまま、土手を駆け降りる。
降りた場所には既に皆んな集まっていた。いつもと同じだ。
そして悠人は気が合う蓮の側へ向かい同じように座った。そして今、皆んなは守親が言った事を考えていた。
「友達は、都合が悪い時には遊んだり出来ないけど、仲間は違う。都合が良かろうが悪かろうが関係ない。誰かが集合をかけたら、一目散に駆けつけるのが仲間なんだ」
俺達は仲が良いと宗太郎は思っていた。何処に行くのも一緒で全員が集まれば何でも出来ると思っていた。だけど、隼人があのような事になってからというもの、自分達の信じる仲間というものが、実は簡単に壊れてしまうものだという事を知らしめられた気がした。
仲間がいなくなる筈がない。仲間なんだからいつも一緒の筈だ。大人になっても、それはずっと続くものだと誰もが信じていた。隼人がいなくなってしまうなんて誰が思った?考えた?
俺達の誰一人としてそんな風に思った奴はいなかった。だが隼人はあんな事になった。
6人の硬い絆で結ばれていた筈の俺達仲間の中から、隼人という1人の仲間を失った。そして今、隼人が抜けたその場所から、仲間というものから綻びが生じ始めている。
守親を筆頭に皆んな意味は理解していなくても、何かを肌で感じ取っていた。だから守親は集合をかけたのだ。
宗太郎には守親の気持ちが良くわかった。だから守親の言葉の後を継いで、話をしてみだけど、やっぱり今は、集合をかけるべきではなかったのだ。
守親に意見はした。皆んな隼人の身に起きた事で相当ショックを受けているのだ。
なのに守親は宗太郎の言葉に耳を貸す事はなく、こうして集合を呼びかけた。そしてこれから守親が話すだろう事も、全員予測はついていた。
そしてまだ口には出さないが全員が守親のその提案には反対だった。
俺達小学生に何が出来るというんだ。
名探偵コナンじゃあるまいし、俺達は少年探偵団のように日々事件に首を突っ込んだり巻き込まれたりはしない。それに事件なんてそう簡単に解決なんてしやしない。
そんな俺達の雰囲気を感じ取ったのか、守親の言葉に熱が帯び始める。
だが誰一人として、真剣に聞く奴はいなかった。
「とにかく僕達で放火魔を捕まえよう」
皆が思った通り守親はそういい、今夜から夜廻りをするから、夜の12時にここに集合しようと付け加え、1人土手を登っていった。自転車を起こし
「12時だからね!」
土手から下を見下ろしながら守親はそう言った。自転車に跨り颯爽と去って行った。
けど残った俺達は守親が去った後、話をし、それぞれの都合などを聞いた上で、集合時間に誰1人、ここへ集まる事を嫌がった。誰一人賛成もしなかった。
その事に対し守親を除く俺達全員は、守親に対し少しも悪いと思っていなかった……
どこを眺めても人、人、人だらけだった。
その瞬間、溜め息が出て透明な何かを背負わされているかのように、全身に負荷を感じた。
あいつらと会う時は決まってあの日の夜の事を思い出す。それは守親にとって辛く悲しい出来事だった。
当時、誰も携帯なんて持っていなかった。そんな小学生が遊ぶ約束をする時は決まって会った時に次に遊ぶ約束をしたものだ。
それら全てがその場の口約束だった。けど誰もがお互いを信頼し合っていた。それで充分だった。家族との急用が出来た時だけ、家電を使うことはあったけど、家電なんてその程度のものに過ぎなかった。そんな子供が、ある目的により夜中に家を抜け出すと決めた時、そこにあるのは仲間への忠誠心と犯人を許せないという気持ちだと守親は信じていた。
