第十章 ⑤⑤
ジッポライターのオイルは簡単に買う事が出来た。タバコ屋のおばさんは昔買いに来た時より、随分と歳を取ったみたいだった。
その分だけ僕が成長したという事なのだろう。
オイルを手にしてレジに持って行く時、当時断れた時のことを思い出して、微かに手が震えた。
緊張してるのは自分でも良くわかっていたし、心の中で何度も落ち着け雷鳥。大丈夫だ。咎められたり売らないなんて言われたりはしない。両親を連れて来なさいなんて事は絶対にない。だから堂々とするんだ。
そう言い聞かせていたが封筒からお金を出す時、逆さにしてしまい思わず小銭を落としてしまった。
「大丈夫かい?」
おばさんはいい、しゃがみ込む僕の方に少し身を乗り出しながらそう言った。
小銭を拾うとそれはズボンのポケットにしまい、千円札を2枚取り出しレジに置いた。
「袋はいるかい?」
迷ったけど、自転車の籠にそのまま入れるのはまずい気がして貰う事にした。
おばさんはオイルを2缶袋に入れた後、お釣りを手渡してくれた。
「お父さんに頼まれたのかい?」
「はい」
「最近は、ここら辺りじゃジッポなんて使う粋な人はそうは見かけないからねぇ。都会じゃどうか知らんけど、火をつけるだけなら100円ライターで事足りるけんな。だからオイルなんて買う人なんてのは本当珍しいんだ」
「そうなんですか」
雷鳥はペラペラと余計な話をしだしたこのおばさんが腹立たしかった。
けど下手にうるさい!早くしろなんて言えやしないから、渋々、話に耳を傾けた。
「あら、そうだ。お父さん、石は持ってんのかい?」
「石?なんですかそれ」
「僕は知らんのか。まぁそうやろなぁ」
おばさんはいい、石と呼ばれる物が数個入っている小さなプラケースを四つ、僕に手渡した。
「これ、サービス」
「ジッポに必要なんですか?」
「当たり前よ。この石がないとオイルを入れても火はつかんけん」
おばさんは話を聞いてくれる事が嬉しいのか、少し待っちょれやと言って店の奥に消えて言った。
数秒の後、戻って来たおばさんにの手には古びたジッポライターが握られていた。
それを僕の目の前でバラバラにして、石の入ったプラケースから小さな黒いチョコのような物を取り出した。
それをジッポのオイルを入れる箇所の端にあるネジを開けた。そのネジの先には長いバネがついていて、そのバネが石を押し込み着火する箇所へ押し出す役割を果たしているのだという。
おばさんは石をバネが入っていた小さな穴の中に入れると、再びバネ付きのネジを閉めた。
そして詰めてある綿にオイルを浸し、ジッポの外側のケースの中にしまった。
数回、車のタイヤのホイールのような形をしている物を回して着火して見せてくれた。
「こうやらんとジッポは使えんのよ」
おばさんはいい、その古びたジッポを僕の前に突き出した。
「このジッポ、僕にあげるさね」
「いいんですか?」
「ええよ。古いもんやし、もう使う人も死んでおらんようなったからな」
きっとこのジッポはおばさんの旦那さんが使っていたのかも知れない。
「大切なものやないんですか?」
「そうやなぁ。あん人が生きとる時は、おばちゃんにとっても大切やったな。おばちゃんはあん人がこの、ジッポライターを使うてタバコに火をつける仕草が好きやった。そりゃ惚れ惚れする程、イケメンやった。その姿に惚れておばちゃんは嫁に来たんよ。けど、あん人は車の自損事故で死んでしもうてな。運転席に乗ったまま動かんようになったあん人の手にはそのジッポが握られとったんよ。タバコ吸おうとして、ちょっとばかし目を逸らしてしもうたんやろ。前を向いた時、中学生が、自転車で飛び出して来とったみたいで、それを避ける為にあん人は電信柱に激突したんよ。人間ちゅう生きもんはツイてない時はとことんツイてないものや。電信柱にぶつかってその、反動で車が左へ一回転してな、前を向いた時、丁度工事現場の資材の搬入しとってから、若い兄ちゃんが鉄筋を肩に担いどったんよ。で、その鉄筋がな、車のひび割れたフロントガラスを突き破って、あん人の顔と喉を突き刺してしもうた。けどな。あん人は偉いんや。鉄筋がフロントガラスを突き破ったと同時に、若い兄ちゃんを跳ねんようにハンドルを切ったんよ。もし先に車が電信柱にぶつかってなかったら、兄ちゃんも跳ねられとったらやろうって警察の人が言うとった。車のフロントがベッコリ凹んどったからその分、避けるスペースがあったんやと。けどな。悪いのはあん人や。古い車やったけど、フロントがベッコリ凹むくらいスピードを出しとったんやからな」
「何でそんなスピード出しとったんでしょうか」
話の流れからその理由は更に悲しさを引き連れてくるような気がして、雷鳥は聞いてはいけないと思ったが、思わず口から出てしまった。
「子供が産まれそうになってな。おばちゃん、救急車で病院に運ばれとったんや。知り合いがあん人の会社に連絡してくれてな。あん人は直ぐに会社を出て車で病院に向かっとった。そん時に事故を起こしたんよ」