だが、あの日の夜、その信頼は失われた。翌日、皆んなは寝ちゃったとか、抜け出せなかったとかへらへらした表情を浮かべ怒っている僕にそう言い訳をして来た。
勿論、皆んなの言い分も理解はしているつもりだった。それなら何故、あの川原で話し合った時に、そのような事が起きる可能性を僕に話してくれなかったのか。
大人になった今だからわかる。あの時点で、皆んなにとっての僕は信頼に足りるような友達ではなかったという事だ。
それも悲しいが、それ以上に悲しいのは、そんな皆んなと今でも友達という括りで付き合いがある事だった。
約束の場所へ近づくにつれ僕の足は錘をつけられているかのように重くなった。
もうこれ以上歩きたくないと心にある言葉はどうしても口をついて出る事はなかった。ただ今は茫然とその場に立ち尽くす事で、自分の迷いの活路を見出す事しか出来なかった。
行き交う人の群れは、守親の迷いなど眼中にすらないとスマホを見ながら通り過ぎて行く。
ガードレールに両手を付き、繁華街の入り口を見つめている守親はそのような人達が羨ましく思った。
その人達は上手に人を避け、ある者は帰路へと向かい、ある者は繁華街へと足を踏み入れていく。それぞれが目的地へ向かって入れ違い、僕の側を行き来した。
その人達を照らす赤や黄色、緑や白の派手なネオンがやけに眩しく感じられて、それを避ける為に守親は顔を伏せた。
あんな約束なんてするんじゃなかったと思った。
今更かよと自分を罵ってみるが、まだ、どうしても約束した場所へと行く気になれなかった。
再び顔を上げると余りの人の多さに更に気持ちが落ち込んだ。
視点は繁華街の入り口を向いているのに、何故か僕自身が物凄い速度で回転する台に乗せられているかのように背後の風景や人の姿が透過し始めている感じがした。
まるで自分の後頭部に巨大な目があり、それが見開いたかのようだった。背後を行き交う多勢の人達はその目で見る限り守親の目、つまり背中で感じる違和感だけで、その人達はいびつな姿をしているように映った。
あるビルはゴムのように伸び始め、行き交う人々は巨大な天の圧縮機に潰されたみたいに、ひまわりの種のように小さくなって燻んだ色を放ちながら上空へと舞い上がって行く。
そしてひまわりの種と変貌した人々は伸びたゴムのように揺れているビルの上を旋回している。
そのひまわりの種となった人達はやがて大きな目を形取った。執拗に瞬きを繰り返し守親を見下ろしていた。
守親は未だガードレールに両手をついて繁華街から目が離せずにいた。いや実際には後頭部に生まれた目が捕らえている世界に身動きが取れないだけだった。
その時、ドンッ!と誰かが僕にぶつかった。
「ボケっと突っ立ってんじゃねーよ、バーカ」
既に充分過ぎるアルコールが回っているのか、ぶつかった人は左、右へと今にも転びそうになりながら道を進んで行った。
その衝撃と言葉によって、上空で起きていた妄想?幻想のような巨大な見開いた目は一瞬の内に忽然と消えて行った。
同時に見えていた背後の景色も遮断され、現実へと引き戻された。すかさず繁華街を行き交う人の群れやネオンの輝きが守親の目の前に広がった。
「あぁ……やっぱり来るんじゃなかった」と思った。
いや。来たらいけなかった。だがあいつらは僕の事を仲間だと言った。
「仲間なんだから何があろうと集まらないと駄目だろ?」笑いながらいう宗太郎の言葉に、あの日、深夜1人で土手で待っていた自分の姿が重なる。何が仲間だ、そんな言葉を簡単に口にするな。心の中ではそう思っていた。けど宗太郎に本音をいう事は出来なかった。
守親はへらへらと会話を続け「うん。行くよ」と返した。
今更だけどあのように軽はずみに約束をしてしまった自分を呪いたくなる。今すぐ帰ってベッドに潜り込みたかった。
そう思いジーンズの前ポケットに押し込んであるスマホを取り出した。
横断歩道の信号が明滅し始めたのか、僕の側を足早に人々が行き交う。
既にお酒が入っているのか、それとも無理矢理テンションを上げておかないとこの後の事が乗り越えられない何かが待っている人達なのか、そういう連中がはしゃぎながら横断歩道を走り出した。
既に赤信号になったのだろう。複数の車からクラクションが鳴らされた。繁華街に響くそれらの音は、先程のテンション高めな連中へ向けてられていた。
車内から発せられる侮蔑的な言葉にテンション高めな奴等が怒声を発しながら中指を立てて見せた。
それらの声を聴きながら、僕はカードレールに継いた両手を離した。
ポケットの中が汚れているのか、取り出したスマホの画面が埃っぽかった。手で払ってから、届いている通知をタップした。
「今、どこよ?」
「皆んな来てるぞ?」
「まさか場所がわからないとか?w」
「バックれ無しだからな」
複数からの連絡は、僕の気力を再びマイナスへと下降させた。今度は完全に腰を落としどう返すか考えた。既読もついてしまった事だから無視する訳にもいかない。
何もこの集まりに女の子がいないから行きたくない訳ではなかった。昔は、と言ってもほんの7年前だけど、その頃はここまで考えないようにしていた。その振りも上手かった。
けど、7年が過ぎた今、あいつら4人はこの世界で1番会いたくない人間TOP4に昇格していた。
それは僕だけが大学受験に失敗した事も関係はある。あいつらに負い目や引け目を感じていると自覚したのは、皆んなが就職をして半年が過ぎた頃だった。その時も余り会いたくはなかった。
けど、それは今ほどではなかった。でも実際、会ってみると全員スーツにネクタイ。黒か茶系のバックを持ち、少し底が削れた革靴を履いていた。
その中にバンTとジーンズ、裸足にクロックスを履いて現れた僕を見た時のあいつら全員の目は、
凛々と輝いていた。
自分は勝ち組だと思ったのか、それとも別な何かを感じたのか、それは僕にはわからなかった。
ただ僕が直感的に受け取ったのは見下されてるな、だった。
そういう目の輝きが、あいつら全員の目の中にあった気がする。まるで今からこの目からレーザービームが出ますよ、みたいにその目力に僕はコテンパンに打ちのめされた。それでもその場は何とか堪え耐え切っけど、自宅に戻ってから3日間、何をする気力も起きなかった。
「浪人してでも行くべきだったんじゃね?」
そう言ったのは真弘だった。幾分飲み過ぎた感のあるトロンとした目でそう言った。集まった他の連中にも同意を促すかのように、真弘は
「な?な?お前らもそう思うだろ?」
7年という歳月が長いのか短いのかは、当人がどう生きたかで変わるものだと今更ながらに思った。高校時代の仲間はみな、当たり前のように標準語で会話している。田舎育ちの同級生が集まっているのにだ。方言は一言も出なかった。
そんな場所へ僕を最初に呼び出したのは、高校時代バスケ部だった宗太郎だった。
宗太郎は前年末、実家に帰省していたらしく、その時、僕が東京で暮らしている事を耳にしたらしかった。よせばいいのにうちの親も宗太郎からの電話で僕の携帯番号と住所を教えたのだ。
どうしてそんな事をしてくれたんだよ!