話すおばさんの声が微かに震えているような気がした。
「事故死の知らせを聞いたんは赤ちゃんを無事出産して直ぐやった。喜びと悲しみが同時にやって来て、頭がおかしくなりそうやったわ」
おばさんはそういい笑って見せたが、何処か悲しげだった。
「なぁ、僕」
「はい」
「カエルの子はカエルっていうやろ?」
「はい」
「産まれた子供もあん人と同じように、同じ歳で同じ月に車で事故を起こして死んでしもうた。それも、スピードの出し過ぎでや。ほんま、嫌になるわ」
おばさんは目頭を軽く指で拭うと余計な長話してすまんかったねといい、僕の手を取ると、そこへあん人と呼んだおばさんの旦那さんが使っていたというジッポライターを握らせた。
「いいんですか?」
「ええよ。けど、大人になってから使うんやで?勿論、タバコも20歳になってからや」
「吸うかわかんないけど」
「ま、僕が20歳の頃になったら、タバコを吸う人は殆どおらんよーになっとるかもな」
おばさんは最近の喫煙事情を話しだしたが、雷鳥には上手く理解出来なかった。
とにかく副流煙というのが人間の身体には良くないと言われているらしい。けどタバコ屋を営んでいるおばさんだからか、その確たる証拠やデータはないという話もあるんや、ま、おばちゃんはタバコ屋やから、バンバンタバコが売れたらええと思っとるけどなと言った。
雷鳥はジッポライターと石のお礼を言うとタバコ屋を後にした。
オイルと石の入った袋をキツく縛り自転車の籠に入れた。
貰ったジッポライターはポケットにしまった。帰り道、河原の土手に自転車を止め、遊んでいる人達を見ながらジッポライターを取り出した。
「おばさんの旦那は、これを握ったまま死んだんか。鉄筋が顔に突き刺さったって言いよったけど、それでもこのジッポは手放さなかったんは何でや。よっぽど大切やったんやろか」
雷鳥は1人呟きながら、おばさんとのありは会話を思い出した。
ジッポでタバコに火をつける仕草が素敵やったと。ひょっとしたらこのジッポはおばさんがプレゼントしたものかも知れない。
だからあん人は事故を起こし顔や首に鉄筋が突き刺さってもも離さなかった。おばさんに対する想いがあったからだろう。
雷鳥はジッポに鼻を近づけた。オイルの匂いに混ざり錆臭さが香った。
ジッポが古いせいかと思って角度を変えたりして見たが、錆びている箇所は1つも見当たらなかった。そうなると、この錆臭さは……つまりあん人の血がジッポに染み込んでいるのだ。
赤ちゃんにも会えず、おばさんにも会う事が叶わない中であん人はこのジッポに自分の気持ちを込めたのかも知れない。だから錆臭さ、いや、血の匂いがするのだと雷鳥は思った。
その後、何度も血の匂いを嗅いだ。これが人が死んだ時の匂いか。雷鳥は思わず表情を崩した。
リサイクルショップの社長が血塗れで死んで行く姿を思い浮かべニヤリとした。
ひょっとしたらと雷鳥は思った。確かあの夜、人影は焼け跡の中にこそ本当に美しいものがあると言ってなかったか。
そうか。つまりはこういう事なのかも知れない。
死に至る血を流す人間こそが美しいのだと。
そしてジッポに染み込んで取れないあん人の血のように、そこに、その場所に、絶対に消える事のない血を流し、記す事こそがその人間が美しくあった理由となるのかも知れない。
そうか。その為に炎が必要なんだ。死んだら火葬場で焼かれるけど、そこには死んだ人の証となる血は存在していない。
だから人影は血を流させ記し、そこに火をつけるのだ。燃やすというのは火葬場の役割りを果たしているのかも知れない。
だから焼け跡に残った死体が、そこで流した血が美しいんや。ここで生きたという証の血が刻まれているからだ。
雷鳥は立ち上がった。お腹はまだ空いていない。
家に帰り、どうやって社長の自宅を見つけるか考えようと思った。
自転車に跨り、漕ぎ出そうとしたその時、河岸の伸びた雑草の中から人が出て来た。
よく見るとその内の1人は弓弦だった。雷鳥が声を掛けようとした時、もう1人雑誌の中から出て来た人がいた。
雷鳥は上げた手を下げ、もう1人の顔を確かめた。あいつは確か……
弓弦と一緒にいたのは冴木守親だった。
2人は何やら話していた。楽しそうには見えなかった。ひょっとしたら弓弦はあのグループの奴等から何か文句を言われているのだろうか。
もし、そうなら許さないと雷鳥は思った。けどそれ以上に何故か今、ここで会ったらいけない気もした。
何故なら、冴木守親に呼び出されたのなら僕やヒヨリに話す筈だからだ。
僕にはあれだけ隠し事をするなみたいな事を言っていた張本人の弓弦が僕の知らない内に冴木守親と会っているのは何か理由がある筈だ。
だから今、自分が2人と会う訳にも見つかる訳にもいかないと思った。
雷鳥は急いで自転車のペダルを踏み込んだ。スピードの出し過ぎだと言われるくらいに自転車を漕ぎ、その場から立ち去った。
その時、河岸から土手を見上げていた佑月の姿があった事を、この時の雷鳥はまだ知ることはなかった。