そう、お母さんを怒鳴りたかった。けど勿論、僕はそんな事を言える筈もなく、あーそう。ならその内、宗太郎から連絡あるかなぁくらいで止めておいた。
そして年明け数年ぶりに皆んなと会い、真弘があのような言葉を僕に言ったのだ。
「敢えては、聞かないけど卒業してからまともな生き方をして来なかったのは確かだな」
蓮が言った。
「言ってやんなって。そんな事、守親が一番わかってんだろ。な?そうだよな?」
真弘が言った。
この時ばかりは僕は大してお酒は強くないのに、やたらと喉が渇くせいで、ひたすらにカルピスサワーをお代わりをしていた。
僕が頷くのを見て康太が言う。
「まぁさ。今の時代、大学出てなくたって稼げる方法は幾らでもあるじゃない?」
「YouTuberか?」
真弘が言った。
「それもだけど、TikTokもだし、詳しくは知らないけど株?FXとかいうやつ?そんなのとかさ」
「情報商材屋もあるし」
「ま、ネットを介して色々幅広く稼げる方法はある訳だ」
「でも、守親がYouTuber?株?似合ってねーよな」
蓮が言った途端、全員がバカ笑いした。
涙目で真弘が
「だとしても、もう遅いだろ?」
「出尽くした感は否めないよね」
康太が言った。
「その中から誰も気づいていない新しい物を見つけるのって、それこそセンスが無いと無理だろうし」
真弘が大声で店員を呼ぶ。呼び出しボタンあるだろ、と蓮が真弘を軽く小突いた。
「お?そっか。そうだったな」
まるでシューティングゲームをやっているかのように、真弘は呼び出しボタンを連打した。
「それでも結局は大卒って肩書きが、1番強いよ」
康太の意見に、僕以外の皆が同意した。
「別に職業差別じゃないけどさ。大卒だったら高卒や中退なんかより、職業選択肢が大きく違うからな」
蓮が言う。その言葉に僕以外の奴はあーじゃない、こうーじゃない、そういうのあるよな、的な会話を繰り広げていた。その言葉は異国語のように僕の耳にまとわりつく。それが不快でたまらなかった。
「おい、守親、顔色悪いけど、大丈夫か?」
宗太郎が言うのが早く、僕はテーブルの上に嘔吐した。その後の事はよく憶えていない。
真弘や蓮、宗太郎に湊人が対処したらしかった。
言わないけど、色々汚しまくったらしく、弁償代も払ったようだった。
あの時、自分がどうやって家に帰ったのか今でも思い出せない。
住所は宗太郎が知っていたから、無理矢理タクシーに乗せてこの住所まで送ってくれとでも言ったのだろう。
ただ唯一憶えているのは、タクシーに押し込まれる中、「こいつ何で東京いるんだろうな」と言う言葉で、誰が言ったかまでは記憶になかった。
あのゲロ吐きから後、数度の飲み会に誘われ、嫌々参加したけど、その度にゲロ吐きをネタにいじられた。それが嫌なわけじゃなかった。ただ、高校生の頃のように、いじられても心から笑えなかった事が1番辛かった。
引け目を感じる必要など無いのはわかっていた。けど、やはり感じずにはいられなかった。当然だ。あいつらはしっかり社会人として生きている。社会にも会社にも必要とされているに違いない。税金だって自分と違い遅れたりする事なく払っている。
こんな中に再び飛び込んだ所で良い事などある訳がない。
「今日は俺が守親の分、出してやるから」
持ち回りみたいに、いつもそうやって僕の分を誰かが支払ってくれた。割り勘だから出すと言っても、「フリーターから金取れるかよ」の一言で全てが終わってしまう。
それに平気で甘えられるメンタルが備わっていれば良かったのに、生憎、自分にはそのメンタルは持ち合わせていなかった。
走馬灯のように過去の飲み会が頭の中を駆け巡る。
帰りたい。けど、約束は破りたくなかった。僕の中で気心が知れた仲間は僅か数年で気遣いする知り合いに変わってしまった。
勿論、大学入試に失敗した時から自分だけが、自分だけが、と卑屈になっていたのは確かだ。
でもその時、皆んなは僕に何をした?何もしなかった。当然だ。僕が逆の立場でも、何も出来やしない。
だからこのまま無視して返信すらしたくなかったが、僕は今いる場所を打ち込み、再度、起き上がった。繁華街の入り口と向かい合い、信号が青に変わると大きく深呼吸をした。
たかが数時間の我慢だ。さっきの男みたいに無理矢理テンションを上げ乗り切るしかない。
バイトを首になった事は黙っていよう。
社員採用を検討してくれていると嘘でもつこうか。それでもあいつらの会社に比べたら社員になった所で、扱いはアルバイトと変わらないような気がした。
首にされて良かったな、横断歩道を渡りながらそう思った。その原因は僕にあった。100%僕が悪い。遅刻は当たり前。無断欠勤にたまに早退。こんなバイトなら、寧ろいない方がマシだ。
僕が店長でも首にする。組まれたシフトもまともにこなせないのだから。僕という人間をあてにするほど、大人は馬鹿じゃない。こんな事を繰り返して何年だよ。ほとほと自分に嫌気がさす。何で東京にいるんだ?この言葉は真理をついているなと守親は苦笑いを浮かべながら横断歩道を渡り切った。
繁華街に入り、少ししたら左手に曲がるといつもの居酒屋の看板が見えた。足取りが重くなるのは自覚していた。やっぱり田舎に帰って実家の酒屋を手伝った方が良いのかも知れない。
居酒屋が入っているビルの前に立つ。8階建の5階にその居酒屋があった。無意識に溜め息が出る中、一歩、踏み出そうとした時、非常階段の方から激しい怒声と足音が聞こえて来た。そちらを見ると、青ざめた表情の人達が、駆け降りて来た。
咄嗟にその中の1人に声をかけた。
「4階で火事だよ!」
そう言ったっきり、駆け出して行った。
僕はわけも分からず、立ち尽くしていると、
「火事だぞ、火事!逃げろって!」
見知らぬ若い男に怒鳴れ、僕は数歩後ずさった。少し離れた場所から4階を見上げる。ガラス窓がオレンジ色の炎に包まれていた。パリッという音がした瞬間、道路側にある窓ガラスが一斉に割れ破片が周囲に飛び散った。それを避けようと僕は駆け足でビルから離れた。炎が怪獣のように顔を覗かせた。
その炎を見た瞬間、宗太郎達が5階にいる、と思った。
「4階から上の非常階段も燃えてんだよ!」
必死に逃げて来たのか両膝に手を置き、身体を屈めている人の声が耳に入った。
「すげえガソリン臭かったから、多分、イカれた奴がガソリン撒いて火をつけたっぽい」
「5階に友達が……」
思わず口に出た言葉に、逃げて来た人なのか、
「無理だって!」
と僕の腕を掴み怒鳴った。
「4階から上見てみろよ!」
僕は言われるがまま視線を上げた。見慣れた店舗名のカッティングシールが貼られている窓ガラス。悠人はいつも窓ガラスの席が良いと言っていた。その窓ガラスにオレンジ色の炎が映っていた。
放火した奴は4階から上へとガソリンを撒いて火をつけて行っているのか?
けど、ガソリンを店舗内に撒いたら臭いで誰かしら気づくんじゃないのか?酒に酔っている連中ばかりだとしても、店員だっているのだ。
そんな事を考えるのは、5階の窓ガラスが炎によって割れたからだった。耳を塞ぎたくなるような悲鳴が轟いた。猛々しく燃え盛る炎が窓ガラスから顔を覗かせた姿を見て僕はその場で膝から崩れ落ちた。
けたたましいサイレンと野次馬の声。その中で駆け回る消防隊の人達。警察官が野次馬達を遠ざける為に必死に警備にあたっている。
その多くの人達の足元だけが目に焼き付いて離れなかった。
気づいたら僕は火災現場からかなり離れた場所の地面に座っていた。その間、誰かが僕に話しかけて来たが、何と答えたのか覚えていなかった。
いきなり腕を掴まれ引き起こされた。その人物は僕に何か尋ねて来たけど、何を言っているのかわからなかった。訳がわからないと答えると、その見知らぬ誰かの手によって僕は繁華街がら連れ出されて行った。
「本当大丈夫?」
地下鉄の改札前で見知らぬ誰かはそう言った。
「少しは落ち着いた?」
顔を見ると心配そうな表情でこちらを見つめる瞳の大きな女性がいた。半分になったミネラルウォーターのペットボトルを僕へと突き出す。
「丸の内線で良かったんだよね?」
僕はペットボトルを受け取ってそれを一気に飲み干した。
「ごめん、何が?」
「何が、って、君の家があるのが丸の内線だって言ったからじゃない」
「え?そんな事言った?全然覚えていない」
「やっぱりなー」
女性はそう言うと僕の手から空のペットボトルをひったくった。
「ほとんど、錯乱状態だったからね。君」
銀の丸打ち眼鏡の奥にある瞳が微かに動いた。
電灯のせいか薄いピンク色に見える。肩付近まである黒髪のショートカットで、首には何処かの民族の紋様のようなタトゥーが施されていた。
痛くないのかな。僕は無意識に自分の首を触っていた。
「錯乱?」
「そ。みんな死んじゃった。死んじゃった。あいつもこいつも、みんなみんな焼け死んじゃったじゃん!あいつら良い会社に就職してたんだ!でも火に焼かれたんだ。誰かに焼き殺されたんだ!って君は喚き散らしてさ。心配して近寄る人達に向かって駄々っ子の手足をバタつかせ暴れてたんだから」
女性が話すその光景が僕の頭の中にありありと浮かんだ。大人な癖にそんな事になっていたなんて……みっともないと言うか。恥ずかしいったらない。
「で、君がそんな僕をなだめてここまで連れて来てくれたんだ?」
「そうね。大変だったけど」
「ほんと、すいませんでした。ありがとうございます」
僕は深々と頭を下げた。
「で、サヨナラの前に1つ聞いてもいい?」
「良いですけど……」
「あの放火のあったビルに知り合いでもいたの?」
その言葉で割れた窓ガラスから現れた猛々しい炎と悲鳴が呼び覚まされた。
いきなり胸の中に大きな碇をぶら下げられたみたいに、全身が重くなる。同時に動悸のような鈍い痛みがした。
「5階の居酒屋に5人の同級生が……」
守親がいうと女性はバックから手帳を取り出し、何かメモをし始めた。パタンと手帳を閉じるとバックへしまう。その仕草を見てこの人は、新聞記者か何かだろうか?と思った。
「ひょっとして記者さんですか?」
「あ。ん?違うよ」
「けど、僕の話を聞いて何かメモしてたから」
「あーうん。そうね……なんて言えばいいのかな」
そう言ってその女性は僅かに口を閉じた。
「友達を亡くした事、残念に思う。けど、君が助かって良かった」
「それ、どういう意味ですか?」
僕は友達を、小学生からの仲間だった筈の奴等を、恐らくあの火事で失ってしまった。逃げ出せていたなら絶対に僕に何かしらの連絡はある筈だ。だけど……
スマホを取り出し画面を眺める。連絡は1つも来ていなかった。つまりはそういう事だ。
「どういう意味?そのままの意味だけど?」
「僕は友達を、いっぺんに4人も、信じたくないけど多分、失ったんですよ?よく僕だけ助かって良かったなんて言えますね」
「それの何処が悪いわけ?本当の事じゃない。悪いけど、君の事も君の友達の事は何も知らないし、興味もない。けど、君とは偶然にも火災現場で出会った。その分だけ君の友達の事よりは君を知ってる。だから良かったって言ってあげたんだけど。少しは感謝して欲しいわね。でもね。いい?君は助かった。これが現実。助かった事が良かったと言って何が悪いの?それとも何?君は死にたがりな奴なわけ?あの炎に焼かれて友達と一緒に死ねたら良かったと、そう思ってるわけ?」
「いえ、そんな事は……」
「君だって自分は助かって良かったと思ってるでしょ?」
思っている。あんな風に死にたくはない。隼人が放火で殺されて以来、そんな死に方だけはしたくないと思っていた。
けど僕は自分が助かった事に心底安堵している事を、この女の人に悟られたくなくて、その気持ちを口に出す事が出来なかった。